James Setouchi
2024.12.28
髙村 薫 『太陽を曳く馬』(上・下)新潮社(2009)
1 髙村 薫
1953年大阪府生まれ。同志社高校、ICU卒。代表作『リヴィエラ』『黄金を抱いて翔べ』(日本推理サスペンス大賞)『神の火』『リヴィエラを撃て』『マークスの山』(直木賞)『レディ・ジョーカー』(毎日出版文化賞)『新リア王』(親鸞賞)『太陽を曳く馬』(読売文学賞)『土の記』(野間文芸賞、大佛次郎賞、毎日芸術賞)など。いくつかの作品は台湾や中国大陸での翻訳もある。映画化されたものもある。(wikiなどを参照した。)受賞歴で分かるように、サスペンス・ミステリーから出発しているが、近年は有名な文学賞を受賞するに至っている。
2 『太陽を曳く馬』 新潮社上下2巻(2009) (まだ本当には読めていない。)
(以下、長文なので共通テスト前の受験生は読まない方がいい。大学生やシニアの方は、よろしければ、どうぞ。)
(もとは『新潮』に2006年~2008年に連載したものを加筆修正して単行本に)(ネタバレします)
髙村薫を読むのは『レディー・ジョーカー』『土の記』に続いて3作目。いずれも労作であり、読むのに何日もかかる。本作も手応えのある作品。私にはある程度以上面白く、しかし分からないところも沢山あった。
『レディー・ジョーカー』は要は犯罪小説。『土の記』はいわゆる純文学に挑戦している(と思う)。その中間で書かれた本作は、二人の若者の死が登場し、刑事・合田雄一郎の捜査の形をとっているが、エンタメ犯罪小説と言うには、宗教・形而上学に関する思弁が延々と書いてある。「私にはある程度以上面白く、しかし分からないところも沢山あった」と先に記したのはこの点においてだ。宗教・形而上学に興味の無い人には退屈だろう。
本作も、現代日本社会の注目課題に材を取り、そこから深く掘り下げようとしている。読んでいくと分かるが、オウム真理教(注1)が出てくる。曹洞宗(注2)の教え、密教(注3)の教え、インドのアビダルマ(注4)の教え、バラモン教の教え、ヴァガバッド・ギーター(ヒンドゥー教の聖典)(注5)、スピノザ(注6)の哲学などなどが参照され、対比しながら議論が進む。髙村薫は非常に熱心に勉強してこれを書いたと思われる。これらの教えに没入する現代の若者、さらには人間存在そのもののあり方を描きとろうとしているとも言える。
注1 オウム真理教:麻原彰晃を尊師と仰ぐカルト宗教。1995年3月に地下鉄サリン事件を引き起こすなど、社会的大問題となった。
注2 曹洞宗:日本の曹洞宗は、大乗仏教の一派で、道元を祖師とする。ひたすら坐禅する(「只管打坐」)が特徴。大本山は福井の永平寺と神奈川の総持寺とがある。駒澤大学もこの系列。
注3 密教:大乗仏教の一派。顕教(天台宗など、言語化できるお経を中心として学ぶ)と対立する概念。言語化できない世界を直観するために、曼荼羅や儀式を多く用いる。インド仏教では大乗仏教諸派よりも後から出てきて、それらを包摂する高度な思想体系を持つが、日本では平安初期の空海(弘法大師)が日本に招来。京都の東寺や高野山の金剛峯寺が拠点。インドでの後期密教は、土着の民間信仰・呪術と融合した、と本作では書いている。なお、チベット密教などもある。
注4 アビダルマ:「経蔵・律蔵・論蔵」の「論蔵」を指す。インドでは釈尊滅後教団が多くの部派に分裂し多くの議論がなされた。中でも上座部系の説一切有部が有力だった。大乗仏教興起以前の部派仏教をアビダルマ仏教とも言う(厳密な定義は知らない)。日本では大乗仏教が盛んなので、それ以前のアビダルマを研究すれば、仏教に対する視野が広がる。
注5 バラモン教は、釈尊以前の古代インドのメジャーな宗教。『ヴェーダ』の時代、ウパニシャッド哲学の時代など、長い歴史を持つ。バラモン階級(司祭階級)の祭儀が中心。呪文も使う。そこから仏教は分かれたと言える。ヒンドゥー教は、バラモン教を継承しつつインドで展開した宗教。『ヴァガバッド・ギーター』はその経典で、紀元前の成立。シヴァ教、ヴィシュヌ教などもヒンドゥー教の一派。(より広義には、インダス文明以降のインドの宗教、及びその分派は、仏教なども含め、すべてヒンドゥー教だ、と言うこともできる。では、オウムも?)
