James Setouchi

2025.1.17

 

石井義長『空也』ミネルヴァ日本評伝選 ミネルヴァ書房2009年

 

1        石井義長 1932年東京生まれ。東大法学部卒、NHKに勤務。退職後東方学院・駒沢短大に学ぶ。東洋大博士後期課程修了。仏教文化研究所研究員。(本書の著者紹介から)

 

2 『空也』ミネルヴァ日本評伝選

・空也上人(903~962、平安時代中期)についての評伝。空也は恵心僧都源信よりも先輩で京の町で念仏を行い「市の聖(いちのひじり)」と呼ばれたので有名。私は空也について念仏の徒であり市井での隠遁を行った人というイメージを持ち関心があったが、教科書的な知識しかなかったので今回読んでみた。本書は著者が頑張って各種資料を渉猟し、従来の空也像に訂正を迫ろうとする労作。著者が重視するのは『空也上人誄(るい)』と一遍所有とされる空也の文章だ。

 

(1)      目次は次のようになっている。

 はしがき、第一章 弥陀の名を唱え、般若を求索す、第2章 極楽往生を説く仏教、第三章 『空也上人誄(るい)』、第四章 生涯と行業、第五章 空也仏教の思想、参考資料、鮟鱇文献、あとがき、空也上人略年譜、索引

 第一章は空也についての概観、第二章は浄土教史の概観、第三章は『空也上人誄』という書物について述べている。

 以下、このうち第四章と第五章を簡単に紹介しながら感想を付け加える。

 

(2)      第四章 生涯と行業

『空也上人誄(るい)』(源為憲が空也の亡くなった972年に書いたと考えられる)ほかにしたがい、空也上人の生涯を押さえる。*「誄」とは故人の業績と遺徳を讃え霊前に捧げる文章。

・空也は、出自不詳。皇統との噂がある。

 

・少壮の頃、「優婆塞(うばそく)」(在家の仏教信者)として各地をめぐり人々のために道を広げ井戸を掘り、死者を焼いて阿弥陀仏の名を唱えた。

・行基は大規模な事業をしたが、弱年の空也の事業は小規模だったろう。

・「南無阿弥陀仏」と唱えた、宗教儀礼を行った、と解釈されがちだが、まだそこまでではなく、「山の念仏」の影響を受けた「唱名」だったのでは。

 

・尾張の国分寺で出家した(「沙弥」となった)。「空也」を自称した。まだ「」ではない。

・国分寺が鎮護国家の仏教だったこと、僧が妻帯し商売をしていたことを嫌い、播磨の揖保(いいほ)の峯合寺(姫路市にある)に籠り数年間一切経を読んだ。

・一切経の中で空也が「称名念仏→往生」「一念往生」の思想をどこからつかみ取ったか、わからない。後年の事跡から逆算すると、善導大師の『往生礼讃偈(げ)』(『六時礼讃』)飛錫(唐代、8世紀頃。善導の流れ)の『念仏三昧王宝論』また『法華経』の「常不軽(じょうふきょう)菩薩品」などからつかんだのだろうか。*『往生礼讃偈(げ)』は別名『勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃偈』。一日を六時に分け、西方阿弥陀仏を礼拝し衆生とともに安楽国への往生を願うもの。*「常不軽菩薩」は、相手を決して軽んぜず仏になる存在として礼拝する、という菩薩行を行った菩薩。

・山を下り紀伊水道の湯島(阿南市)へ。ここは補陀落渡海(ふだらくとかい)の観音の霊地でもあった。ここで如意輪観音(にょいりんかんのん)の小呪を唱える苦行を数か月続けたのだろうか。*補陀落渡海とは、観音の浄土である南方の補陀落山へと船出する行為・足摺岬や熊野から船出する例が知られている。補陀落はポータラカでありチベットのラサのポタラ宮もこれにちなむ。*如意輪観音は観音菩薩の変化身の一つ。

