James Setouchi

2025.1.12

 

正木晃『空海をめぐる人物日本密教史』春秋社 2008年

 

1        著者 正木晃 1953年神奈川県生まれ。筑波大大学院博士課程修了。国際日本文化センター客員助教授を経て慶応大学非常勤講師。専門は宗教学。著書『初めての宗教学』『楽しくわかるマンダラ世界』『マンダラとは何か』『仏教にできること』など著書多数。(本の著者紹介ほかから)

宗派の僧侶ではないようだ。マンダラがご専門で、啓発的な著書が多い。

 

2        正木晃『空海をめぐる人物日本密教史』

 宗教哲学の本ではない。密教の空海周辺の人物を辞書的に解説する。

 内容を紹介しながら少しずつコメントを書いてみよう。

 

(1)役行者

 後世の伝承などは沢山ある。後世にできた修験道関連のものも多い。が、それらを排除しすると、文献として確かめられる古いものでは、この本の紹介では、次のようになるはず。

 

ア 法相宗の道昭(629~700)が『金剛場陀羅尼経』(天武朝686年の奥書がある)を持ち帰った(20頁)。

 『続日本紀』の文武朝699年の記事に「役小角が伊豆に流された。彼はもと葛城山で呪術をした人だ。韓国連広足(からくにむらじひろたり)が仕えたが、妖惑であるとして讒言した。役小角は鬼神を使役し呪で縛った」旨書いてある(14頁)。

 

→(あくまでこれらの記述が正しいとして、の話だが・・日本の歴史書は、かの国の歴史書に学び、結構権力者のためのウソを書いていますから・・ともかく)これらから、役小角(634~701)(役行者)という人物がある形で存在感を発揮していたとわかる。これは空海以前の密教的なものだ、役行者を代表とする「山林修行者」が前提として存在して、そこに密教が入ってきた(29頁)。ここで「山林修行者」とは、奈良期には、月の半分は平城京の寺院で勉学をし、残りの半分は山林で修行する、そういう存在で、多くいた(32頁)。このように著者は述べる。

 

→本章は、著者がかなり頑張って考証しているところで、そのためわかりにくい書き方になっている。が、伝承や怪しい部分を思い切って切り捨てれば、要は上のようになるはずだ。著者は、これに加えて、『日本霊異記』ほかの後世の著作物の伝承を用いて役小角の人物像を推定している。だが、役小角(役行者)が「孔雀王の呪法」を使った、と著者がしてしまうのは、どうか。これは後世の『日本霊異記』(平安初期822年成立か?)の記述(20頁)だから信憑性があるかどうかわからない。また、役行者が上記『金剛場陀羅尼経』を使ったかどうかも資料的根拠がない。役行者の「葛城山で呪術」「妖惑」「鬼神を使役」なるものの実態がどのようなものか、本当はワカラナイのではないか? もしかしたら中国道教・神仙術のようなものかも? そう言えばトコヨの虫をトコヨの神として祭った例が皇極天皇のときの644年の記事にあるよね・・このようには考えた。なお聖徳太子は600年頃の活躍とされているので、600年代には大陸から既に仏教始めいろんなものが入っている。

 

 言うまでもなく、役行者は修験道の祖と言われ神格化された存在である。以上を読み、最初に修験道があって密教がそれに乗っかった、というわけではなく、密教が入ってきてそれを使いながら修験道が整備された、という言い方の方が妥当という印象だ。だが、密教以前は? まずは山岳信仰+古呪術・修験道+古密教のような原型がはじめにあったかどうか? 今のところ分からなかった。(JS)  

 

(2)奈良密教の展開

 空海以前に密教経典は平城京に入っている。奈良時代は政争が多く呪詛や暗殺が横行、怨霊対策も必要だった(33頁)。疱瘡も流行したので駆逐する必要があった。そのため陀羅尼経典が懸命に書写された(34頁)。

