James Setouchi

2024.12.29

 

天童荒太(てんどう あらた)『巡礼の家』文藝春秋2019年

 

1        天童荒太(てんどう あらた)(1960~)

 愛媛県松山市に生まれる。道後に育つ。松山北高校、明治大学文学部演劇学科卒。1986年『白の家族』で野性時代新人文学賞。1993年『孤独の歌声』で日本推理サスペンス大賞優秀作。1996年『家族狩り』で山本周五郎賞。2000年『永遠の仔』で日本推理作家協会賞。2009年『悼む人』で直木賞。2013年『歓喜の仔』で毎日出版文化賞。ほかに『包帯クラブ』『巡礼の家』『青嵐の旅人』など。(本書の著者紹介などを参考にした。)

 

2 『巡礼の家』文藝春秋2019年

 

(1) 登場人物 (結構多い。主なものだけ)(なるべくネタバレしないように)

鳩森雛歩:15歳。ある深刻な事情でさまよっていたところを助け出され、『さぎのや』へ。

鹿男(シカオ):雛歩の兄。親戚に預けられ、今は自衛隊員。

美燈(ミト):『さぎのや』第80代女将。美しく、心優しい。

千鶴:『さぎのや』第79代女将。故人。

鶏太郎老人:千鶴の夫。今は『さぎのや』の隠居老人。 

まひわ:『さぎのや』第78代女将。現在は大女将。80代。白鷺神社の祭主。

飛朗(ヒロ):『さぎのや』の男子。25歳くらい。弁護士を目指している。

こまき:飛朗の妹。20歳くらい。美しく、やさしい。看護師の卵。

俊平:飛朗とこまきの実父。

マリアさん:『さぎのや』にいる女性。5人の子の母親。

イノさんとアキノリさん:人力車を引く人。

若葉:飛朗の幼馴染。芸者「福駒」。

由茉:若葉の付き人。雛歩と同学年。

フクロウ医師:近所の医者。

磐戸屋さん:道後の老舗旅館。

仁志岡さん:道後の祭の八つの町の会の総代。

 

(2)コメント(ネタバレします)(読んでいること前提のコメント)

 松山・道後の旅宿『さぎのや』を舞台にした小説。時代は現代。主人公は鳩村雛歩(ひなほ)、15才。性的描写もなく、健全なジュニア世代にもお薦めできる。なお『青嵐の旅人』(2024年)は『さぎのや』の幕末維新版である。この二作は中学生にもおすすめ。『永遠の仔』『悼む人』などは結構イタイ。

 

 『さぎのや』は、神話時代から続く、傷ついた旅人を受け入れ癒す宿だ。遍路道にあり、傷を抱え行き倒れになった遍路たちを抱えて担ぎ込み、ケアしてきた。

 天童荒太は、現代社会において心の傷ついた人の癒し・救いをテーマとして小説を書いてきた。そのエッセンスが詰まったような小説だ。ここはさすがだ。例えば、次の文言を見よ。

 

・「あなたには、帰る場所がありますか?」(17頁、363頁)

 この問いは作中で繰り返される。これは、現代の、「帰る場所」「居場所」「安心立命できる場所」を見いだせない人にとって、もっとも重要な問いかけであるだろう。様々な理由で帰る場所がなく遍路に来ているのだ。『さぎのや』のスタッフはこうして、帰る場所のない人に声をかけ、ひきとり、いつまでもいていいのですよ、と温かくケアする。

 

 よく考えれば家族など待っている人がいる相手には、こう言う。

・「あなたが帰って行く場所は、あなたが人を迎える場所でもあります。」(85頁)

 なるほど。自分の絶望で家出してきたものの、よく考えれば、自分を待っている配偶者や子供がいる。彼らは自分を心配して待っている。自分はそこに帰り、彼や彼女を大切にしてやらねばならない。自分は今まで絶望していたが、本当は愛に包まれて生かされてきたのだ。自分もまた、彼や彼女を愛し生かさなければならない。そこに自分の居場所はあった。

 

・「待って」「もう少し待っていて・・」(331頁)「自分にも、他人にも、大事なことを判断するには、時間がかかることを許してあげてほしい」(332頁)

  そうだ。相手や自分を追い詰めてはいけない。大事なことを判断するには、時間がかかる。「待つ」ことは大切だ。ここのところは私にはグッと来た。

 