・その後東北地方へ。背に仏像と経論を負っての旅だった。会津盆地にも行ったという。

・後世、鹿皮の衣に鹿角(わさづの)を杖とした空也像が語られる。空也が念仏を勧め多くの人が従った、という空也堂系の伝承は、時宗の寺が建った鎌倉末期には成立し、空也念仏僧の地方布教の中で東北にももたらされたか。*時宗は一遍を祖とし踊り念仏をする宗派。

・空也は恐らく念仏の唱道をしながら、道を補修し橋を架け井戸を掘り、遺骸を供養しただろう。が、共同社会的な土着信仰の強い辺境の地には、あまりにも革新的であったので、布教には限界があったに違いない。(135頁)

 

・空也は平安京に戻った。一時右京区の愛宕山月輪寺あたりで坐禅行をしたとの伝承もあるが、「山中がものさわがしい」と、市中に住み、乞食し、仏事を行い、貧患にも与えた。市の聖(いちのひじり)」と呼ばれた。彼は易行(いぎょう)の念仏を勧めた。このように伝承は言う。空也の営みは人々の共感と支持を得て、世を挙げて念仏をするようになった。

・ここでかつての阿弥陀仏の名を唱えるだけでなく「南無阿弥陀仏」と絶えず唱え、人々にも勧めた。

・「一たびも南無阿弥陀仏という人の 蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」の歌を空也は市門の卒塔婆(そとば)に掲げた。この歌は藤原公任の私撰和歌集『拾遺抄』に載っている。

・慶滋保胤(よししげのやすたね)(『日本往生極楽記』の著者)と彼に近い恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)は、「下品下生」の悪人が臨終の称名1回で極楽往生するとは考えていなかった。が、空也は、一度だけでも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生する、と説いた。(159頁)日本浄土教の長い歴史の中でも画期的な、金字塔というべきものだ。*「下品下生」とは、中国渡来の、人間を「上品上生」から「下品下生」まで9品等に段階分けする思想を仏教に応用したもの。ここで空也は「下品下生」に生まれついた者でも救われる、とした。

・空也は南都興福寺で観想念仏(阿弥陀仏の極楽浄土を観想するなど)の研鑽(けんさん)をしたかもしれない。*観想念仏は口称念仏よりも難度が高い。

平安京の東市の中心部空也開基の市堂(いちどう)がある。事実とすれば、官民の強い支持あってのことに違いない。近くに市姫神社(その本社的な存在が松尾大社)がある。

・空也は阿弥陀聖(あみだひじり)であると同時に法華経の持経者だった。既成教団に属せず民間仏教者であり続けた。

 

・やがて空也は天台宗比叡山延暦寺得度受戒(とくどじゅかい)正式な大僧になった。948年、空也46才のとき。光勝という名を貰ったが、本人は沙弥・空也の名を改めなかった。(193頁)

・空也はやがて活動の拠点を平安京外の東山六波羅(ひがしやまろくはら)に移し、天暦5年(951年)ここに西光寺を建て、のちこれが六波羅蜜(ろくはらみつ)寺になった(応和3年=963年の大般若経(だいはんにゃきょう)供養会(くようえ)を起点とする異説あり)。貴賤に勧進して金色の十一面観音像、梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)・四天王の六天像を造った。衆生の現世利益(身に病なく)と後世の極楽往生を祈願するもので、空也において南無阿弥陀仏の称名念仏と同一の衆生済度の菩薩行だったろう。

 

金字の大般若経600巻の供養会では延暦寺、興福寺、清水寺などの僧たちが中心となって般若・空(くう)の教義のもとに一同に集会した。空也はただの踊り念仏の祖、というだけではなかった。大般若経399巻の法湧菩薩の説く「一切皆空の悟りの般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)を、世の人々に示したいという念願が空也にはあって、長年努力してきたのだ。(228頁)

・この供養会では『十二光仏讃』という讃偈も唱えただろう。供養会の『願文』は「上品上生」の極楽往生を願っている。(232頁)

 

・空也は晩年西光寺に住み静かな精進の日々を送っていたろう。若き日の恵心僧都源信が晩年の空也に会ったとは鴨長明『発心集(ほっしんしゅう)』にある記事。史実かどうかはわからないが、後世の人々は空也→源信と位置づけた。