 

 奈良密教では「変化観音」(十一面観音、如意輪観音など)が流行、この時代の密教を「奈良古密教」と呼ぶこともある(35頁)。これは唐における密教の流行と連動している(36頁)。『大日経』『金剛頂経』なども実は輸入されていたが、理解は不十分だった(38頁)。

 

  奈良密教の代表は玄昉(げんぼう)(?~746年)(藤原宮子=聖武天皇の母=の病気を治した、変化観音を信奉した)(37~45頁)、道鏡(?~772年)(葛城山で修行、変化観音を信奉、宿曜=密教占星術=を用いた、孝謙上皇の病を呪法で治した、サンスクリットに通暁していた、道鏡の密教は呪法に終始した)(46~60頁)ら。

 

→密教と言えば空海から、という思い込みがあったので、奈良密教についての記述は、勉強になった。(JS

 

(3)空海

 インドから中国に密教は3世紀前半にはすでに渡っていた。が初期には西域の影響、中国の神仙術や陰陽五行説の影響などで現世利益中心のものとして受容された(63頁)。本格的な密教は7世紀以降に中国に輸入、8~9世紀で密教は大きく変容した(64頁)。善無畏、金剛智、一行、不空、恵果らの僧がいた。異国情緒たっぷりの宗教として受け止められたか。だが10世紀以降は密教は(道教に敗れ)中国で衰退した(65頁)。

 

 空海の伝記については70頁以降に書いてある。母親の阿刀(あと)氏は渡来人の系統。実家は裕福だった。大学で学び出世をめざすがやめて出家する。虚空蔵求聞持法は空海独自のものではなく当時の流行だった(79頁)。東大寺などで仏教を学習し(91頁)、かつ「山林修行」も行ったにちがいない(92頁)。空海はその過程で『大日経』を読んだ、と通説は言う(93頁)。遣唐使船出発直前に出家得度したが、もとは僧ではなく通訳または「薬生」として乗船を許可されたとの見方もある(95~97頁)。留学費用は私費で、鉱山関係者から献金を受けたとの見方も(98頁)。遣唐使は司馬遼太郎『空海の風景』では危険だったと書いてあるが、実際には帰国成功率75%(101頁)。最澄は天台山にとどまったが、空海は長安の都に行き、インド出身の般若三蔵、牟尼室利からサンスクリットとインド哲学を学び、恵果から密教を学んだ(105頁)。

 

 恵果の師である不空は父は北インドのバラモン、母はソグド系(108頁)。折しも玄宗皇帝時の安禄山の反乱で不空は反乱軍の占拠する長安にとどまり皇帝と国家の守護のために修法を行い歴代皇帝から厚く信頼された(116頁)。不空は呪術による国家の安全保障という思想を持ち(123頁)文殊菩薩を尊崇(127頁)した。(これは日本密教にも影響を与えた。)

 

 恵果は「両部不二」(胎蔵と金剛界が不二である)の思想を持った(130、161頁)。本書はここで『大日経』(三句の訪問の思想)『金剛頂経』(即身成仏の思想)の解説をしている(131~147頁)。特に『金剛頂経』は、大乗仏教の利他行を真言などの象徴に代替させることでブッダの宗教に戻した(147頁)、また大乗仏教の「空」の思想ではなくヴェーダ的な「梵我一如」の思想に戻した(155頁)と言える、と著者は書く。日本密教では『金剛頂経』の扱いは困り、社会的な活動では利他行を求める『大日経』個人の悟りについては即身成仏を約束する『金剛頂経』と使い分けた(154頁)。「両部不二」思想はインドやチベットでは弱いが中国には陰陽五行思想があるので流行した(160頁)。金剛界曼荼羅の「九会」も、道教の「九宮四神」がモデルになったのでは(165頁)。

 

 空海は、不空の、密教の対社会的な意義、恵果の、密教の教義・哲学、この双方を継承した(106頁)。

 