注6 スピノザ:1632~1677。オランダの哲学者。カント、フィヒテ、ヘーゲルなどに強い影響を与えた。代表作『エチカ』など。
但し、読後感は、寂しい。明るい励ましが弱いので、人にはあまり薦めない。このようにも閉塞した現代であるからこそ、明るい展望を書いてほしい。(髙村さん御免なさい。)性的描写などはないので健全な青少年にもお薦めできるが、内容が(特に宗教教義のところが)高度なので、興味のある人には面白いだろうが、興味のない人には、チンプンカンプンだろう。
紹介されている各宗教の教義の説明がどれくらい正確か、は私には分からない。学術書ではなく小説なので、読者は読みながら刺激を受けて触発されればいいのかもしれない。道元やチベット密教やバラモン教に詳しい人が読めば、「正確だ」「ここは間違っている」「作者が意図的にそう書いたのでは」などと言えるかも知れない。オウムに関心のある若者をターゲットに、「オウムは正統派の仏教から見て間違っている」と髙村薫は知らせようとしているのかもしれない。
先にお断りすると、私は道元の『正法眼蔵』(注7)は何度か挑戦しかかったが全く歯が立たず断念した。栄西(注8)の『興禅護国論』は字面は一応読める気がした。『碧巌録』『無門関』(注9)など禅宗の語録は、字面は分かるが内容の本当のところは分かっていないと言うべきだろう。『中論』(注10)も全く理解できなかった。バラモン教などについては辞書的な知識しかない。
注7 『正法眼蔵』:道元の著作。本文に12巻本と75巻本の違いが書いてある。ほかに拾遺4巻があるとされる。『正法眼蔵』のエッセンスを抜き出したものが『修証義』。日本の曹洞宗では重視している。
注8 栄西:鎌倉時代の禅僧。日本の臨済宗の祖。道元の先生筋に当たる。鎌倉幕府に接近した。
注9 『碧巌録』『無門関』:中国の禅宗の問答集・公案集。日本でも流行した。
注10 『中論』:インドの大乗仏教初期の龍樹(ナーガールジュナ)の書。アビダルマにおける種々の主張を退け、「空」を説いている、と言われる。大乗仏教に大きな影響を与えた。
さて、本作は二人の青年の死が出てくる。一人は福澤秋道。1998年6月3日に人を二人殺害し、2001年に殺人で死刑になる。もう一人は末永和哉。2001年6月5日に赤坂の曹洞宗の寺で交通事故に遭う。
物語は、刑事・合田雄一郎が、2001年6月5日の末永和哉という若者(永劫寺の修行僧)の交通事故の事件性(事故か、事件か、あるいは?)を捜査する形で進行し、その過程で3年前の1998年6月3日の福澤秋道という若者(画家)の「殺人事件」を想起していく。秋道の死刑(2001年秋)は物語の始めの方で明かされているが、それが果たして「殺人事件」であったのか、などは物語の途中で語られ掘り下げられていく。(本作は、検事や弁護士や判事が出てくる、裁判小説でもある。)二人の青年を結ぶのは福澤彰之(彰閑)という人物。彰之は秋道の父親であり、かつ、赤坂の曹洞宗の永劫寺の別院(サンガ)を創設した人物。彰之が末永和哉をこのサンガに連れてきた。この物語に、刑事・合田雄一郎のもと妻の、NYの9.11テロでの死の物語が組み込まれている。
ここで登場人物をおさらいしておこう。
(登場人物)
合田雄一郎:刑事。髙村薫には合田の出てくる作品がいくつかある。警察組織の中でははみ出しものと見られがち。本作でも宗教の教義に関心を持つ。
福澤彰之(彰閑):僧侶。大物政治家・福澤榮の私生児。杉田初江との間に私生児・秋道をもうける。青森で僧侶をしていたが東京の赤坂の曹洞宗・永劫寺の副住職となり別院(サンガ)を作る。やがて青梅の寺に移る。
杉田初江:秋道の母。杉並区のアパートで餓死。
福澤秋道:彰之の子。知的には優れているが、コミュニケーションに難があり、不遇の少年時代を少年院などで過ごした。絵を描く、不思議な若者。阿佐ヶ谷で女優の荒井久美子と同棲。のち吉祥寺で大野恵美と同棲。1998年6月3日、大野恵美及び隣の川島大輝を殺害、大野が出産したばかりの嬰児も死亡。「殺人罪」にあたるはずだが、コミュニケーションが難しく、取り調べが難航。2001年に死刑になる。
荒井久美子:「眼球座」を主催する女優。親の遺産である不動産収入で生活。1991年阿佐ヶ谷で福澤秋道と同棲、トリスタン・ツァラ(注11)の文言を秋道に吹き込む。独自の芸術論を持っている。
大野恵美:「眼球座」の女優。東京女子大中退。コスプレをする。1997年5月吉祥寺で秋道と同棲。秋道の絵を路上で売ることも。嬰児(秋道の子ではない)を出産するが秋道に殺害される。
川島大輝:大野と秋道が同棲していたアパートの隣人。秋道に突然殺害される。東大生。
福澤榮:彰之の父親。政治家。
福澤貴弘:榮のおい。現職の政治家。
末永和哉:慶応大文学部で認知心理学を学ぶ。電通に就職するが中途退社、修行に目覚め、永劫寺別院(サンガ)で熱心に修行していた若者。自分は「歩くアラヤ識」(注12)だ、と自称していた。2001年6月5日、坐禅を中途でやめ、道路に飛び出し交通事故死。事故か事件か、あるいは・・?
