James Setouchi
2025.1.18
読書会資料 『宇治拾遺物語』R7.2.8(土)9時半~
2月8日(土)『宇治拾遺物語』から、1-12「児のかい餅するに空寝したる事」、2-7「鼻長き僧の事」、3-6「絵仏師良秀家の焼を見て悦ぶ事」は必ずやり、他のどれかもやる。
*『今昔』は文庫で何冊もあるので買うと高い。『宇治拾遺』なら角川ソフィア文庫一冊で買いやすい。
*2-7は芥川『鼻』、3-6は芥川『地獄変』の言わば元ネタ。(厳密には『鼻』は『今昔』からか。)関係する芥川の短篇も読んでおくと話が広がるかも知れないが、必須ではない。
1 説話集とは?
『今昔物語』『宇治拾遺物語』などなど。中世に多い。
平安盛期の『源氏物語』など日本の古典の物語と比べると、
・物語は、高級貴族たちが主人公、長くてストーリー性がある、作者は紫式部など貴族の女性が多い。
・説話は、僧、武士、漁師、貧しい女、地方の人などが主人公、短いハナシを沢山集めてある、あちこちにあった短い話を拾い集めた編集者はしてリライトした人は男性が多いと思われる、『今昔』は「今は昔」で始まる→説話であって歴史ではないと明示している、文法も平安末から鎌倉以降にかけて音便が増えるなど平安盛期から変化している。
などと言われる。
文学史でしばしば言われるのは、平安盛期に平安貴族の物語文化が頂点になり、それ以降も物語は作られるが、物語とは違う作者が文学の担い手になり、物語とは違う登場人物(地方の人や身分の低い人)を登場させている。新時代に台頭してきた人々を都の知識人が驚嘆の目で見つめて描いた、という例もありそう。
『今昔』世俗部や『宇治拾遺』は、教訓にせず、言わば短篇の物語とし、判断は読者に任せる。対して、『十訓抄』などは教訓。鴨長明『発心集』や無住『沙石集』などの仏教説話集もある。まず珍談奇談がありこれに仏教のイデオロギーが加わったのか、仏教を説くために珍談奇談を作り上げたのか? は、研究の余地がありそう。
2 『宇治拾遺物語』とは?
鎌倉時代(13世紀)成立か。『今昔物語集』と同じ話も沢山ある。文庫本で1冊。
序文をそのままとると、宇治大納言源隆国(~1077)が聞くままに書きつけた『宇治大納言物語』というものがあり、インドや中国や日本の様々な話があった。これに多くの人が追加をし、『大納言の物語』にもれたものや後世のことを書き集めてできたのが『宇治拾遺物語』だ。(序文自体が創作との見方もある。)
研究者によれば、『宇治大納言物語』なるもののあと、編纂態度の違う『今昔物語集』ができた。後世『宇治大納言物語』と『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』が同一視されたこともある。『古事談』(1212年以降編纂か)も『宇治拾遺物語』に似ている。『宇治拾遺物語』は、1180年東大寺焼き討ち以降1195年東大寺再建以前の12世紀終わり頃にひとまず成立し、1215年以降、1242年以降の2回は加筆があったのではないか、と角川ソフィア文庫の中嶋悦次は考察している。
全15巻で197話とされるが、そうでない形の本もある。
『今昔物語集』は全31巻で、岩波文庫なら全4巻で買える。本朝部、天竺部、震旦部があり、それぞれに仏法部と世俗部がある。「今は昔」で始まる。「・・となむ語り伝へたるとや。」で終わる。
『宇治拾遺物語』は全15巻で、角川ソフィア文庫なら全1巻。日本の話の他に、天竺(インド)、震旦(中国)の話もある。「昔」「今は昔」「これも今は昔」などで始まる。末尾も自由。
3 芥川龍之介と『宇治拾遺』
芥川龍之介は『芋粥(いもがゆ)』『鼻』『地獄変』を『宇治拾遺物語』からとった。(『羅生門』は『今昔』から。)一高か東京帝大国文学科で、芥川(本人は英文科)が在学中(一高は明治43~大正2,帝大は大正2~5)に丁度日本の古典文学をテキストとして扱ってよいことになった(それまでは扱うべき文章ではなかった。誰でも読めるから)と聞いたことがあるが? もちろん題材は古典からとりつつ自分独自の近代小説に変えてしまうのが芥川の腕だ。
4 巻1-12「児(ちご)のかい餅するに空寝(そらね)したる事」(『今昔』にはないようだが?)
・教科書によく載っている。高1のはじめに学習することが多かった。
・比叡山延暦寺は今の東大、「児(ちご)」は高級貴族の子?、「かい餅」は、かきもち、おはぎ、そばがき?
・僧たちは何をどうして笑ったのか? 好意的な笑いか、悪意の嘲笑か? 僧や児を語り手にしてリライトできるか?
