James Setouchi
2025.1.13
読書会『方丈記』(鴨長明)実施記録
2025.1.13(月)(祝)実施。担当:Y
1 木下華子氏(東大文学部)のレクチャーからいくつか
・大地震について、長明は「不思議」と記す。他の書では「政治の乱れ」「人々の罪業」「誰それの怨霊」「日本列島を取り巻く龍が動いた」などとある。→「政治の乱れ」「人々の罪業」「誰それの怨霊」などとすると、しかるべき因果関係で説明され、人為の論理に災厄をからめとり支配することになるが、長明はただ「不思議」と言う。
・福原遷都も他の災厄と同列で「不思議」。
・火事の描き方はルポ的ではなく鳥瞰的。当時の地獄絵図に着想を得たのでは。
などなど。
(意見)「『徒然草』の教訓は今も通じるが、『方丈記』を現代人は実感を以て読めるか?」「自分は閑居しているから分かる」「自分も山中に住んでいるから分かる」「遷都は、戦禍で逃げる難民を連想させる」「大火に実感があるか? と思ったが、堀田善衛の過『方丈記私記』で空襲と重ねて論じているのでなるほどと思った」「不思議、というのは浄土系の経典にはありそう」「日本列島を龍が取り巻く、という発想は、新海誠の『すずめの涙』にもある」
2 『方丈記』を読むときの視角
・『徒然草』は新時代を予感させるからいい文学、『方丈記』は懐古趣味でしかないから価値がない、とするのは、進歩史観からくる偏見ではないか?
・『方丈記』ラストの念仏を「2、3回・・」のところは、自己否定なのか、それなりに救済されているのか?
3 年表を確認した。著作『無名抄』(歌論)、『方丈記』(随筆)、『発心集』(仏教説話集)
4 地図を確認した。大原、下鴨、日野の位置関係。
5 冒頭「ゆく川の流れ」を読んだ。「リズムがよく対句も多い、作品として仕上げるつもりだったのでは」「誰に見せるつもりで書いたのか」「朝顔と露の比喩はしっくりこない」「いや、わかるけど・・」
6 ラスト近く「日野山の閑居」を読んだ。
・可動式の家とは。「『独立国家のつくりかた』という本があった。車輪付きの可動式の家なら固定資産税がかからない」
・阿弥陀三尊像ではない。しかし西方極楽浄土を見てはいる。
・建築の腕があったかも? 「体力のある人だ」
7 ラストを読む
・草庵生活5年目。
・大きな家、人間関係など要らない。身の丈にあったものだけあれば。
・「三界は心一つ」だ。住めばこの楽しみが分かる。
・だが草庵への愛着も執心ではある。自分は心は濁り、行いはチューラパンタカにも及ばない。なぜかと問うが心は答えてくれない。(チューラパンダカは、『天才バカボン』のレレレのおじさんのモデル。)
・「不請の阿弥陀仏」を二三回申して終わった。
(意見)「この時期長明は安定しているようだがそれでもここで自己否定をしているのか」「このラストでは肩すかしを食らった感じだ、と他の人も言っている」「冒頭が勢い込んで書いているのに比べれば、ラストは妙な終わり方だ」「ラストの解釈は難しい。ごまかしの解釈をしないので、人間的に誠実と言うべきか」「『心』という言葉のここでの奥行きは、知らない」「『心』は答えてくれない、自力には限界がある、しかし念仏を(こちらから要請したわけではないが向こうから来る)念仏をした、それも2~3回で「やみぬ」=「終わってしまった」。「やめてしまった」ではない、とする。それはそれでよいかな、と長明は思っているのでは?」「神主の出身だが、神道では悩みは晴れなかったのか?」「面白い問いだ。この時代、あるいは長明自身においてどうだったか、知らない。神社神道はお祭りはするが個人の内面的な悩みに答えるものではなかったのかも?」
7-2 ここで神道と仏教の話になった。
・「仏教が外来、神道が(神社神道が)土着」とするのは、明治初めの神仏分離・廃仏毀釈以降の思い込みで、実際には神仏習合で神道も仏教も一緒になって発展・展開したと言う方が正しい。明治初めの修験道禁止令では、当時人口3300万人なのに廃業した山伏が17万人いたという。宮中にも仏を拝む場所が合ったが、除去してしまった。今もないかも? 神仏分離・廃仏毀釈は「伝統」の破壊であり、明治の純粋国家神道のようなものは日本の「伝統」とは言えない。
・一例だが、江戸の神田明神(平将門を祭る)は、明治以降は朝敵として格下げされた。それで神田の氏子たちはガックリきた。このように庶民に根付いていたものを、明治の国家神道は、否定したのだ。
・密教は空海からだと思っていたが、奈良時代にも奈良古密教があった。それ以前は?