 空海は恵果の門下生多数の中でもただ一人正統の密教を受け継いで(173頁)帰国した。

 

 当初不遇だったが薬子の乱(810年)以降注目され始める(179頁)。最澄も密教を多少持ち帰ったが、空海の方がより本格的だった(181頁)。最澄と空海は交友関係となるがやがて決別(187~196頁)。

 

→以上の如く著者は言う。島田裕巳という宗教学者は、「空海は最澄より格下と言われてきたが、実は桓武天皇と近く、財力もあり、別格の存在だったのではないか?」と述べていて(島田裕巳『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』幻冬舎新書、2012年、84~85頁)、面白かった。(JS

 

 空海は嵯峨天皇と近く、高野山を賜り道場とした(199頁)。ここは丹生津姫命(にうづひめのみこと)ゆかりで水銀鉱山、狩場明神ゆかりで鉄鉱山と関係があるとの見方もある(202頁)。空海は高野山全域を曼荼羅と見なした(205頁)。

 

 空海はエクソシストでもあり、伊予親王の怨霊を鎮める法会を行った(209頁)。空海は日本の不動明王信仰隆盛の原点にいた(217頁)。日本の不動明王はチャンダマハーローシャではなくアチャラの系統で、在来の「荒ぶる神」「荒御霊(あたみたま)」が不動明王の中に表現形式を見いだしたのではないか(「和魂」「慈しむ神」は観音菩薩という存在の中に表現様式を見いだしたのではないか)、と著者は想像する(217頁)。

 

→ここは珍しく考証なしで想像しているところで、仮説としては承るが、本当かどうかは保留にしたい。仏教理論が入ってから日本の神々の性格を概念化して腑分けした可能性もありうる(JS)。

 

 空海の東寺は平安京南端にあり、王城守護の拠点とされた(219頁)。比叡山は各種の仏教を学ぶが、東寺は真言密教のみを学ぶ(220頁)。空海は、医学に喩えれば、顕教による護国は病気の原因などを論じるに過ぎないが、密教による護国は処方箋により薬を調合して服薬させるようなものだ(226頁)。空海はこの考え方により鎮護国家の密教修法を何度も営んだ(226頁)。宮中で正月に行う「後七日御修法」では鎮護国家のために『金光明最勝王経』を顕教だけでなく密教の流儀によっても行うべきだ、とした(228頁)。

 

→明治初めの廃仏毀釈までは皇室でも仏教の営みをするのが普通だった。神仏は渾然一体として発展してきた。これが日本の「伝統」と言えば伝統であり、仏教を排除して純粋国家神道のようなものをコトアゲするのは、伝統破壊である、と言える。(JS

 

 空海以前に行基(668~749)が社会事業を行っていたが空海も満濃池築造を始め社会事業を行った(234頁)。綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)という学校を開き貴賎貧富に関わりなく解放し仏教・儒教・道教を学べるようにした(239頁)。教師の給料と生徒の学費は完全支給制(240頁)。

 

 高野山にて835年入滅。入定伝説は今も生きている(242頁)。

 

→仏教は社会事業でいいのか? 個人の内面の救済をすべきでは? という問いは繰り返されている。反対に、社会事業は一切しなくていいのか? と問うこともできる。空海は両方のニーズに応えたとは言えよう。すごいことはすごい。内村鑑三は社会事業にも関心があった(足尾鉱毒事件など)が、結局手を引いた。それでも「この世に生まれてきた以上は少しでもこの世をよくしておきたい」と言っている(『後世への最大遺物』)。キリスト教ではハンセン病の患者に対し熱心に奉仕するなど、社会貢献がかなりある。キリスト者で政治家になって社会を変えた人も多い。他方、宗教と政治(国家)の関係を安易に考えると宗教専制国家になり、人間の自由が抑圧される。サヴォナローラツヴィングリロムウェルの政治が果たしてよかったかどうか? 戦前の国家神道もそうだし、どこかの国で現在もある。政教分離は長年の知恵で生み出したしくみだろう。(JS