長谷川明円:赤坂の曹洞宗永劫寺の住職。唯識(注13)の学者。
長谷川東堂:明円の父親。永劫寺の前住職。
高木・岩谷・岡崎:永劫寺の有力な雲水。高木と岩谷は副住職、岡崎は同行。
田辺:永劫寺の事務長。
吉岡巡査部長:合田刑事の部下。若者。
大峰検事:地検の検事。
久米哲司弁護士:福澤秋道の事件と末永和哉の事件とに関係してくる。実力のある弁護士。2001年10月11日付けで永劫寺別院の高木と岩谷を被告として告訴状を提出。
注11 トリスタン・ツァラ:1896~1963。ダダイスムの詩人。ルーマニア生まれ、フランスで活躍。なお、ダダイスムは、第1次大戦後ヨーロッパで盛んになった、既存の権威などを否定してみせる芸術運動。
注12 アラヤ識:唯識の説く八つの「識」のうち第八の「識」で、この肉体以前に存在する、いわば一切を生み出す永遠の生命のようなもの。「アラヤ」とは「蔵」の意味。「アラヤ識」とは、「蔵」すなわち一切をそこに納めそこから生み出す蔵である「識」、だそうだ。仏教の世界観では、普遍的なニュートン時間空間の中に多くの人が暮らしているわけではなく、人それぞれに住んでいる世界(宇宙、と言うべきか)が異なる。その人が背負っている「業」がこの「蔵識」(アラヤ識)には収まっている。(各種の解説書による。本作の理解と違うかも知れない。私にはよくわからない。)
注13 唯識:大乗仏教の学説の一つで、あらゆる存在が、ただ「識」によって成り立っている、とする見解。
さて、作者・髙村薫は、エッセイ集『半眼訥訥(はんがんとつとつ)』(文藝春秋、2000年)の「代々不信心」(『新潮』1999年1月号)に、次のように書いている。「自分はこの年になるまで敬虔な気持ちになったことがない。母親は浄土真宗の寺の生まれで親族は住職だらけ、親戚の善男善女たちは朝な夕なに仏壇に手を合わせるがばかばかしい、寺の運営にまつわる金と色の話は生臭かった、幼稚園はカトリックだったが修道女たちは狂信的で陰鬱に見えた、父方の祖母は霊友会だったが、父は宗教には無縁、グレゴリオ聖歌の響きは神秘的ではあった、自分たちが救いがたい存在だと意識し続け、結果的に人をそんな風に苦しめる信仰を嫌悪した、いわゆる悪人ではない我が身の中途半端に絶望もした、阪神大震災後母親は『歎異抄』を読んだ、自らを不信心と断言して逝った母の心はどこにあったのか」などなど(大意。厳密には各自お読みください。)髙村薫が、周辺に寺院関係者がいたが故に(?)宗教信仰に対して関心を持ちつつも拒否する、複雑な距離をとってきたものの、基本的には信仰心がおありでない方だ(唯物論者、あるいは無神論者、とあえて言えそうだ)とわかる。本作は宗教信仰を扱っているが、この点が私には非常に気になるところだ。
どの宗教信仰も尊重すべきだし、カルト宗教と言われる宗教でも、末端の信者は本当は善良で心優しく純粋な人が多い、と私は今までの経験上感じている。(オウムの人には会ったことがない。1995年頃TVで見て上祐氏にはすっかり騙されたと思った。)但し人間を(信者を)毒ガスを撒くロボットにしてしまうとか、集金マシーンにしてしまうなどの宗教は、カルト宗教であって、お薦めできない。宗教教団が大きくなると、運営のために金を集め、幹部が腐敗する、ということは、古来あった。最初は純良だった末端の信者(被害者)も、気がつくと自分が幹部(加害者)になってしまっている。ここが恐ろしいところで、何がカルトか? (フランスのように)基準を設けて反社会的集団として見極めていくべきかもしれない。だが、それはそれとして、カルトはともかく純粋な宗教信仰に目覚めその教団に入ろうとする人の気持ちというものは、なぜどこから来るのか。それは、もしかしたらこの社会で踏みつけにされてきた結果、そこにしか居場所がなかったから、そこに必死の思いですがりつこうとしたのではないか?(注14) ここの問いは問うてほしいが、髙村薫の本作では、この点が弱い。宗教はおかしい、という立場に始めから立っているように感じられる箇所がいくらもあった。末永和宏青年は、なぜ(ネタバレしますが)オウムの門をたたいたのか。オウムではない曹洞宗永劫寺別院(サンガ)に集う雲水たちは、なぜどういう理由があってそこにやってきたのか。家業(寺の子)だから、というだけではすまないそれぞれの理由があるはずだが、本作ではそこは問われていない。ここが不満だった。宗教信仰に対して、髙村薫は、醒めた目で見ていて(それも一面大事なのだが)、異様な連中、という、言わば差別するような眼差しがあちこちで感じられた。確かに作中の永劫寺も赤坂という一等地の立地を生かして金儲けをしている(そのお蔭で雲水たちが修行に専念できる)、その俗物性がつきまとう。また同質的な集団故に、もとオウムの末永を異物として排除しようとする動きがある。これらはいただけない、として髙村薫は書いている。だが、先に記した、そもそもどうしてそこ(宗教信仰)の門をたたくのか、そうせざるを得ない理由があったのではないか、それは宗教ではない世俗社会の側に大きな問題があるからではないのか、という問いを持つべきだが、本作では問われていない。(前作『新リヤ王』では問うているのかも知れない。未読。)(村上春樹『約束された場所で~ポスト・アンダーグラウンド』では、オウム真理教に入った人々(サリン事件の犯人ではない)にインタビューしていて、この問いを問うており、読む値打ちがあった。)
注14 山上徹也(安倍もと首相を銃撃した)の母親は統一教会に熱中して大金を寄付(献金)し、山上徹也一家の生活は破綻した。この件で最も悪いのは統一教会である。母親は弱っている心につけ込まれたのだ。確かに母親はあそこまで寄付(献金)すべきではなかった。だが、母親もまた、夫の死など、非常に辛い人生があった。誰が彼女を助けてくれようとしたのか? また、当時報道で読んだのだが、「誰も相手にしてくれなかった、どこの病院も受け入れてくれなかった、オウムの病院だけが悩みを聞いてくれ相手にしてくれた、そこからオウムに入っていった」という信者がいた。誰が助けるべきだったのか?
