James Setouchi
2025.1.18
金田力『ハノイの寺 ベトナムの仏と神をたずねて①』創土社 2016年
1 金田力 2000年定年ののち2001年「ベトナム大好き」というグループを立ち上げるべくベトナムのハノイに来てベトナム語の勉強を始める。2016年現在ハノイ在住。現地では寺院・神社への案内も行う。(本の著者紹介から)
2 『ハノイの寺』
ベトナムのハノイにある仏教の寺院を、写真付きで紹介する本。
私はハノイに行ったことがない。仏教には関心がある。ベトナムは社会主義国(だったはず)なので、仏教がどうなっているか、気になっていた。たまたまこの本を見つけたので、めくってみた。
写真が多い。カラーで大変綺麗だ。ハノイにある様々な寺院を、門や中の仏像などを含め何枚かの写真で紹介し、多少の紹介をつけてある。著者はハノイが大好きなのだろう。
なぜ仏教を信じるのか? 社会主義との関係は? などの問いは深められていない。だが、何も知らない私には、ハノイの仏教事情を覗き見る一つの機会ではあった。
「はじめに」には、「ベトナムの人びとの信仰心の篤さ」は変わらない、「ベトナム人の7割は仏教徒」「どこの寺でも仏像の他に道教、儒教の神像と聖賢像が祀られている」「寺は学校であり善を伝える場所だった」とある。
「第1章 ベトナムの仏教」から少しまとめてみる。
・仏教の中国への伝来は1世紀頃か。ベトナムへの仏教伝来はそれよりも早く、インドから直接、海路と陸路で為されただろう。
・2世紀末頃、交州がベトナム仏教の中心となっていた。インドから来た僧侶や商人が沈香を炊き、経を読み、仏を祀り、交州の人々に仏教を広めた。
・後漢末、中国では反乱が続き、北方から難を逃れて多くの学者が交州に来た。特に思想家・牟子(ぼうし)だ。牟子は仏教を極め、儒仏道三教の一致を説いた。当時僧侶は赤い袈裟(けさ)を着てサンスクリット語で仏教を学んだ。
・隋の文帝の時代(7世紀はじめ)、隋朝は交州での寺の建立を奨励した。唐代に交州は安南と改称された。
・インドからベトナムの交州に最初に入ってきたのは、南伝の上座部仏教(いわゆる小乗仏教)だった。当時のベトナム人の信仰は土着の多神教で、雷神、稲妻神、雨の神、山の神、川の神、竈(かまど)の神などなど。仏教はこれらと混淆する形で広がった。
・この後、中国から北伝・大乗仏教の一派である禅宗の僧侶が来て、仏教の普及に力を入れた。ベトナム、特に北部では徐々に大乗仏教が主流になった。南部ホーチミン市では南伝・上座部仏教が多いようだ。
・儒教・道教も伝来したが、交州ではあまり浸透しなかった。中央から派遣された長官が押しつけようとしたので、交州人の反感を買ったからだ。
→(JS)別の或る人によると、黎(レー)朝以降は儒教が盛んになったとか。
・大乗仏教のうち、ベトナムでは、主に禅宗・密教・浄土教の三派、特に禅宗が最有力だった。
・禅宗は、3世紀半ば頃、姜曾会という名の僧が中国で禅を学んで帰り、ベトナムで最初に禅宗を普及させた。学識のある上流階級に好まれた。
・浄土宗は、4~5世紀にはベトナムに伝わったようだ。読み書きができない大衆が受容し、発展した。
・三派が対立抗争を繰り広げることはなく、外敵の侵入に際してはしばしば一致協力して立ち向かった。
→(JS)後の頁で、モンゴルや明や清と戦った英雄や戦死者が祀られているのを紹介している。民族意識が強いのだろう。民族主義と宗教の関係をどう考えるか? 寺が独立運動の拠点になった、と本文に書いてあった。(48、73頁など)
・フランスの植民地下、植民地政府はいくつかの仏教寺院を破壊し、カトリック教会や政府の建物に建て替えた。
・ベトナム戦争時には禅僧・釈広徳(ティックアンドック)が独裁政治を終わらせるべく「焼身供養」をしたことも(1963年)。
・戦後1980年代に入ってようやくベトナム仏教界も落ち着きを取り戻し、現在に至る。
・年に3回、仏の誕生(インド暦3月20日)、仏の成道(インド暦では10月の満月だが中国とベトナムでは12月15日)、盂蘭盆会(うらぼんえ)(陰暦7月15日)がある。
・毎月(陰暦)1日(ソック)と15日(ヴォン)には寺や神社に参詣するのが習慣。
→(JS)生活の中で生きているのだと感じた。
・ベトナム最古の寺は、2世紀初頭、現在の北寧(パックニン)省順城に建立されたザウ寺だと言われている。
・ベトナムでは歴史的に多くの寺が建立されてきた。1971年の永厳(ヴィンギエム)寺での鐘楼は日本の曹洞宗から贈られた。
・ベトナムの寺院には壮麗な伽藍(がらん)(僧侶が集まり修行する場所が本来の意味。寺院の建物群を伽藍と呼ぶようになった)はない。(永厳寺は例外。)
・ベトナムの寺院には「三観門(三関門)」という山門がある。大きな2本の柱の両側に小さな柱が建ち、寺に入る道は三つ。三観門の上には屋根。これが寺の表玄関。ハノイには三観門がない寺もある。周囲の環境が変わって取り壊さざるを得なくなったのか?