 

→また、『三教指帰(さんごうしいき)』は昔レポートに使ったりしたが本当のところはよくわかっていない。立身を目指す儒教か、不老長寿の道教か、出世間をして悟りすべてを救済する仏教か、の問いを空海は立て、仏教を選ぶ。近世の「出家の仏教ではなく人倫を大事にする儒教がよい」という儒者たちの立場と比べると考えさせられる。また『聾瞽指帰(ろうこしいき)』に対して『三教指帰』序文は修験道の立場から書き換えたのではないか、と島田裕巳が書いている(前掲書81頁)。『秘密曼荼羅十住心論』は昔一読したはずだがもちろんよく分かっていない。空海の文章は語彙が高度で華麗、文飾が多く、すごいとされるが、「達意の文」ではないという観点から言えば、知的権威(知的スノッブ)が相手を脅し黙らせるための文章であって、大事なことを万人に分かってもらい啓発し皆で幸せになるための文章とは言えない。大唐帝国の都に留学してきたエリート臭が残念だ、と言えば、真言宗の方はお怒りになるだろうか。実は栄西も道元も大宋帝国に留学してきたエリート臭さがあると言えばあるのだ。今で言えばアメリカのボストンの大学で首位をとって帰国してきたような感じだろうか。(JS

 

(4)空海以降

 空海以降、東寺の東密とならび、比叡山の台密(天台密教)も隆盛となる。東密は小勢力の分立する事態となり停滞。台密は、円仁(794~864)や円珍(814~891)らが唐に留学し盛んとなった(245頁)。

 慈覚大師円仁は長安で学び『蘇悉地法』を持ち帰り両界と併せて三部立てを強調し、東密に対する優位を主張した。また「円密一致」つまり「円」=法華経と「密」=密教の一致を言った(248頁)。長安で指示した元政から「あらゆる教えはじつは密教だ、釈迦如来と大日如来は同じホトケだ」と教えられた(248頁)。

 

→私が浄土宗のお寺で阿弥陀様に念仏を唱えていると、見知らぬ方が「阿弥陀様もすべて大日如来の現われなのにね」と言って、去って行かれた。私はアレレと思った。浄土系では「阿弥陀様こそすべての仏様の先生だ」と言うのだ。本当はどうなのだろうか? 宗派によって自分のところが一番だと位置づけているのだろうか? 「あらゆる教えは実は密教だ」とは唐の元政から円仁が学んで帰ったあたりに発しているのだとこの本で分かった(JS

 

 智証大師円珍は空海の親戚だそうだ(249頁)。円仁派とは違うことをした。独立の意図があったかも。『大日経』を研究し、空海の「天台宗は真言密教の二段階下」という位置づけを否定、『法華経』と『大日経』を同じ価値とした(251頁)。山王信仰の基礎を築き、藤原良房と親しくした(252頁)。円珍は園城寺を再興しのちの寺門派の拠点を築く(251頁)。(比叡山延暦寺は山門派。)

 

→園城寺(三井寺)は滋賀県大津市にある。(JS

 

 安然(あんねん)は円仁の弟子。台密を完成に導いた。法華経に対する密教の優位を主張した(253頁)。台密内部から批判され晩年は悲惨だった(254頁)。

 

 東密は宇多天皇(9世紀末)の帰依で復興(254頁)。宇多天皇は仁和寺を建立して台密を信仰していたが、天皇が東密に鞍替えしたので仁和寺も真言密教の拠点となった。藤原氏に反感を持つ皇族が東密を支持した(255頁)。聖宝(醍醐寺を建立)、観賢(入定信仰の流布に貢献)、仁海(霊的能力で雨を降らせた。小野流の祖)、寛朝(広沢流の祖)、明算(高野山中院流)などの優れた僧が輩出(255~258頁)。