・『古事記』『日本書紀』はかなり後世のもの。どこまで史実かわかならい。
・役行者(600年代)は古い山岳信仰、古い密教、大陸渡来の(?)呪術のようなもの(道教神仙術のようなもの?)を渾然一体として持っていた? 修験道の祖のように言われるが、後世に神格化されているのでは。
・聖徳太子が600年ころなので、すでに大陸からいろんなものが入っている。道教神仙思想も。
・大陸から仏教という高度なものが入ってきて、それに触発されて、仏教寺院ではない大神宮をつくる、僧侶の位階ではない神職の位階を作る、仏菩薩を固有名詞で呼ぶように神々を固有名詞で呼ぶ、ということになったのでは? (神様に「・・ミコト」「・・ヒメ」などの固有の名前がついたのはいつから?)神社神道はそれからだろう。
・そもそも氏神様と土地の神様(産土=うぶすな=の神)は別。あるときから混同されたそうだ。
・大陸渡来の仏像は光り輝く蕃神として尊崇されたかも? ピカピカ光るものが海から流れてきたからすくい上げて尊崇した、とか。神は、折口信夫に言わせれば「まれびと(来訪神)」だ。外国の人?
・それ以前は? 古墳時代との関係は? 仮説だが、その土地の支配者の代替わりの儀式をやるうちに、人格神のようなものが立ち上がってきたのか? 誰かが言っていた。
・仏教公伝は6世紀と教科書に載っているが、私伝はもっと前だろう。朝鮮半島から北九州に来たのはいつ?
・卑弥呼の「鬼道」とは?
・結界を作りお祭りすると、イワクラやヨリシロに神々がお出でになる、ということだろうか?
・巨岩や暴風雨や稲光に神威を感じる、というのはわかる。「自然現象」の向こうに神様がいらっしゃる、というのもわかる。だが、そこから今の神社神道までは、ものすごく距離がある。
7-3 密教についても
・インドやチベットにも密教はある。前期・中期・後期と展開した。後期は土着の民間信仰と融合したと言われる。
・中国では道教神仙思想が強かった。また儒学があるのでタントラ密教などは歓迎されなかった。
・大日如来と自分が一体化するのが「即身成仏」なら、「自分」はある。「無我」ではない。空海は大乗仏教の無我説を否定して釈尊以前に戻ったのか?
・初期仏教のある研究者が、「釈尊は「無我」を説いてはいない、「非我」を説いた、つまりどの苦しみもその正体は自分にはなく自分でないものだ、と言った」と説明していて、自分には首肯できる説明だと思った。
・日本では東密・台密が隆盛。後醍醐天皇はある種の密教を奉じたとか。
・阿含宗の桐山靖雄が「念力で護摩の火を焚いたのは、空海と私ともう一人」と言っていた。阿含宗だと言うが密教的だ。
・オウムと密教はどう違うか。神秘体験だけではダメで、利他の志を持って言語化する努力が、オウムには足りなかった、という趣旨を髙村薫は述べている。(『空海』新潮社)
8 『発心集』から少し読んだ。
・善導は師匠の道綽よりも阿弥陀如来を見る力があった。「阿弥陀如来が志を深く持ち怠るな」と教えてくれた。
・源頼義は多く人を殺したが懺悔して浄土に往生した。八幡太郎源義家は無間地獄に落ちた。→義家は源氏の守り神だが、だからエライ、とは書いていない。
・恵心僧都が空也上人に会って「厭離穢土・欣求浄土」の思想に至った。
→徳川家康は阿弥陀如来に救われ九死に一生をえて「厭離穢土、欣求浄土」を旗印にし、この世で戦国を終わらせ平和な社会にしようと決意した。愛知か静岡の小学校でこれを校是にしているところがある。