・藤原師氏という貴族が亡くなったとき、空也は閻魔(えんま)大王に師氏を優遇してほしいと依頼する書状を棺の前で読み上げさせたという。これは、呪術的な密教修法に傾きすぎた天台僧らに対する空也の挑発だったかもしれない。*天台宗も真言宗も密教化していた。

・空也は天禄3年(972年)9月11日に西光寺で入寂した。見事な「上品上生」だったと慶滋保胤『極楽伝』は記す。「極楽に帰り去りぬ」と。

・六波羅蜜寺では民衆結縁(けちえん)の教化活動を盛んに行った、と言う。*「結縁」とは仏法が人間と縁を結ぶこと。

 

・空也は体系的著作を残さず、弟子集団を育成せず、持続的な寺院組織を確保することもしなかった。一遍上人同様の本人の「閑居の隠士」への志向と、当時の南都北嶺(なんとほくれい)のせめぎ合いの状況という時代的制約のためだろう。しかし巷間(こうかん)の念仏行者・念仏聖たちは空也の称名念仏を伝え広げていった。

・阿弥陀聖が京の町を遊行(ゆぎょう)する声を聞き、選子内親王は「あみだ仏ととなうる声に夢さめて 西へかたぶく月をこそ見れ」(『金葉集』)と詠んだ。

 

(3)      第五章 空也仏教の思想

 空也の書いたものは十分に残っていない。著者は、金字大般若経供養会の「願文」、一遍『聖絵』に見る空也の文章、空也に関する各地の伝承、空也の事跡などから総合的に思想を追う。

 

 金字大般若経供養会の「願文」を参照すると、空也は、峯合寺の一切経の中から、次の思想を探り出したと言える。

一切衆生を利益するための般若の仏智

その仏智を現実の衆生の救済に結びつける方便としての、阿弥陀仏の慈悲に信依する極楽往生の福音とそのための念仏の教え

・ここには、聖道門としての悟りの弘法と、浄土門としての他力安心の道が混在している。そこに通底しているのは、一切衆生を利益したいという空也の菩提心だ。(297頁)

 

 また空也は平安京で東市で人々に対し念仏教化を行った。『念仏三昧宝王論』に学び一念で悪人も往生する、と考えた。市堂で阿弥陀浄土や観音の補陀落山浄土の図を人々に示し仏事を行った。現世の利益と安穏、来世における善処往生と安楽を祈願する集団の行儀が為されたに違いない。(善導大師も『阿弥陀経』十万巻を写し浄土図を画き、これらを人々に配ったという。(301頁))

 

 また空也は大般若経供養会では「上品上生」の人の極楽往生を祈願した。「上品上生」の人とは、菩薩戒を修して大乗経典を読誦し仏法僧戒施天を六念する人が、阿弥陀仏をはじめとする聖衆の来迎を受ける最上の往生を遂げること(302頁)。同時代における保守的な往生祈願だ。「どんな悪人でもただ1回の念仏で往生する」とする先の思想とは矛盾するようだが、貴賤上下の人々のために多種多様な作善の行儀を採用したのは、彼を取り巻く「時代の要請としての慈悲の方便」だった(303頁)。

 

比叡山で行われていた「山の念仏」が市井に降りてきた、と従来考えられがちだったが、そうではない。山口光円氏の論考を参照すれば「山の念仏」では漢音で「阿弥陀仏(あびたふ)」と唱える。「南無阿弥陀仏」の称名と同じとは考えにくい。(第二章、61頁)賀古の教信(~866。空也以前の人)について、空也以前の念仏に生きた先人として位置づけられることが多いが、実は後世の説話的創作だ。慶滋保胤および平林盛得氏の論考による。称名念仏は空也に始まる。(第二章、64頁)・・(以下JS)このように著者は述べる。その当否を判定するだけの者は私は持っていない。親鸞も比叡山の西塔の常行三昧堂で20年間念仏を唱えていたが、比叡山を下りて法然に入門してからの念仏は、それとは違ったものだよ、となるのだろう。*「南無」とは「帰命・敬礼・信従」などと訳す(61頁)。賀古の教信は播磨の国加古川あたりに住んだ念仏者。)

 

 