台密の良源(大僧正)も霊的能力が抜群だった。皇室と摂関家と結びつき、同じ台密のライバルである園城寺を敵とした(259~260頁)。

 

 東密の覚鑁(かくばん)(1095~1143)は鳥羽上皇と近く、東密・台密を統合する伝法院流という巨大な流派を作ろうとしたが、反対派に追われ、紀州の根来(ねごろ)へ。真義真言宗の祖となる(~263頁)。阿弥陀如来=大日如来と考え、また極楽浄土は今修行をしているこの場にあるとみなした密教と浄土思想を融合しようとしたのだ。末法思想という思想は認めなかった。(~265頁)

 

→ここは関心のあるところだ。なるほど。覚鑁はそう考えたのか。それにしても宗教の中にも論争と渾然一体となった権力争いがあるとは、(釈尊以降もそういう事態があったわけだが)どういうことだろうか。仏は悲しい思いで見ておられるのでは。(JS

 

(5)中世

 歌人・西行(1115~1190)は実は覚鑁の影響を受けた密教僧だった。高野山の勧進聖をしていた(267頁)。明恵(1173~1232)は華厳思想を奉じたが実践面では密教を重視し光明真言を読誦した(272頁)。親鸞は浄土真宗の祖だが、有名な六角堂で見た夢の偈文には実は密教修法のアンソロジー『覚禅抄』の「如意輪末車去車」にモデルがある。親鸞は密教的な夢見の技法を使ったかも知れない(~275頁)。叡尊(1201~1290)や忍性(1217~1303)は下層民を救済した。橋を架け、差別された人々を収容する施設を整備し、金穀を支給し、飢饉では粥を配った。彼らは文殊菩薩を信仰した。(~278頁)

 

 浄土真宗の覚如(1270~1351)の生涯を描く『慕帰絵詞』には、覚信尼の子・唯善(1253~1317)が仁和寺で密教を学んだとある。(唯善は本願寺の後継者にはならなかった。)(280頁)

 

→著者は密教がお好きのようだ。何でも密教ゆかりにしてしまう。唯善は密教的なものを持っていたから本願寺の正統になれなかった、と明確化しないと、誤解を生むかも。法然・親鸞は呪術からは自由な印象がある。親鸞の子・善鸞も密教化(呪術化)していたから義絶されたのかも?(JS

 

 室町期、高野山では聖の時宗化が進んだ(281頁)。根来は繁栄し武装し鉄砲軍団を持った。高野山も武装集団を持った。信長や秀吉はこれらを攻撃した。権力に関わりながら権力の介入を排除するという、空海以来の東密は、解体した。比叡山以来の台密も同様だった。(~282頁)

 

→ここは難問だ。伊勢や三河の一向一揆も信長や家康によって虐殺され潰された。本願寺も。どう考えるか?(JS

 

(6)近世・近代

 真義真言宗智山派(智積院)豊山派(長谷寺)に分裂し教団組織を整備。高野山では学侶、行人(戦国期の僧兵)、浄土念仏の勧進聖が対立したが、幕府の政策もあって学侶が配権を得た。浄土念仏ブームが冷め、高野山に墓を設ける、地方ごとに宿坊を構える、四国八十八カ所を巡礼するなどが盛んとなった。(~283頁)

 

 台密では天海(山門派の出身)が活躍。東叡山寛永寺を江戸に作った。家康を東照大権現とした。また修験道を醍醐の三宝院(真言系。当山派)と京都の聖護院(天台系。本山派)に分けて統制(~284頁)。修験道は明治5年(1872年)の「修験道廃止令」で壊滅させられたが、それまでは圧倒的な存在感を持った。修験者(山伏)が沢山いた(12頁)。

 