 また、弱っている人のケアをすることは、その人のためだけではない。

・「自分のため、というのか、自分の証明のためにやりよるところがある」「縁もゆかりも無うても、困っとる人のために、汗をかける自分でおられるかどうかよ」「根っこは、共に悲しみ、共に苦しむ心よ。共に生きている者への思いやりよ」(350頁)

 このように松山・道後の町の連中は言う。よそから来た鳩村雛歩のために皆が一肌脱ぎ、力を合わせるのだ。

 

 根底にある人間観は

・「わしらもみんな、生まれて死ぬまで、幸せと救いを求めて、この世を旅する巡礼じゃ」(348頁)

という認識だ。その巡礼者をお守りください、と神に祈るのだ。

 

 実は冒頭プロローグに、旅宿『さぎのや』の由来、および人間と神の関係が書いてある。プロローグは再読すべきだ。傷ついたシラサギが道後温泉で回復する。シラサギは神と語る。神は、宇宙の秩序を整えることや地球における人間の役割を見るはするが、一人一人にまで心を配るゆとりはない。人間は(他の生き物も同じく)死ぬ定めにある旅の者だ。人間は知恵もあるが欲も深い。ゆえに人間のよき手本となる人物を折に触れ人間界に神は遣わす必要がある。その者たちが、道に迷った者たちに手を差し伸べられるよう、この地を訪れるものたちが、本当の幸いとは何かを悟れるよう、神は見守る必要がある。シラサギは神に誓願を立て、自分をその任に充ててほしい、旅の者を迎えて力づけてやりたい、と言う。こうしてシラサギは旅宿『さぎのや』を開き、初代女将となった。旅宿『さぎのや』では、こうして、神霊の守りのもと、古代以来代々人々をケアしてきた。

 

 鳩村雛歩もまた。今鳩村雛歩をケアしてくれているスタッフの皆も、過去において何らかの死ぬほどの絶望を抱え、ここに辿り着いた。ここで癒され、立ち直り、人をケアする存在として生まれ変わっているのだ。

 

 鳩村雛歩は、15才にしては幼い。豪雨災害で家を流され、両親が行方不明になり、親戚のやっかいになるが心を閉ざし、年齢相応の成長ができていないのだ。(他の人の言葉を、幼稚な頭で聞き間違える。ここは、中学生が読んだら面白いかも知れないが、私には冗長に感じた。)過失で人を殺して(?)遍路道の旧街道に倒れているところを、『さぎのや』の女将に救けられ、ここにやってきた。雛歩は、しかし、恐らく、神霊・死者の声を聞く能力がある。『さぎのや』の女将から、邪心無く他者の傷みに共感・共苦する能力を買われる。雛歩は、巫女の素質を持っているのだ。雛歩は周囲の愛情に支えられながら、自分も周囲を信頼して生きていくことができるようになる。

 

 道後の町の秋の祭礼、神輿の鉢合わせが重要な要素として出てくる。天童荒太は頑張って書いている。

 

 道後の観光案内にもなっている。詳細に書いている。

 

 ここ『さぎのや』は困っている人・弱っている人を受け入れケアする場所。そこで癒され出ていく人もあれば、そこに居ついてほかの人をケアする人になることもある。ホスピスにもなる。一種のアジールであり、コミューンであり、原始キリスト教会のエクレジアはこのようであったかと思わせる何かだ。飛朗の実母(弁護士で政治家)は市場経済の論理を持ち込もうとするが、『さぎのや』のメンバーはこれを拒否する。天童荒太の現代日本批判があり、市場経済に対するオールタナティヴの提案がある。

 

(3)少し批判しよう。

(3)―1神と人間について

 神は宇宙全体や地球に対する人類全体の責務には注目するが、個々の人間にまでは心を配るゆとりがない、と「プロローグ」にある。

 だが、キリストは言った、「神は市場で売られる雀でも見守っておられる。人間は髪の毛一本に至るまで神に数えられている。人間は神にとって雀よりも大切なものだ」(マタイ10:29大意)、「恐れるな。小さい群れよ。御国を下さることは、神の御心なのだ」(ルカ12-32)など。地球環境に対する人類全体の責務、といったマクロの視点ではなく、神は、どの一人の人間の苦しみにも立ち会い、これをおぼえ、これに必ず報いる、とキリストは言うのだ。「最大多数の最大幸福」原理ではない。そこがキリスト教のすごいところだ。法然・親鸞の考え方もそうだ。完全に非力な者をこそ阿弥陀如来は救済する。

 