同様の「異様な連中」という眼差しは、福澤秋道という若者の造形にも、感じた。秋道は知能は高いが、幼時からコミュニケーションが難しく、不良少年グループに巻き込まれ、少年院にも入る。目に浮かぶ図形を描いていく。普通には絵画とも言えない絵画だ。特に「太陽を曳く馬」の図形は、謎だ(後述)。「この若者は、普通ではなく、異様な存在だ」と読者にアピールしている。殺人事件について、殺害の動機を「声がうるさいので消した」「声が出るのは頭だ」(「だから頭を破壊した」)と秋道は言う。すると声の出るモノを破壊しただけで、人を殺すつもりはなかった、となる。本人において殺人は成立しない。傷害致死が妥当だろう。このように合田刑事は論理を組み立てる。だが、事件は警察や検事が誘導して、「人を殺そうとした」「頭を破壊することへの執着があった」などと調書を「作文」してしまう。これは、事実そのものではない、と合田刑事は違和感を感じる。ここは作者・髙村薫が書こうとしたことだ。だが、その前提として、秋道の異常さが強調されている。秋道が他の人と違う脳だから、モノを壊そうとしただけであって人を殺そうとはしていなかった。なるほど。だが秋道は他の人と違う脳? ここから先は脳についての医学的な知見も必要になるので軽々には言いにくいが、他の人と違う脳であれば同様の異常な事件を引き起こすだろう、と軽はずみな読者なら受け取ってしまうだろう。それが作者・髙村薫の狙いだったのだろうか? だとすればそれは大いに問題だ。大いに困る。他の人と脳の傾向が違っても、それは大事な個性であって、適切な学習や訓練によって、社会生活に十分に適応できる、とするのが、今日の知見だ。当たり前だ。カントもニュートンもエジソンもアインシュタインもジョブズもビル・ゲイツも坂本龍馬も宮沢賢治も高名なあの人もあなたの周りにいるその人も(どういう基準でこのメンバーを並べているか? おわかりの方はおわかりの筈だ)、世の中で十分にやれている。日本は欧米に比べその認識も環境整備も30年遅れているだけだ。福澤秋道は適切なケアが受けられなかったのだ。問題は日本の福祉と教育の貧困なのだ。最近(2025年)やっと社会の中で理解が深まり環境整備もできつつあるが、2003年頃にもまだ偏見に基づく報道がなされていた。髙村薫は本作執筆時(2006~08年連載)もしかしたらまだこのあたりにとどまっていたのではないか? 世の中には多様な個性を持った人がいる、では、その多様な個性に応じて、それぞれが大事になされるような環境整備が大切だ、しかし日本はこの環境整備が遅れている、これは問題だ、と強く書いてほしかった。一歩間違えると偏見を撒き散らし差別と排除を生むテーマだけに、(勉強家の髙村だけに、)あと一歩勉強してほしかった。末永和哉(てんかんの薬を飲んでいた)に対しても、永劫寺別院(サンガ)でサポートするに当たって、サポート体制が不十分だったのでは、とは書いてあるが、どこがどう足りなかったのか? をもっと書くべきだった。サポートを充実してどの一人をも生かす、それが基本的人権を尊重するということであり、ユニバーサル・デザインの福祉社会をつくるということだ。
芸術については、秋道の同棲相手だった荒井久美子が論陣を張っている。荒井は早稲田の文学部を経て劇団のようなことをやっている。親からもらった不動産で生活は潤っている(年収5千万)。上巻96頁以下あたりの長口舌に曰く、アートは特権階級のための制度だ、この点日本には本来のアートはない、その消費社会の虚構に満ちた日本で、近代をやり直すとか脱構築だとか言う青年たちに破壊を説くのが自分の使命のつもりだった、だが、ある日気付いてみたら東京中がディズニーランドだった、唾を吐くべき壁が消えていた、そこに異物としての秋道が現われた、そこには生の身体という実体があった・・うんぬん(大意)。かくして荒井久美子は福澤秋道にトリスタン・ツァラのダダイスムの言葉を吹き込む。(これは、言うまでもなく、適切ではない。秋道を生かす方法ではない。荒井久美子が自己の欲望のために秋道に奇妙な言葉を吹き込むのは、オウムで麻原彰晃が自己の欲望のために信者に奇妙な言葉を吹き込んだことの、ミニチュア版ということだろうか。荒井久美子こそ問題だとも言える。)