 龍樹(200年頃)も本来は不惜身命の精進を為すべきだが、致し方なく易行道の門も開かれているとした。空也の後の恵心僧都源信も『往生要集』では観想念仏(阿弥陀や極楽を思い浮かべる)が優先だができない者は「一心に称念すべし」とする。また称名10回で往生できるが「五逆」の悪人は不可とする。最晩年の『阿弥陀経略記』では一心に念じて深く信じて浄土に生まれようと願うことが往生極楽の綱要だとする。このあとの法然(1200年頃)は「選択本願念仏」を説いたが弾圧された。このように、空也の到達した念仏は、時代の限界に制約されていた(と著者・石井義長は述べる)。(303~305頁)

 

 のちの一遍(1200年代)は、(『一遍聖絵』によれば、)信濃国を訪れたとき、空也の持っていた文章を示したという。その文章では『法華経』の文言を踏まえ空也が自らを如来使と位置づけていたことがうかがえる。空也の念仏道は『法華経』の菩薩行と一体のものであった。(305~307頁)*「如来使」とは仏の使者。

 

 また空也には「閑居の隠士」への志向があった。一遍も同様だった。一遍は伊予の河野氏の出身で、空也を念仏の祖師と信奉した有力な人々が一遍の同時代に存在し、一遍は幼少時から空也上人像(松山・浄土寺。今は四国八十八カ所霊場の一つになっている。この像も口から阿弥陀仏6体が出ている)を見て育ったかもしれない(316頁)。*河野氏は中世の伊予の豪族。もとは風早の善応寺に本拠があった。辺りには古墳もあるが、河野氏とどうつながるかは知らない。なお今村翔吾『海を破る者』は元寇における河野氏の活躍を描く。一遍上人も出てくる。

空也の市井の念仏勧化を継承した阿弥陀聖たちの活動が広がり、善光寺聖・高野聖たちと交流し、それらの聖を媒介として、空也の遺文が一遍に伝わったかもしれない。(317)

 

→(JS)ここでコメントを一つ。私は一遍についても辞書的な知識しかない。一遍は書いたものをすべて焼き、自身の著作が残っていない。一遍を慕う人々が遺訓を集め、また『聖絵』を描いた。すると後世の粉飾が入っていることは想像に難くない一遍像を、(相当量の書物が残っている法然や親鸞を追うようには)正確に追うことは事実上できない。上記の著者の記述も後世の伝承などを用いての想像に負うところが多いだろう。一遍が持っていたとする空也の「文」なるものから空也の実像を推定するのはかなりな力業だ。もちろん、伝承が力を持ち人を救済することはある。阿弥陀聖たちがそういう空也像を伝承し保持していたとすればそれはそれで重い

 

→(JS)もう一つ。法然・親鸞は念仏だけで往生すると考えた。そこに法然・親鸞の真骨頂があるとすれば、(本書の理解に従えば)一遍はそこからまた空也に戻った、ということになるのか。一遍はお札を配ったとされる。称名だけでなくお札も使う? なるほど。救済は既に決定している、そこに念仏やお札はいるのか? しかもそこに熊野権現が介在する。翻って考えてみると、実際には民間の信仰では雑然として各種の信仰・宗派が混在し、人々は神社仏閣をあれこれと参拝し御朱印やお守り札も頂く。それはそれでいいと言えばいいのだ。だが八十八カ所をめぐるにも体力と金力がいる。それもこれもできない「悪人」も、「十悪五逆」であっても、称名念仏だけで救われる、(『一紙御消息』『正如房へつかわす御文』)としたところは、法然はやはりすごい。

*正如房とは式子内親王だとの俗説あり。

*救済は向こうから来る。往生は既に決定している。では、念仏もお札も要らない? ただ安心しておればよい? そう説いた人がいるかどうか? キリスト教の救霊予定説の連想を持ち込んで解釈してしまっていないか? などを落ち着いて考察すべきかもしれない。なお聖書にも「主の名を呼ぶ者は救われる」の文言あり(使徒行伝2-21、ロマ書10-13)。他方イエスに向かい「主よ、主よ」と呼べばみな天国に入るのではなく、天の父の御旨を行う者だけが天国に入るのだ、ともある(マタイ7-21~23)。