→(JS)日本の「三ツ鳥居(三連鳥居)」(オオミワ神社などにある)に似ている、と感じた。
・本堂の左右に護法像(向かって右が善像、左が悪像)がある。
→(JS)日本でも仁王像がある。神社には獅子・狛犬。ベトナムの「善」「悪」というのが面白い。善神が悪神を倒す、とまでは本書には記述していなかった。米の農耕の盛んなアジアではそのパターンが結構あるのでは。
・寺の屋根や壁などあちこちに魔除けのライオンの仔や虎符、四霊(鳳凰、龍、麒麟、亀)の彫刻がある。
・本堂内部は、信者の座る外陣と僧の座る内陣に分かれている。
・奥の高いところには本尊など仏像を安置する三宝(須弥壇=しゅみだん)がある。4~6段あり、そこには多くの仏像がある。同じ堂内に、道教・儒教の神も同居している。
→(JS)日本でも神仏習合が普通だったので、各種宗教の聖像が祀られているところが多い。仏教に見えるが道教・神仙思想の神様では? というケースも多い。寺院と神社が併設されているのはフシギ、と或るヨーロッパ人観光客が言っていたが、アジアでは当たり前、と考えた方がいいのでは? インドではムハンマドや基督もヒンドゥー教寺院で祀っている。
・最上段は三世観音像。過去像・現在像・未来像の三世像だ。
・大きな寺ではさらに三神像、三宝像の祭壇も追加する。
・三世像の下には阿弥陀三尊像(阿弥陀如来、右に大勢至菩薩、左に観世音菩薩)。
・その下に釈迦牟尼像(世尊像)。その両隣に文殊(もんじゅ)菩薩(獅子に乗る)と普賢(ふげん)菩薩(僧に乗る)。または両隣は迦葉(かしょう。釈迦第一の弟子)と阿難陀(あなんだ。釈迦の従兄弟で従者)。釈迦の像は、釈迦の生涯の場面に沿って、4種類の姿勢で作られる。九龍像(誕生時)、雪山像(ヒマラヤで難行苦行)、説法像(得道し座して説法)、涅槃(ねはん)像(涅槃の域に達した姿)。
→(JS)阿弥陀三尊や釈迦三尊の基本はやはり同じなのだな・・と思った。
・釈迦牟尼仏像の下の段に弥勒(みろく)菩薩像か准胝(じゅんてい)観音像(子授けの御利益)。
・本堂後方に僧堂(後堂)と呼ばれる建物が続く。儒教や道教の神々や聖母たちを祀る、歴代住職を祀る、信徒の故人の写真を飾るなど。(位牌堂や墓地はない。)
・聖母信仰は盛ん。中国道教に端を発し、ベトナムで独自の発展を遂げた。玉皇上帝が統括する府には天地水の三府がある。それぞれ上天聖母、地仙聖母、水宮聖母が司る。それに山岳・高原・森林を象徴する府・上岸聖母を合わせ、四府として信仰されている。(ベトナムでは三という数字を好まない。)上岸聖母を祀る祭壇を山荘(サンチャン)と呼ぶ。
・寺には僧侶が住んでいる。いつでもお邪魔できるが、昼時間は割けた方がよさそう。旧暦1日と15日はお参りの雛ので一日中開けて信者を待っている。
→(JS)私はベトナムの歴史と現在についてほとんど知らない。本書を見る限り、ベトナムの仏教は、(東南アジアは南伝・上座部仏教が多い(タイなど)はずだが、)ベトナムは中国に近いからか北伝・大乗仏教(しかも禅宗)が優勢だ。しかも儒教道教なども混淆した形で祀られている。
社会主義国のはずだが宗教が生活の中に根付いている。ドイモイ政策以降解禁されただろうとは想像に難くないが、それまではどうか。太平洋戦争やフランス統治下では独立運動の拠点になったので社会主義政権下(特に北ベトナム)でもあまり弾圧されなかったということか。(教会が体制側・守旧派だった国では革命後弾圧された例も多い。)ベトナム戦争時はどうだったか。