ここで、「ある日気付いてみたら・・」というのは、1980年代後半~90年初期頃すなわちバブル期の、東西冷戦もなくすべてが「軽チャー(「カルチャー」をもじった言葉)」で済ませられる時代社会の雰囲気を指していると思われる。生の身体感覚を喪失したバブル期の日本において、若者は生の身体感覚に飢えていた、ということか。生の身体感覚を回復しようとした者は、ある場合には肉体派のアウトドアや格闘技に、ある者はオウムのような激しい修行に突入するのだろうか。だが、現代(2025年)はすでにバブルではない。貧富の差が大きく、今日の食事が難しい若者もいる。すべてが上滑りの「軽チャー」でしかない、という時代ではない。リアルにメシを食って生きていかねばならないのだ。また冷戦は終わったが新しい戦争(ウクライナ、ガザなど)がリアルに始まっている。「新しい戦前」という見方もある。(ああ、それで私には、梁石日の、リアルにメシをくって生きていこうとする小説や戦前の日本を舞台とした小説が、リアリティーを持って感じられたのかも。)
荒井久美子の思惑の当否は別として、福澤秋道は好きな絵を描き続ける。そこに図形が浮かんだから描く。これを大脳やアラヤ識の問題とつなげる意図が作者にあったかかどうか? 不明。
曹洞宗永劫寺別院(サンガ)については、経済的基盤は、赤坂という立地を生かした墓所の分譲や、大規模な社葬による収入がある。それで多くの雲水に修行に専念して貰える。考え方は、大乗仏教の曹洞宗・道元の考え方による。道元には、『正法眼蔵』十二巻本による道元(a)と、七十五巻本による道元(b)とが分裂・混在しているのではないか、というやりとりが本文中にある。さらに、末永和哉がオウムの在家信者だったことから、オウムと自分たちはどこが違うか、についての議論がある(下巻の164頁以下)。これに相当のページを割いている。髙村薫は恐らく非常に熱心に勉強してこれ以下を書いた。私にはここは結構面白かったが、今ここで正確にここで再現する力と余裕が無いが、いくつかだけ書いておこう。
(なお、ここは髙村薫は頑張って書いているのだが、辞書的・教科書的な知識を並べるのに精一杯で、それぞれの信仰・教義にあったはずの、信じた人々の必死の思いが、やはりあまり反映されていないのではないか? と感じてしまったことを書いておこう。どのような鰯の頭でも、信じる人は切実な思いで信じているはずではないか? それとも、永劫寺の僧たちの信仰が薄っぺらだと言いたいためにあえてそのような書き方を髙村薫はしたのだろうか?)
・オウムと伝統仏教はどう違うか。オウムにも階層的な世界観がある。密教にも四禅にも修道の階層がある。
・だが、その中身はどうか。オウムの場合は、グルの持つ偉大な成就者のデータを修行者がコピーする、と説く。これは伝統仏教は言わない。しかもそのデータの中身とは、結局教祖の超能力のことではないか?
・「秘儀の伝授」と「解脱」の関係は。オウムは、この二者を一足飛びに結びつける。仏教ではそうではない。麻原の「カルマ」と仏教の「業」とは違う。麻原は秘儀でたやすく過去や現在の苦しみも除去できるとするが、仏教ではそう簡単ではない。今の煩悩を除くのは未来の苦しみを除くためだ。
・オウムの「タントラ・ヴァジラヤーナ」(注15)については、どうか。後期密教はほとんど土着神たちのカオスと言え、麻原は密教に「欲望の自己肯定」を発見したに違いない。
・いや、麻原のは密教的なカオスではなく、むしろデジタル思考の非身体的な何かだ。
・問題は、この現代の東京にあって、非身体的なデジタル感覚がそのまま救済の秘儀を標榜しうる宗教へと飛躍しうる、そこではないか? このように福澤彰之は言う。
・「ポア」(注16)はどうか? オウムでは、相手の息災や成仏を念ずる部分が欠落している。誰が「ポア」をするのかも不明瞭だ。麻原が命じて弟子たちが実行犯になった。弟子は神と一体ではない。中後期の密教にも調伏はあるが息災法と必ずセットだ。かつポアをするのはグルと合一した神だ。
・いや、それが救済のためになされ、それが慈悲の利行だとされたこと自体が受け入れがたい。過去の密教にそれがあったとしても、現代において密教と無縁の人々がその教えの対象とされることに、正当性はない。現代には現代の理性がある。このように福澤彰之は言う。
などなどの議論が、福澤彰之と高木・岩谷・岡崎(永劫寺の有力な雲水)の中で議論され、福澤と他の三人が決裂し、福澤が東京を離れていく。その中で、末永(もとオウム信者で、福澤彰之がここにつれてきた)のケアが怠られがちになっていった。問題はオウムであると同時に、オウムを招き寄せてしまう現代の東京の精神状況だ、ということか。しかし、この点は深められない。
注15・注16 タントラ・ヴァジラヤーナ、ポア:オウム真理教の独特の、危険な教え。昔の後期密教にこれに近いものがあったとしても、オウムの理論は牽強付会で危険だと見るべきだろう。本文中にその議論がなされている。「密教的でない独自の末法思想を簡便につくり上げたに過ぎない」「ニヒリズムの極地」だ、と作中の岡崎は言う。福澤は、岡崎のように理論的にオウムと仏教の違いを述べても始まらない、それでも若者がオウムに惹かれた点に注目すべきだ、と言う。作者・髙村薫は、そう言いたいのだろうか?