・『方丈記』ラストを「長明は懐疑に陥った」と解釈すると『発心集』のこれらは禅寂(長明の友人、法然門下)が手を入れたかも、となる。いや、長明はラストで十分念仏の徒になったのだ、と見ることもできる。
9 堀田善衛の『方丈記私記』にも触れた。
(感想)「『方丈記』の大火と昭和20年の空襲を重ね合わせたのがすごい」「焼け野原になって、新しい時代が来るかと思ったら、何も変わらない。これはダメだと思った、というところが印象的だった」「戦後色々改革したが、地方の小ボスは温存された。イエやムラの上に自民党は乗っかっている。こういう説明を政治学で聞いた。今の自民党は都市型だが」「堀田善衛は進歩史観か」「「進歩史観は近代の人が主張した。進歩史観でないものに、中世キリスト教の世界観や、儒学の尚古史観がある。近代の進歩史観にも色々あるが、その一つがマルクス主義の歴史観だ」「戦前は皇国史観があった」「内山節(たかし)が進歩史観を批判していた」「内山は時間論で有名。近代の直線的な時計の時間軸ではない、例えば共同体の時間、自然の時間があるよね、と言う」「平安の和歌をもっと分かりたいが」「俊成・定家の時代の和歌は、現地に行って呼んでいない。摂関家の邸宅で、昔の言葉を使って、詠む。民が災害で苦しんでいても無関係。堀田善衛はそこを怒っている」「正岡子規の弟子の伊藤左千夫は「牛飼いがつくるとき世の中の新しき歌大いに起こる」と言った。アララギ派は万葉に帰ろうとした。昭和浪曼派は、貧窮問答歌などはきたない、きたないものを歌うな、とした。芸術は美しくさえあれば民の生活実態から遊離していてもいいのか、それとも真剣に生きている民の切々たる心情から出てくるべきものか」「定家は戦乱など知らない、『紅旗征戎(こうけいじゅう)はわがことにあらず』と言った。政治とは独立した文学の価値を述べたと言うべきか、民の苦しみを無視した自分勝手な貴族だと言うべきか。堀田善衛は後者で、怒っている」「日本の民衆はいつから、堀田善衛の言うような、お上に抵抗しない優しい性格になったのか」「戦国頃には下克上が当たり前だったとすると、江戸時代の朱子学や心学で、よく言えば道徳的な民になっていった、ということか」
9-2 天皇制の話題も出た。
・平成天皇は災害などで苦しむ国民に寄り添う天皇であられた。
・天皇が文字通り権力者だったのは、天智天武ころと、明治大正昭和の前半では。後醍醐は親政をしようとして短期で南朝へと追われた。
・天皇の権力・権威が弱かったのは、足利義満の時は義満が明に対して日本国王を名乗った。応仁の乱~信長のころまで、天皇の権威は極めて弱かった。ザビエルも京都ではなく山口(大内氏)で布教。信長は本願寺・信玄ほかに包囲されてピンチの時天皇を担ぎ出して調停させたと聞くが?
・秀吉は関白に、家康は征夷大将軍になった。これは、他の戦国大名と差別化するために朝廷の権威を担ぎ出したと言える。お蔭で朝廷は権威があることになった。(
←誰か偉い先生が言っていたので補足しておく。2025.1.15)
・天皇が政治をせず、摂関家や幕府が実験を握る時代が長かった。いざというときの装置として天皇制がある方がいいのだ、と主張する宗教団体があるが、「天皇」の名前で(をかたって)軍人が威張ってひどい専制政治を行ったことは覚えておかないといけない。
・幕末にも天皇は政権奪取のための手段として利用された。「玉」を握った方が勝つ、などと薩長サイドの誰かが言っていた。
・孝明天皇は暗殺された、明治天皇は替え玉だ、と主張する人もある・・・!?