 隆光(1649~1724)は真義真言宗の僧で綱吉に接近し「生類憐れみの令」を進言した(285頁)。浄厳(1639~1702)はサンスクリットを研究し湯島の霊雲寺で60万人に戒を授けた。契沖(国学者)はその弟子(286頁)。

 

 慈雲飲光(1718~1804)はサンスクリットを研究し『梵学津梁(ぼんがくしんりょう)』千巻を完成。根本仏教への回帰を目指していた(~288頁)。

 

 明治初期に神仏分離政策があり、仏教諸宗派は打撃を受けた。ヨーロッパから仏教学が入ってきたが、これはいわゆる原始仏教中心だった。高度成長以降、新宗教、新新宗教が興り、密教ブームが誕生、ダライ・ラマ亡命(1959年)も密教への関心を高めた。オウム真理教も出現、深刻な問題を提起している。(~290頁)

 

→(JSコメント)辞書的な知識の復習になった。私の知らなかったことも書いてあった。入門書としては悪くはないが、入門書としての立場を徹底して、もっと整理してわかりやすく書いてくれればよかったかもしれない。

 

 辞書的な知識を入門書風に並べると、知識が増えていいのだが、表面をなでて終わる。読者は要注意。

 

 本当は、「オウム真理教も出現、深刻な問題を提起」のところで、「では、現代における密教の存在意義として、何をどう考えるべきか? オウムとどう違うのか?」といった問いを立て垂直的に切り込むべきべきだろうだが、それは本書の任とはしていない。これについて考察してみたい人は、髙山薫『太陽を曳く馬』村上春樹『約束された場所で』などを読んで考えることができる。但し髙山薫は、曹洞禅とオウムをぶつけて議論を展開している。(密教にも言及がある。)

 

 また、個人の救いか、社会事業か、の問いも、空海以来長年問われてきている。本当はそこだけで全集が出るほどだろう。

 

 私には、覚鑁の、死後の極楽浄土か、現世の即身成仏か、の議論が気になるところだ。空海は出家者。在家でありつつ即身成仏を言うためには、教義の解釈を相当に柔軟にしないといけないだろう。

 

 空海の著書の理論は高度だ。他方田舎のおじいちゃんやおばあちゃんたちが真言宗寺院の八十八カ所をめぐりお大師様を尊崇して光明真言と般若心経を唱え御朱印を貰って喜んでいる世界もある。それとこれとはどう結びつくのか? 両方あっていい、ということなのだろう。「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」である。キリスト教神学の高度な世界と、子供がクリスマスケーキを食べてニコニコしている世界と、両方あっていいのと同様だ。神は(仏は)そんなことに目くじらを立てたりなさるまい・・

 

付言1:世界と自己が一体化する、そこに究極の安らぎがある、と言っても、世界には戦争や飢餓や抑圧がある、そんな世界と一体化することに安らぎがあるはずもない。戦争や飢餓や抑圧がなくなるならいいのだが・・?  

 

付言2:密教修法か山伏修行かわからないが、(私は崖の上からつるされたり火の上を走ったりするのはしたくありませんが)おじさんが(おばさんでも)それを信じて懸命に修行に取り組んでいるのに、「それは空海の本来の教えにはない」「中国密教にはないんだよね」などと大きな声で否定しても、情愛のない失礼な話ではある。その人はその人なりに懸命の思いがあってやっているのだろう。まずはそこを汲みたい。但し、そういう必死の思いにつけ込んで法外なご祈祷料を取ったりパワハラ気味の修行をさせて相手の心を操作して悦に入る、などというインチキ宗教指導者がいたとしたら、それは困る。また、投薬で治る病を、「このお札を飲まないとダメ」「財産を寄付しないとダメ」などと脅し上げるのも、困る。

 

付言3:私の知人は真言宗で葬儀を上げて貰いお坊さんから「即身成仏!」と言って貰っていた。知人はあそこで即身成仏したのだろうか・・? きっとしたのだろうな・・