マックス・ウェーバー(注17)の宗教社会学の理論も参照され、議論される(下巻205頁以下)。そこから、グルは宗教的情熱や能力を失ったのではないか、宗教集団を維持するために終末論的な期待(注18)に傾き、国家や政治という巨大なものを敵に回すに至ったのではないか? と作中の岡崎は言う。
注17 マックス・ウェーバー:1864~1920。ドイツの社会学者。著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『ヒンドゥー教と仏教』『古代ユダヤ教』『職業としての政治』『職業としての学問』など。
注18 終末論は、キリスト教のそれが有名だが、実は他の宗教にも似たものがあると言えばある。1970年代に流行した『ノストラダムスの大予言』(五島勉)にオウムの若者は何らかの影響を受けてはいただろう。この点は本作にも言及がある。フランス・ユマニスムの研究者によれば、ノストラダムスは実は当時数多く存在した、思わせぶりな詩句を書く人の一人にすぎない。それを五島勉がセンセーショナルな本に仕立てて紹介した。
住職の長谷川明円は、学者で、浮世離れしており、末永「事件」にもっとも無関係であるか見えたが、実はオウムに関心があった。末永和哉をサンガに呼び込み、しばしば対話してきた。長谷川明円の語りによれば、末永は「私」が最後まで残ることに苦しんできた、「私」に自由はあるのか? 「私」を拒絶する自由を行使すればどうなるのか? を末永は問い続けた(注18)。(私にはこの末永のあり方こそ「自縄自縛」の袋小路に陥っているように見える。他力浄土門易行道に抜け出す道もあったはずだが、それは本作では書いていない。)合田刑事はふと思いついた。長谷川明円が末永和哉をこの事態に誘導したのではないか? と。長谷川明円の誘導で、末永はてんかんの薬を飲むことをやめ、長谷川明円が末永に合鍵を渡し、末永は自分で合鍵を開けて外に出、トラックにはねられた。これは末永の自死か? しかし、合田刑事の報告に対して、大峰検事は、「君はそんな宗教の長口舌を聞いてきて、それでも刑事か? 警察を辞めたらどうか? 長谷川は末永に対して傷害致死にあたる。立件する」と冷たく返答する。
注18 この「私」への懐疑は、埴谷雄高『死霊』にあるテーマとどこか近い。『死霊』でも主人公は自己に対する懐疑(否定)を繰り返す。本作同様私にはよくわからなかった、と言っておこう。(ドストエフスキー『悪霊』のキリーロフも哲学的な自死を行う。埴谷雄高も髙山薫もどれを意識しているに違いない。だが、彼は自分の自由意志で哲学的な自死を行ったのだから世間はこれを放置してよい、とはならない。哲学的な自死とは言えどこかで社会(社会思想を含む)に追い詰められているのだから。2025.1.11補足)
2001年10月31日、合田刑事は仕事を放擲する。福澤彰之から死刑囚・福澤秋道への手紙を読み、少し泣いた。この手紙は、話の通じない息子に対してそれでも切々と語りかける父親の手紙だ。ここには愛情がある。同時に、かつて恋人(杉野初江)を餓死させ、今息子が死刑となり、青森の寺で一人海を見つめている福澤彰之の、寒々とした姿がある。合田も孤独、福澤も孤独、ということだ。
このラストでは、父親の子を思う気持ちは感動的だ。また彼の孤独もよく伝わる。孤独だからこそ死刑囚の子に手紙を書き続けるのかも知れない。だが、読後感があまりにも寂しい。人間はこのように寒々とした所を生きるしかないのだろうか。末永が辿り着いた、自由のために「私」を放擲するありかたも、救いがあるとは思えない。作者・髙村薫は、本作で何を否定しようとしたのか。オウムを。もしかしたら禅宗を。あるいは仏教を含む宗教全般を?