・水戸学が浸透し朝廷が偉いことになっていたので、朝敵とされた徳川慶喜は恐れ入って大坂城から逃げ出したのでは。
・江戸期は、水戸学を学ぶ知識人は別として、一般人は「お上」と言えば幕藩だったろう。
・明治以降は中央集権化のために天皇を押し出した。教育勅語、軍人勅諭、御真影など。皇室尊崇も35年やればすっかり定着するだろう。
・明治初期には、復古派(神道・国学グループ)や欧化派(森有礼とか)や民権派(中江兆民とか)もいたが、明治22年憲法発布ころからあと、大日本帝国の形が定まり、日清日露戦争などを通じて軍産複合体が形成され、後は自力では引き返せなくなった、ということだろう。
・戦後はGHQは天皇制をなくさず象徴天皇制を使いながらうまく統治したとも言える。但し天皇を相対化するため南朝系列の天皇を引っ張り出すなどした。熊沢天皇という方がおられた。(保阪正康『天皇が19人いた』角川文庫)
・「天皇」という言葉は、よく見ると漢字で、音読みだ。つまり中国渡来の概念だ。「天皇・地皇・人皇」という概念もあるが、道教系統で北極星(宇宙の中心)を「天皇大帝」と言う。これとの関係を福永光司(京大教授)が指摘していた。では、「オオキミ」や「スメラミコト」との関係は? 米も大陸から来た。祭りも?
10 「記」の文学ということで、芭蕉『幻住庵の記』と白居易『草堂記』も参照。
11 このほかに、部活動を学校から切り離して町のクラブでやった方がいいかどうか、という議論も出た。スポーツを指導したい先生は土日に町のクラブでやればいい。だがどこでやっても「勝利至上主義」には弊害がある。町のクラブでも、楽しくやればいいが、勝ちに行くとダメだ。永井洋一『スポーツは「良い子」を育てるか』(NHK生活人新書)有益。学校の先生方は忙しすぎる。新課程で授業内容・方法も高度化している。勝つための部活動にコストをとられるべきではない。日本人の学力低下・愚民化の原因ではないか? また専門の担当者の抜けたハードで危険な部を、転勤したての若い先生に押しつけると弊害が大きい。過酷なスポーツでは生徒や教師が死ぬ。子供たちの居場所はあるべきだが、普通の大多数の子供たちが大事にされるべきで、一部のスカウトしてきたスポーツ・エリートだけにコストを注ぐべきではない。スポーツ推薦で集めた子らに監督が「厭なら帰れ!」とパワハラをする。帰れるわけがないのに。(新聞に載っていた。)(元永知宏『殴られて野球はうまくなる?』(講談社+α文庫)は有益だった。)柔道で小学生の全国大会をなくしたのは正解。人間を育てるはずの柔道で、ひどいことが横行していた。保護者が審判や相手選手に暴言を吐くとは。嘉納治五郎先生はリーダー・山下泰裕の英断を善しとされるはずだ。他の種目はどうか。勝ちに行くことの愚を知り勝利至上主義をやめるには、世間、マスコミの見識、保護者、指導者、子供たちの見識を高める、何より協会の幹部諸君が価値の置き所を改めること、などなど。勝って有名になって金儲けするためのスポーツをやめ、人間を生かす(自他共栄の)ためのスポーツに立ち戻ること。
*今回も有益だった。非常に勉強になった。複数で読んで感想や意見を交換すると相互に触発されて、一人で読んでいるよりも一挙にレベルが上がる。思わぬ脱線から議論が広がり深まることもある。
次の予告:2月8日(土)『宇治拾遺物語』から、1-12「児のかい餅するに空寝したる事」、2-7「鼻長き僧の事」、3-6「絵仏師良秀家の焼を見て悦ぶ事」は必ずやり、他のどれかもやる。
(2-7は芥川『鼻』、3-6は芥川『地獄変』の言わば元ネタ。(厳密には『鼻』は『今昔』からのようだ。)
*『今昔』は文庫で何冊もあるので買うと高い。『宇治拾遺』なら一冊で買いやすい。
3月15日(土)は『枕草子』ではなく『竹取物語』(冒頭と「かぐやひめの昇天」は必ずやりたい。他の箇所も?)
4月(日時未定)は『枕草子』(「春はあけぼの」は必ずやり、他もやる。「香炉峰の雪」「くらげの骨」「宮に初めて参りたる」が候補だが未定)