 

→(JS)もう一つ。「時代の限界だった」という常套句を読み流しがちだが、立ち止まって考えたい。東北は共同体的な生活が強かったから、空也の説くところは受容されなかった(135頁)、都でも様々な作善の行儀を採用したのは「時代の要請としての方便」だった(303頁)と著者はする。すると、

 ①東北において、共同体からはじかれた人の救いはどうなるのか? 一方で思想が共同体を解体することはある(吉本隆明『最後の親鸞』はどうですか)、しかし他方で共同体からいやおうなくはじき出された人を救う思想があってしかるべきだ。東北でははじかれた人は救われない、でいいのか? 疑問だ。

 ②都では多様な救済の方法を用意した、という方向でかなり柔らかい表現にはなっているが、高級貴族が「上品上生」するのがまっとうなあり方で、無力な人は「下品下生」で致し方なく念仏にすがるしかない、という思想は、身分差別を肯定・温存する思想ではある。「時代だから致し方なかった」、なるほど。だが、その時代を変革することも利他業行・菩薩行でやってもらいたかった。高級貴族たちが「下々の皆さん」(Aもと副総理の言い方)の念仏踊りを見下し続ける、というのは、いかがなものか? 

 そう言えばアメリカの某鉄鉱会社の社長が日本人を見下す発言をしていたな(2025.1)。アメリカ人にも当然もののわかった優れた人は多いが、おかしな考えの人もまだ一部はいるということだ。日本の「上級国民」のみなさんよ、アメリカの愚かなエスタブリッシュメントにそうやって見下されて、うれしいですか? あなたが誰かを差別するなら誰かがあなたを差別する。そういう仕組みになっているようですよ。阿弥陀如来から見たらおかしな事態だ。(キリスト様から見てもおかしな事態のはず。)

 

 本署に戻る。

 有名な「捨ててこそ」は、鴨長明『発心集』や『一遍上人語録』にある(320~321頁)。安居院(あぐい)の聖覚(せいかく)によれば、法然上人は「空也の『十二光仏讃』は三論宗の書だ」と言っていたそうだ(329頁)。(空也と法然は少し違うわけだが、)空也の法語等を集めた『発心求道集』という書がある時期まで継承者たちに伝えられていた可能性はある(332頁)。

 

 以上から著者が考えるに、空也は『法華経』『大般若経』を尊崇し、衆生済度のために十一面観音を信仰しまた念仏権化を行った。曇鸞(どんらん。500年頃)は極楽浄土は無生・空の世界であり衆生の成仏のための方便だと説いた。空の世界における成仏は、般若の智恵を完成して無上の菩提を成就する涅槃と変わらない。空也はこの両面から仏の教えを自他のために実践する道を求めた。それは菩薩行だった。(333~342頁)

 

→(JS)ここは本文ラストで、著者が力を入れて書いているところ。

 だが、いろいろワカラナイところがある。

 「極楽浄土」は「成仏」のための「方便」(手段)だというのはいいとして、

「極楽浄土」は「無生・空」の世界であるのか? 「空の世界における成仏」は、「般若の智恵を完成して無上の菩提を成就する涅槃」と「変わらない」かどうか? 

そもそも「空(くう)」の世界とは何か? 私はここが弱い。大般若経を読んでみないとワカラナイのだろう。入門書を読んでもワカラナイ。そもそも釈尊は「空」を説いたのか?(初期仏教の研究。)それはいったん措くとしても、今から大般若経を全部読むのは多分無理だろう。般若心経は近所のおばあさん方も唱えておられるが、さてさて・・

 

 極楽浄土に往くことがアガリではなく、浄土に往った上で阿弥陀如来の下で何の妨げもなく思う存分修行して仏になる、と私はどこかで学んでいたはず(『無量寿経』法蔵菩薩の第11願。浄土の住人は「正定聚(しょうじょうじゅ)」ゆえ「必ず滅度に至り」すなわち次生には仏となる、とある。第22願にも「一生補処(ふしょ)に至らしめん」すなわち次は必ず仏とならせる、とある)(他に「極楽往生イコール成仏」という考え方もある)なのだが、本書の著者はそういう言い方はしていない。どうなのだろうか?