(『正法眼蔵』ほかは全く理解できないでいる。有名な文言「仏道をならう(「ならう」とは何?)ということは、自己をならうということだ。自己をならうということは、自己を忘れるということだ。自己を忘れるということは、万法(何?)に証せらるる(何?)ということだ。」だが、「Aをならうことは、Aを忘れることだ」と言うのは、明白な論理の矛盾だ。「真のAをならうということは、今ある偽りのAを忘れることだ」あるいは「・・今のAを忘れるほどの無念無想の境地になることだ」などと言葉を付け加えて解釈すれば意味が通るが、それでいいかどうかは知らない。「万法に証せらるる」で、自己と世界が一体化した境地を体感したとしよう。それがもし本作ラストの、福澤彰之が体感している、寒々とした海にたった一人自分がいる世界だとしたら、あまりにも寒々としている。作者は、禅の悟りの果てはこんな感じだと禅宗を否定しようとしているのか? それとも、禅の本当の悟りとは違う方向に福澤は行った、と書きたいのか、? 私には分からない。←この項2025.1.6付記)
しかし、本作には、仏教の中の禅宗(曹洞宗)と密教は出てくるが、浄土宗(浄土真宗なども含む)と日蓮宗が出てこない。またキリスト教・イスラム教が出てこない。浄土宗も日蓮宗もキリスト教もイスラム教も、社会の中で一定以上の力を持ち、人々の心のよりどころとなり、また社会を改革する力を持ってきた。これへの言及がないのはなぜなのだろうか。僧院で結跏趺坐して只管打坐する曹洞宗と、サティアンで蓮華座を組むオウムとが、見た目が似ているから、あえて永劫寺別院(サンガ)という架空の道場を作り、オウムとぶつけて、批判したのだろうか。髙村薫の母方のご実家が浄土真宗らしいので、あえて避けたのだろうか?(注19)
注19 全く素人の私が放言して恐縮だが、素朴な疑問として、禅堂でひたすら坐禅することがどうして大乗(利他行を実践)なのだろうか? 初期仏教に戻っていないか? 坐禅だけだと仏教は一部の優れた人だけのものになるのでは? 日蓮は鎌倉幕府を動かそうとし(国家権力と関わることがいいか悪いかは別)、日蓮系の宮沢賢治は近隣の農民を助けた。浄土系の法然・親鸞は民衆の中に入り(諸説ある)、一遍にいたっては踊り念仏で全国を旅した。時宗の僧は戦乱で亡くなった人々を敵味方の区別なく供養した。真言の弘法大師空海はため池や橋を作って庶民の生活の向上に貢献したと言われる(伝説かも知れないが、後継者たちもそういう志を持っていたに違いない)。キリストは差別され抑圧された人々と共に立ち続け、キリストの後継者たちはそれゆえハンセン病棟で献身的に介護する・カルカッタの路上で倒れ伏す人をケアする、といった営みを続けてきた。新宗教も現世利益で力を持った。「現世利益」とバカにするなかれ。「鰯の頭」でも御利益がある方に人は行くのだ。道元の思弁(『正法眼蔵』)は深いかも知れないが一般人には理解できない。修行僧が只座るだけでは、飢えや抑圧に苦しむ民はどうすればよいのか? タリバンがなぜ力を持ったか? 人々の生活の保障をしたからだ(と専門家が書いていた)。
教義や人間の魂の内面とは無関係に、検事が形式ばかり見て刑事事件として立件していくことは、合田ならずとも残念な思いになる。だが、長谷川明円がどこかで意図的に末永を自死に誘導したとすれば・・? 検事があっている。だが、刑事事件ではなく自死だとしても、自由意志が行き着いた果てがその程度のものだったとすれば、寂しすぎる。人間は本来このように孤独なのだろうか?(注19) この意味で、本作は、ある程度面白くはあったが、最後の読後感は(寂しい)というものだった。もっと希望がある方がよい。「私」の否定という方向性がいけないのだろうか? 「色即是空」と行ったら、「空即是色」と反転すべきでは? (それは少し書いてあるが、あまり書いていない。)日頃自分の生を肯定できにくいと感じている人には、この本はお薦めしにくい。髙村薫は、悲劇的な終わり方で読者に衝撃を与えるのがお好きなのだろうか? 今の時代(2025年)は、希望や展望、人生の肯定を聞きたい気がする。
(「問い続ける」というのが本作の一つのテーマだろが、問い続けるのは哲学であって宗教信仰ではない。問い続けることにも価値はあるが、結局安心立命はない。問い続けることを手放しておおいなる神仏にわが身を委ねたときに安心立命が来る。これが宗教信仰だ。「つかみを放せばてのひらに宇宙が乗る」と高名な宗教家は言われた。「仏の大悲大智は広大無辺。その大きさがお前のようなさかしらに分かろうはずもない」と高名な仏者も言われた。もちろん鰯の頭に洗脳されて使い捨てられるのはダメだ。国家神道や軍国主義に洗脳されて突入した過去を想起すべきだ。だから問い続けるのは大事だ。だが、その結果袋小路に入り込むのだとすれば・・? 末永の場合は何か方向性が間違っていたのだろうか? ←この項2025.1.6補足)
注19 内村鑑三は、神自ら我が涙を拭い給う日が来る! と言い、このことに救いと慰めを見いだす。阿弥陀如来は名を呼べば必ずお救い下さる、と浄土系では確信する。このように肯定的な宗教もある。
謎の図形「太陽を曳く馬」については、何度か言及される。合田刑事が見た当初は、全く理解できない、というものだった。福澤彰之は、紀元前二千年頃のスカンジナビアの図案で、呪力や精気が湧いてくるものだと言う人もあるが、秋道にはそんな野生の思考はないはずだ、と言う(上巻252頁)。ラストでは「あの「太陽を曳く馬」の図版は、君の足下にあって、石に刻まれた線という「これ」から何かしらの意味へと、君が生命の跳躍をしたことの徴だったような気がしています」(原文は旧仮名遣い)と書く(下巻379頁)(注20)。これは寂しい父・福澤彰之の一方的な思い入れに過ぎないのか、真実を言い当てているのか。
注20 この直前に、バーネット・ニューマン(1905~1970、ロシア系ユダヤ人でアメリカ人)の「アンナの光」という絵画への言及がある。秋道は赤を塗りたくっていた。末永は、秋道の言う赤は「アンナの光」のような感じではなかったか、と言う。福澤彰之は佐倉の河村記念美術館で「アンナの光」を見、秋道に思いを致す。が、ここのところも私にはよくわからなかった。赤一面で壁を塗られても、(?)というばかりだ。また本の表紙はマーク・ロスコ(1903~1970、ロシア系ユダヤ人でアメリカへ)という人の絵を使っている。ニューマンもロスコもいわゆる抽象画家で、平面をほぼ同じ色で塗りたくる。作者・髙村薫は何かを意図しているのだろうが、私にはよく分からない。美術に詳しい方が読めば分かるかも知れない。
福澤榮(彰之の父)につながる『晴子情話』『新リア王』も読んでみるべきであろうか? これらもやはり暗いだろうか?