本書はこれらについて詳しくは書いていない。それを書くのは本書の任ではない。だが、問いとしては色々出てくる。例えば一向宗弾圧や廃仏毀釈のようなことは起こっていないのか。中国やフランスなど超大国との対抗上寺院が民族主義的抵抗運動の拠点になったのだとしたら、外敵の襲来が少なかったから日本ではそうならなかった、という説明になるのか。現代ではグローバル化で外国勢力に直接さらされているので、神社仏閣がナショナリズム・抵抗運動の牙城になるのか。(そう言えば神*連盟や日*会議はそうかも。)だが、宗教は民族主義や国家主義の拠点であるべきか?(宗教と政治の関係。大問題だ。)こうした議論は本書は行っていない。
それ以外にも、寺院に墓はないそうだ。では、どこにあるのか。(実は日本でも奈良仏教の薬師寺などには墓はない。今はお葬式を寺院がやってくれるが、仏教は本当は生きる為の教えであって葬儀のための教えではない、とよく言われる。葬儀と先祖供養をするのは、儒教ほかの影響と言われる。)死生観はどうか。禅宗が入っているということは法華経も読むだろうが、宮沢賢治のような人もいるのか。密教についての記述はなかったが、どんな密教なのか。などなど。しかし、それらは別の本で勉強しないといけない。
本書が力を注ぐのは、ハノイの各寺院の写真の紹介だ。このブログでお見せできないのが残念だ。日本の古い寺院の黒っぽい焦げ茶色の印象(白鳳時代や天平時代には金ピカの仏像だったかも知れないが)に比べ、ハノイの寺院は白・黄・赤などで明るく極彩色だ。仏像がごちゃごちゃと多数詰め込まれた風情なのも特徴的だ。仏像のお顔も日本のそれとは少し違う。(似たものもある。)三観門は特徴的。関心のおありの方はこの本か、あるいはブログでも親切な方がベトナムの寺院の写真をアップして下さっているかも知れないので、御覧になられるとよろしいかもしれません。
現地に行かれて寺院を訪れる際には、現地で真面目に信仰しておられる方々に失礼の無いようにすること(フラッシュ撮影は遠慮するとか、暑いからと行ってビーチに行くような格好でアイスをなめなめ行ったりしないとか)は当然のことと思います。各種旅行社などが注意事項を書いてくれています。
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佐々井秀嶺というお坊さんがインドで差別された貧しい人たちと共にいて仏教を振興し生活の援助も行ってきた、というTV番組を見たことがある。偉い人はいるものだ。彼は龍樹(大乗仏教)の夢を見られたそうだが、インドは上座部仏教のはずだったが、どうなのだろうか。
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ベトナムには仏教信仰が根付いていて人びとが穏やかに暮らしているのだろうな(植民地時代やベトナム戦争は悲惨だったがそれを乗り越えて)、という印象だ。だが、(日本の昔も同様なのだが、)多くの人びとが穏やかに暮らしていても、ムラ社会(都会であっても)からはじかれた人が生かされる道はあるのか? という問いを持った。ムラからはじかれた者を阿弥陀如来は(キリストは)見棄てない。日本にはこのロジックが(一応)ある(はずだが、本当にあるか?)。ベトナムでもあるべきはずだが・・?! ムラの論理と社会主義の論理と、宗教の論理とは、どう関係してくるのだろうか? (2025,1,19付記)