 

 この世で現実に苦しんでいる人たちは存在する。貧しい独居の高齢者や将来の不安な若者や生活に苦しむシングルマザーやシングル・ファーザー、また搾取やいじめは、現実に日本に存在している。災害も多い。世界には戦争も。これらを一つ一つ具体的に解決することなくして、「空」ですよ、と言えばそれでいいのか? というと、疑問だ。

 

 利他行・菩薩行で、道や井戸を作った、というのはわかりやすい。今なら国土省や厚生省が利他行の有用な柱を担う、となるのか。・・やっぱり田中角栄は偉かったのだ。日本海側を豊かにしたし困っている人を助けたと言われている。松下幸之助も世の中を(文字通り)明るくした。池田勇人(当時首相)も基本的には減税政策(自民党「党のあゆみ」による)で、その分富裕層には1962年(昭和37年)所得税の累進課税の最高税率を75%に上げた。マッカーサーとGHQも財閥を解体し農地改革をし男女平等とし労組を作らせた。彼らこそ衆生利益の菩薩行を行った、となるのか。神君・徳川家康も戦乱を終わらせ平和を作り出した。・・制度を変えれば助かる人は結構いる、ということだ。もちろん「人はパンだけで生きるのではない」。でも「パン」も要るのだ。

 

 「人はパンだけで生きるのではない」(キリスト)ので、空也が埋葬・鎮魂慰霊をしたのもわかる。(一応申し上げるが、池田勇人先生は若き日瀬戸内海の今治沖の大島で「島四国」遍路をされた。「パン」以外のものも持っておられた。)仏事を営み大般若経の価値を広く人々に知らしめてもいいが、金文字の大般若経(一点もの)は一般庶民には読めなかったのでは? (それでも、般若経系の経典というものが世の中には存在していて、これを学ぶことは価値がある、と後世にまで伝えんとしたとすれば、やった意義はあるのかも。でもそれを作るコストをもっと庶民の救済に当てるべきでは?)

 

 観音様の御利益を知らせると、知らされた側は希望が持てるだろう。心理が生理を変えることも多くあるので、病気も治り力強く生きられるようになるかもしれない。賢治のように利他行に励む人も出るだろう。

 

 念仏は、この世でダメなことも浄土往生を経て可能にする。あの世界には差別もない。いつでも好きな世界に飛び学んでゆくことができる。一日も一万年もない。時空を超える。この世に帰ってきて人助けをすることもできる。念仏は無力な人にとっての福音ではある。だが、浄土往生で行きつく先が「空ですよ」だとすると? ここから先が、私が今のところワカラナイ、としているところだ。浄土往生で阿弥陀如来の下で思い通りに修行して菩薩行にも励み最後は仏に成って自分の理想の仏国土を創建するとすれば、これはすごい。だが、「空」ですよ? ううむ、どうなのだろうか?

 

→(JS)親鸞は長命で60才を過ぎて関東から京に戻り『教行信証』を完成させたと言われているが彼は学究肌であって市井の人々と共に念仏したかどうか。また「自然法爾(じねんほうに)」の境地はいかなるものか。空也の「空」とどうか。

 今まで知らなかったのだが、植木等(あの「スーダラ節」の)の父上は植木徹誠といって浄土真宗大谷派の僧侶で、反差別・反戦運動を行い特高にマークされ何度も検挙・逮捕され4年間も投獄された、気合いの入った方だったそうだ。戦時中は真宗大谷派も戦争協力をさせられたが、反戦を貫いた人が3人だけあり、植木徹誠氏はその1人だったという。(『反戦僧侶・植木徹誠の不退不転 元来宗教家ハ戦争ニ反対スベキモノデアル』大東 仁・著、風媒社、2018年)(←「BOOKウォッチ」という本の紹介サイトで見た。)これくらい徹底していれば親鸞聖人も(阿弥陀如来も)お喜びになるだろう。なお「スーダラ」は「スートラ」つまり「お経」という意味だろう。