(3)-2祭りについて。(あらかじめ申し上げておきますが、私の先祖は神主(神職)です。神道学は専門外です。)

 

(3)―2-1 神輿の鉢合わせをするのは、神輿を担いで揺さぶる形の延長上にあり、「タマフリ」だと本文にある(309頁)。だが、神輿を荒々しく振ることは、元来の「タマフリ」とは異質だ神様を高貴な客人の如く接待するという「まつり」の基本形と合致していない、祭が庶民に広がった時代以降のことではないか、という趣旨のことを高内寿夫という人が述べている。(國學院大學のサイト、神道とは何か、たまふり(1))。松前健「天武天皇と古事記神話の構成」(奈良大学紀要第20号、1992.3)によれば、鎮魂祭の文献における初見は、天武14年(685年)11月、天武天皇の病に対して諸僧を招き悔過(けか)や読経をするさなかで「招魂(たまふり)」をした、とある。病気治療のためだろう。それがのち儀式として継承されたのだろう。体から遊離せんとする霊魂を招き返して体に鎮め、身心の保全を図ろうとする、一種の健康呪術だ。大略このように松前健は述べる。

 私は専門ではないが、秋祭りで神輿や山車(だし、だんじり)を担いでわっしょい、わっしょいと興奮状態になるのは、本来のタマフリではない、という国学院や奈良大の先学の見解に敬意を表したい。秋祭り=神輿や山車を出して大騒ぎするのが、「古来の伝統だ」と言い張るのは、史実を無視した、歴史(伝統)の捏造だ、ということになる。

 ここから先は人々の考え方で、(1)人々のニーズで変わってきたのだから、仕方がない、(2)こうして変わってきたこともまた神のみこころだ、(3)今の形は堕落し逸脱しているので、本来の形に戻すべきだ、などの立場がありうる。(1)は人間中心視点、(2)は神中心視点、(3)は神視点でさらにファンダメンタリストの立場である。いかがですか?

 

 ちなみに、道後の神輿の鉢合わせについて、やりたい人は熱心にやりたいのでやっていただいて結構なのだが、私自身は非力だし危険なことが嫌いなので、「けが人が出なければいいが・・ああ、道後に生まれなくてよかった」というのが素朴な実感だ。

 

 TVの『県民ショー』(2024年12月?)で、秋川雅史氏(オペラ歌手)が、西条市のだんじりをズラリと並べた秋祭りに熱心に参加して、「これが本当のオレなんよ!」「岸和田の祭りもすごいけど、こっちが勝った」などと、祭りに夢中になる様子を放映していた。見ていたゲストたちも感動して涙している人もいた。映像は確かに美しかったし、やりたい人はやっても構わない。が、上記述べた如く、「これが古来の伝統だ」と言い張るとすれば誤りだし、あまり危険なことにならなけりゃいいな(だんじりが巨大すぎる、夜に川に入るのはやっぱり危険)、自分はあそこに生まれなくてよかった、とやはり感じた。そもそも人口減少でかき夫(担ぎ手)がいなくなると、他所から呼んでくることになり、うまくいけばいいが、一歩間違えると乱暴な事態(喧嘩とか事故とか未成年の飲酒とか)(神はそんなことを望んでおられない)になる。またその壮大な祭礼のためにコストを投入する日々があり(実際秋川さんも日々トレーニングをするということだった)、そのため日常のやるべきこと(若者が勉強するとか)ができなくなるとすればどうか。そもそも病弱な人や足腰の悪い人にはあのだんじりは担げない。(岸和田でも同じですな。)そこがキリスト教と違う。キリストはハンセン病で苦しむ者や足腰の悪い者に声をかけ共に食事をし癒した。『さぎのや』のやっていることだ。その意味で、本作は『さぎのや』のケアと道後の鉢合わせをくつける力業を使い、矛盾(飛躍)を内包してしまっていると言える。

 

 現代人はイベントで年中騒いでいて、アドレナリンが出すぎているので、しっぺかえしが来るのではないか? これは気を付けたほうがいい。血が頭に上って、倒れてしまうのではないか? 中江藤樹は静かに暮らした。上の子の中学校の運動会、下の子の小学校の運動会、町内会の運動会、理髪店組合の運動会と4回運動会をやった上に、上の神社の祭りと下の神社の祭りとでまず4~5日は出ずっぱり、となると、9~10月は忙しすぎてヘトヘトになる。TVをつけたら野球にサッカーに五輪で絶叫調の実況中継。ああ・・という経験をなさった方も大勢おられるだろう。