2025年1月3日
補足。整理していて、福澤秋道と末永和哉と、どうして二人の若者が出てくるのだろうか? という疑問が出てきた。おかげでストーリーが複雑で立体化するが、難解になって読みにくいとも言える。有閑階級の知的遊戯なのかもしれないが、思想内容(テーマ)として、二人出す理由は? 以下は思いつきだが、最初の構想では若者は一人だった、秋道がいろいろあってオウムに入る、という構想だった、だが、書いている途中で、うまくいかなくなり、秋道が死刑、末永がオウムに入る、という構想に変更したのではないか? 理由は分からない。
・秋道は「殺人」をして死刑、末永は「事故」で死亡する。
・どちらも6月初旬の出来事。
・前者の真相は秋道にしてみれば殺人の意識はないのに「殺人罪」とされ、後者の真相は末永の自死かもしれないが長谷川明円の殺意(?)が見え隠れしつつ検察と弁護士の思惑もあり「傷害致死」の「事件」として立件するが裁判の行方はわからない。
・秋道は嬰児を放置しておりこれは「保護責任者遺棄致死罪」の判決。病気の末永をサンガが十分ケアしなかったことは「保護責任者遺棄」、病気の者に適切な措置をせず業務に従事させたのは「業務上過失傷害」として冒頭で告訴されている。似た構造がある。
・秋道の内面も末永の内面も誰にも理解されないまま二人は死んでいった。(辛うじて合田が追いかけるが、それも検事によって言下に否定される。福澤彰之は何とか秋道の内面を辿ろうとするが、届いたかどうかは不明。)
いずれも、人間の内面の深奥は問われず、表面的な法の形式だけで処理される。このことへの違和感・異議申し立てを作家が書こうとしているのはわかる。この二人の比較を、もっときちんと表にして整理し直せば、さらに何かが分かるかも知れない。今の段階ではできていない。時間をかけて再読し掘り返すだけの内容を本作は持っているかどうか? まだわからない。作者は、オウムと仏教の違い、また「私」の否定の議論などに熱心に時間をかけたので、それで精一杯だった可能性もある。
2025.1.4
さらに言わずもがなの一言。私は日頃日本人の学力不足を憂えている一人だが、この本がすらすら読めなかった時点で、私もまた「学力不足」メンバーの一人だと言える。インド哲学を専攻した方なら笑いながら読めるかも。法然上人は「これ以上ややこしいことを言わないでよろしい」(『一枚起請文』)と言われたので、私は安心しているのだが。 2025.1.4
2025.1.12更に補足
髙村薫『空海』(新潮社、2015年)をめくってみた。髙村薫氏が高野山を訪れ空海の事跡に触れながら考えたことを書く、というスタイルの本だ。
「初めに」のところで、1995年1月に阪神大震災に遭遇したことを機会に、「私の・・人生は・・根底から変わった。いかなる信心にも無縁だった人間が突然、仏を想ったのである。」、以来仏教書をひもとき仏とは何かを考え続けている、と書いている(6頁)。また、東日本大震災(2011)以降の福島を髙村薫氏は訪れ住職さんらと対話しながら様々な思いを致している。
私は、上記ブログで、髙村薫氏は宗教信仰に入る人の気持ちが分かっていないのではないか? といった不満を述べてしまっているが、髙村薫氏はそうではなく、仏とは? 仏を信じる人たちのありかたとは? といった問いをもって考え続けようとしておられるのだろう。『太陽を曳く馬』は2009年出た本なので、阪神大震災と東日本大震災との間で出ている。阪神大震災以降の「仏とは何?」という問題意識があって、これを探る彼女の営みの一環として出てきた本だ、と見ていいだろう。私の上記の書き方は少し、いや大幅に修正しなければならないのかも知れない。
もう一点。第9章「再び高野へ」のところで髙村薫氏はオウムについて言及しておられる。密教とオウムはどう違うのだろうか? もとオウム信者にもインタビューした。入信信者たちは、神秘体験を得たようだ。若き空海とオウム信者たちとの違いは、「自身の体験を言語化し、それを以て衆生を救済せんとする宗教家としての強固な意志の有無だけだ」(163頁)と髙村薫氏は書いておられる。「言語と三昧の間を行き来するのが本来の宗教者というものだとすれば、オウムの堕落は、身体体験の宗教的純化も捨てて、総選挙への立候補だの武装化だの、さまざまな現世の夾雑物を宗教に持ち込んだことにあったのは間違いない。」(167頁)とも。高村氏はそう言っておられる。このことを補足しておこう。