5 巻2-7「鼻長き僧の事」(『今昔』28-20)
・芥川『鼻』
・「内供」は宮中に奉仕する内供奉(ないぐぶ)十禅師。彼は最高ランクの僧侶。当時僧侶は官僧で彼はいわば政府に近い東大教授。
・禅珍または禅智。
・池尾は宇治にある。結構山のようだ。今はダム湖がある。
・「真言」は密教の加持祈祷の呪文の意味だろう。真言宗とは限らない。天台宗も密教化していた。
・禅珍内供は密教の仏道修行と加持祈祷にすぐれ、依頼主も多く、寺は繁盛していた。
・この鼻の長さは、手塚治虫の『鉄腕アトム』のお茶の水博士の鼻になったかどうか? 鼻が長いのは『源氏』末摘花でも笑いものにされている。
・「つかひける童」は、この僧に仕える童子。いずれ僧になるのか。未剃髪の召使いで、上童子、大童子、中童子、それより年少の童子、とランキングがある。ここは「中大童子」なのである程度年長か。「僕ならやれます」と志願して、最後は憎まれ口をたたいているので、反抗期以降くらいの年齢? なお、仏の王子(菩薩)、仏や菩薩に仕える者なども「童子」と呼ぶ。酒呑童子などもいる。
・内供は何を気にしていたのか?
・人々は嘲笑? 内供はなぜ嘲笑された? 嘲笑する側が意地悪?
6 巻3-6「絵仏師良秀 家の焼を見て悦(よろこ)ぶ事」(『今昔』にはなく、『著聞集』や『十訓抄』にある)
・芥川『地獄変』
・場所は京都か。
・不動尊は不動明王。密教・修験道でよく出てくる。大日如来の化身? 剣と炎が特徴的。ヒンドゥー教シヴァ神由来と言われる。インドの神は仏法の守護神となった。
・良秀は『十訓抄』異本では明実とも。
・仏画を依頼したパトロンは誰?
・見ようによっては不動明王の霊験を讃える話。芥川は芸術の話にしたが、宗教信仰の話かも。信心を家族より優先するとは? 考えるとシビア。
7 巻1-18「利仁署預粥の事」(『今昔』26-17)
・芥川『芋粥』
・利仁将軍は醍醐帝頃の人で、民部卿鎮守府将軍藤原時長の子。国司を歴任。将軍には、征夷大将軍以外に征東大将軍、征西大将軍、鎮守府将軍などがあり、彼は鎮守府将軍。高名な武人。越前国の敦賀の有仁の聟になった。このとき藤原基経(関白になった人)に伺候したか。
・「大饗」は大臣が任ぜられたとき殿上人を饗応する行事。そのご馳走のあまりを外に出し、身分の低い者はそれを貰える。
・五位は、律令では五位以上が貴族。
・高島は琵琶湖西北部にある。中江藤樹も住んだ。近江商人・高島屋のルーツ。
・狐をも使役するとは!?
・越前国敦賀は、渤海との窓口で、平安時代栄えていた。松原客館もあった。NHK大河ドラマ『光る君へ』でもやっていた。本節の有仁がなぜ富裕だったかはワカラナイ。
・都会で窮屈な勤め人をするか、田舎でゆったり暮らすか?
・武将のすごさを伝える話?
8 他にこんなのもある。インドや中国の話から少し。
(1) 巻13-14 「優婆崛多(うばくった)弟子の事」
やわらかくまとめると、インドで、釈迦の弟子でのウバクッタという聖人は、自分の弟子に「女性に近づくな」と教えていた。ある弟子が川を渡る時、流されそうな女性の手を引いて助けたが、煩悩にとらわれ女性の手を放さず、抱きついた。すると女性は実はウバクッタが変装したものだった。ウバクッタは言った、「この年寄りの法師に抱きつくとは、お前は女性に対してよこしまな心のない、聖者だ」と皆の前で大声で褒めた。人々は限りなく笑った。弟子はすっかり懺悔して、仏道に専念した。
(2) 巻15-10 「秦始皇天竺より来たる僧を禁獄の事」
中国で、秦の始皇帝の時インドから仏教の僧が来た。始皇帝は僧を牢に押し込んだ。僧が釈迦牟尼如来を祈ると、釈迦仏が一丈六尺の姿で紫がかった黄金の光を放って空から飛来し獄門を破って僧を救出して去った。獄吏がその音と姿を見た。始皇帝は報告を聞いて恐れた。仏法はのちに中国に渡来した。
(3) 巻15-11 「後の千金の事」
中国で、荘子が貧しく、隣家のかんあとう(監河侯?)という人に食事をもらいに行った。かんあとうは「5日後に千金が入るからその時来て下さい」と言った。荘子は「昨日溝のフナが『干上がりそうだ、少し水を下さい』と言うので、私は『数日後に江湖に行くのでそこで放してあげます』と言ったら、フナは『それまで生きられない。今水がほしいのだ』と言った。私も今何か食べたいのだ。後日の千金は役に立たない」とかんあとうに言った。
3月15日(土)は『枕草子』ではなく『竹取物語』(冒頭と、「かぐやひめの昇天」とは、必ずやりたい。他の箇所も?)
4月(日時未定)は『枕草子』(「春はあけぼの」は必ずやり、他もやる。「香炉峰の雪」「くらげの骨」「宮に初めて参りたる」が候補だが未定)