 

 神輿はいつからあるのか? 知らない。大河ドラマで平安末に比叡山や興福寺の僧が小さな神輿を担いで今日に強訴に来るシーンが描かれるが、どこまで史実か。そのとき神輿を縦に揺らすのか? 近隣の有名な神社では絵馬か何かによると江戸期に神輿があったとわかるが、それ以前は資料がないから何とも言えないそうだ。直感的には、戦国時代など、戦乱期には神輿を作って祭礼で騒ぐなど、できなかったろう。

 

 山車(だし、だんじり、屋台)はいつからあるのか? これがあるエリアとないエリアがある。有名なのは岸和田のだんじり、西条のだんじり。京都や飛騨高山の静かな山車。前者は大騒ぎで、後者は静かでみやびやかだ。これも、資料でどこまでさかのぼれるのか。直感的には、戦乱期には無理だ。

 

 すると、巨大な神輿や山車を作って秋大祭を祝えるようになったのは、早くとも江戸時代ではないか?(比叡山や興福寺を例外して。)

 

 神社を作ったのはいつか? これは、仏教伝来で大寺院を作ったのに触発されて大神宮を作った、と歴史家が言っている。仏寺以前に神社があったわけではない。神社神道は仏教伝来以降にできたものだ。神職の階級制度も、仏教の僧侶の階級制度にならってできた、とは教科書的な知識だ。「仏教が外来で神社神道が土着の伝統」ではない。それは幕末維新の「廃仏毀釈」で出てきた、史実の誤認だ。

 

 神社成立以前はどうだったのか? 知らない。思うに、神聖な祭りの日には、しめ縄などで結界を作り、聖なる場所を設けてそこに神を迎え、おまつりしたのではないか? しかも専業神職は存在せず、交代でその「役」に当たったというのが正解ではないか(柳田国男説など)。

 

 神様の名前(ナントカヒコ、ナントカヒメなど)がついて、隣村の神様とは違うと言い出したのは、いつからか? なぜか?

 

 産土(うぶすな)の神(その土地の神)を「氏神」(先祖の神。代表例は中臣氏・藤原氏の先祖の神様、アメノコヤネノミコトで、奈良の春日大社でお祭り。)と混同したのは、いつからで、なぜか? 

 

 中国大陸(南方の奥地)に土地の神の信仰と日本の「小さい神」(スクナヒコナ、一寸法師など)の神話・伝説・昔話と似たものを持つエリアがあると聞く。日本の祭りのルーツはそのあたりにある? それがいつどうやってこの列島に入ってきて、どう変容して、今の日本の祭りになった?

 

 明治の「一村一社体制」で何がどう変わったか? 

 

 明治の国家神道は日本(日本人)をどう変えてしまったか?

 

 巨岩や雷や暴風雨や美しい山や海を神威あるものとして畏怖し崇敬する感覚はわかる。その自然の向こうにある聖なる存在を崇敬しこれに感謝し守護を祈願する感覚もわかる。そこから、いわゆる神社神道までは、時間にして数百年分の距離があり、質的にもかなりな断絶があるのではないか? 「神社神道こそ日本人の古来の伝統です」といった主張には、かなり無理があるのでは?

 

 その他その他、疑問がいろいろと出てきてしまうのだ。

 

(3)―2-2 神輿をぶつけ合うのは危ないだけではない。そもそも、勝つとか負けるとか祭りで言うのは、どういう事態なのか? 信仰に勝ち負けを持ち込むのがわからない。神と相撲を取って神様が勝ってめでたしめでたし(大三島の大山祇=おおやまづみ=神社)というのならわかる。(イスラエルは神と戦って神を降参させた。よくわからない。)神輿をぶつけて勝ち負けを競うのは、自分の部族や村が、隣の部族や村と、戦争をするときに、自分の神に守ってもらい、相手の神を打ち倒す、ということをしていた名残だろうか? だが、それは、よく考えてみると、自分たちの勝手な欲望の実現のために神を使役する、という、大変恐ろしく罰当たりなことをしてしまっているのではないか? また、もし戦争をやめて隣村と仲良くなったというのなら、ともに神をまつり神に感謝し神を祝えばいいのであって、神輿のぶつけ合いなどの争いを持ち込む必要はないのでは? よくわからない。どうですか? 

 

(3)-2-3 もう一つ付記(2025.1.2)。地域おこしの本を読んでいると、祭りを地域おこしの切り札のように書いてある本があったが、ことはそう簡単ではない。確かに祭りの好きな人もいる。だが、祭りの厭な人もいるのだ。祭りで意見が対立して「二度と祭りには出ない」となってしまう、ということもある。大声で騒ぐことや飲酒や喧嘩が厭だ、と言う人もある。そもそも神道信者ではなく、信仰心が篤いので秋祭りには出ないという人もいる。(いていい。宗教信仰を強制することはできない。)そういう人に「昔からやっている祭りくらい参加せよ」と強制することはできない。強制するのは戦前の国家神道の頭を引きずっているのだ。(だから国家神道や一村一社体制、廃仏毀釈などで江戸以来のものから何がどう変質したのか? の勉強が必要なのだ。)加えて、地場の住民ではなく、アパートや下宿の人をどうするのか。地域の繋がりをつくることを考えるなら、祭りも一つの手ではあるが、それ以外の方法(機会)も考えた方がいい。防災訓練や人権学習会や敬老会、食事会、俳句学習会、詩吟の会、古典の学習会、子供会、クリスマス会などなど。酒を飲まない人も超高齢者も足腰の悪い人も参加できる機会。「祭りが切り札だ」と声高に言う人は実は祭りの好きな人だった・・というわけだ。

 

2024.12.31付記

 本日の朝日新聞文化面に、「渋谷の若者 排除の末、漂う」という記事があった。それによれば、70年代以降の渋谷パルコ、90年代のセンター街、90年代後半のジベタリアンなど、若者が集っていたが、95年の地下鉄サリンを機に、治安のために、「雑多で自由な雰囲気はじわじわと失われて」いった。04年にセンター街や駅前交差点に監視カメラがつき、「排除ベンチ」が現われた。「都市の浄化」の名目は「結果として誰でも使える公共空間の衰退を招いた」(五十嵐太郎=東北大)。10年代以降、シブヤヒカリエをはじめ高層ビルが建った。「資本主義の論理が背景にある。」「現在の再開発は企業が主要ターゲット。地価は上がり、文化的な営みを重視しながら店を続けたい人は離れざるを得ない。・・」「騒がしい若者のような不安定な存在を排除することで機能性を高めようとしている」(吉見俊哉=東大→國學院大)。「駅前の店はどこも飲み物さえ高く、入りづらい」(20才の大学生)

 

 資本の論理が貫徹すると、「この土地でどれくらい儲かる」という計算ばかりするようになる。お金のない人も含めて誰もが安心して休める公共空間がなくなる。資本が「コモン」を食い散らかして金儲けの手段にした挙げ句に、収益が上がらなくなると荒廃させたまま放棄する。(町だけではない。田畑山地などもそうだよ。)そこに人間の安心できる「居場所」はない。

 

 道後の『さぎのや』は、その資本の論理の対極にある存在だ、と言えるだろう。

 

 今までも過去にも、ヨーロッパにおけるエコ・コミュニティーやムスリムのコミュニティー、日本のヤマギシズム、ヒッピーたちのあつまる幻の「南波照間島」(実在しない)、アメリカのアーミッシュの村、キリスト教の修道院、釈尊のサンガ、原始キリスト教の共同体、中国奥地の桃源郷(実在しない、多分)、インド奥地のシャンバラ(実在しない、多分)、東方海上の蓬莱島(実在しない、多分。もしくは日本のこと?)などが試みられ、語られてきた。人民公社やイスラエルのキブツはどうか。某カルト宗教のサンガはどうか(信教の自由はあってしかるべきだが、人を殺人ロボットに変えてしまうようなものは、お薦めしない)。それらはどう違いどう同じか。現代の市場経済(資本主義経済)の論理が暴走してしまい人々に居場所がなくなっているとして、どこに人間の安息できる場所を見いだせばいいのか?

 

・浅田次郎『母のいる里』(東北)は資本の論理でなりたっているが、それを超える絆を描く。

・森敦『月山』(東北)はもうちょっとおどろおどろしい。

・宮沢賢治(岩手)は実在の岩手をイーハトーブとして幻視した。根底には法華経の信仰がある。

・上杉鷹山(山形)の試みは、聞くところによれば、相当程度成功した、と言えるのでは?

・トマス・モア『ユートピア』は一読に値する。

・ウイリアム・ペンは理想の国を作ろうとペンシルバニアを作ったが・・