James Setouchi

2024.12.25 

学校教育?

 

映画『がんばっていきまっしょい』(実写版)

 

 『がんばっていきまっしょい』については、

1        原作小説

2      実写版映画(主役は田中麗奈)(監督は磯村一路)

3        TVドラマ版(主役は鈴木杏)

4        アニメ映画版(主役の声は雨宮天)

などがある。私は1は一読、2は一見、3は何回分か見て、4は未見。

 

 ここでは2の実写版映画作品に基づいて私見を述べる。昔(25年以上前)に見たもので、記憶違いなどもあるかもしれないが、悪しからずご了承下さい。4については全く見ていないので、現在(2024年)アニメ映画版を見てそちらで判断している人は、アレ? と感じるかもしれないが、この点も悪しからずご了承下さい。

 

 さて、実写映画版だが、作中の出来事を時系列で並べ直すと、

 

 1960年代(?)にコーチの入江晶子(役者は中嶋朋子)が高校生でボートを漕いでいた。彼女は東京に出るが、70年代にはわけありで(?)愛媛に帰ってきていた。

 1970年代、篠村悦子(悦ネエ)が伊予東高校に入学するが、高校生活に意欲が湧かず、たまたまの出会いがきっかけで女子ボート部を作ることに。コーチには、入江晶子が呼ばれるが、入江は最初やる気が無い。やがてコーチも部員たちもやる気が出て、それなりの青春を過ごす。

 1990年代か?(映画の公開の年と考えれば1998年。) 篠村悦子たちの青春から恐らく随分年月が経ち、海岸のボート部の艇庫は使う人もなく傷んでいる。教育委員会の職員(役者は小日向文世)や教員たちも、様子を見にきて、早く取り壊さなければ、と言う。

 

 観客の目から見ると、実写版映画作品は、現代(1990年代?)に艇庫の傷んだ様子を教育委員や先生方が見に来るところから始まり、1970年代の篠村悦子の時代(女子ボート部を作ったころ)への回想へと入る。その中で、1960年代の入江晶子の青春時代は、言及されるが、描かれてはいない。

 

 この物語の、もう一人の主人公は、入江晶子コーチだ。60年代(?)のボート選手で日本代表の経歴の持ち主。しかしわけあって(?)挫折し、くすぶっていた。ボートへの情熱もない。だが、篠村悦子たちとの出会いで、変容する。「ボートしかなかって 自分がつまらんおもっとったけど そんでよかったんよ」と彼女は言う。彼女はボートに打ち込んだ自分の青春を一度は否定していたが、今や反転して肯定している。大きく言えば、自己肯定ができるようになっている。

 

 ここで原作者の敷村良子(1961~)の人生を重ね合わせることもできる。敷村良子は1970年代のボート部員で、その後都会に出るが松山に戻り小説『がんばっていきまっしょい』を書き坊っちゃん文学賞受賞(1995年)。かつての十代の青春を、それでよかったのか? と懐疑し、反転して「それでよかったのだ」と小説に書いたとも言える。この点で、敷村良子はコーチの入江晶子に自分を投入していると言うこともできる。多くの人は、「敷村良子=篠村悦子」と感じ、それも全くの誤りではないが、同時に(それ以上に)「敷村良子=入江晶子」と考えてみることができるのだ。

 

 敷村良子自身は、女子ボート部を作った女子たちの1学年下と言われており、映画では下級生の大西真理子(役者は田村絵梨子)にあたる。実は篠村悦子ではない。

 

 さて、この物語の主人公、篠村悦子は、伊予東高校に入学するが、数学が全く出来ず、高校生活に意欲が持てない。プチ家出をして海岸に行くと、ボートを漕いでいる人の姿がキラキラしていた。(この映像は本当にキレイだった。夕日の輝く瀬戸内海、四国の西海岸は、美しい。)学校で男子ボート部の先輩が声をかけ、彼女はボート部に自分も入りたい、と思うが、女子ボート部が存在しないことが判明すると、彼女は人を勧誘し、女子ボート部を作ってしまう。先生がコーチを呼んでくる。

 

 大会は何度か参加した。参加するうち、楽しくやればいいのではなく、「がんばって」力を合わせて勝とうとするチームに変容していく。やる気のなかったコーチも変容する

 

 ここで大きな疑問。(私の読者なら、もうおわかりですね。)

 

 夕日がキレイで、のんびりボートを漕いでもいいのに、どうして仲間を集め大会に出て勝ちに行こうとするようになったのか? 

 

 東京なら不忍池で、瀬戸内海なら(どこか知らないが)それなりの安全な場所で、ゆっくりボートを漕いで楽しんでもいいはずなのに、どうして大会に参加したのか? どうして勝つために「がんばって」いくチームに変容しなければならないのか?

大会に参加したから、競争の中で、競争心を煽られ、プライドを刺激され、勝ちにいく人間とチームに変容してしまったのではないか? 果ては、ライバルチームの実力やクセを視察し、ビデオに撮り、「あいつはこういう癖があるからこうやって勝て」と言い始める。ボート(注1)だけじゃない。野球なら「あのチームはセカンドが穴だからそこを狙って打て」「あいつは高めのカーブで空振りするからそれで打ち取れ」と言い出す。どうして相手の打ちやすい球を投げ、とりやすい打球を打ってやらないのか? その方が仲良くできるのでは? ここが蹴鞠や羽子板(注2)との決定的な違いだ。近現代に始まったチャンピオンシップの競技スポーツはみんなそうだ。(注3)そういうのを勝利至上主義と言うのだ。「敵を知り、己を知り・・」と孫子を使って言う場合もある。だが、孫子は言う、「戦わないのが最上だ」と。(孫子はまだ不十分だ。「戦わないで勝て」と言っている。なぜ「勝て」? 勝ち負けナシで仲良くすればいいではないか?) どうして勝ちも負けもない世界をめざさないのか? どうして修羅の心を煽られてよしとするのか? イザ勝とうとすれば、過酷な練習が待っている。エルゴメーターを引き、筋力をつけ、食事を大量にとり、長い時間をかけて仲間と練習する。相手チームを偵察に行き、ビデオに撮り、弱点を探る。それは過酷なことであり、それによって多くの時間が奪われ、多くのこと(予復習、探究学習、読書、家の人の世話)ができなくなる。それだけの犠牲を払って、それでも勝ちにいきたいと思うようになるのはなぜか? 大会の論理にからめとられてしまっているということではないか?(注4)自分の自由意志で選んだ(ゆえに責任は自分でとる)、という形をとりながら、実際には、「大会で勝つことはエライ」「野球部もまた一つ甲子園に近づきました」という価値観が、システムの中にあらかじめ用意されており、人々に知らぬ間に刷り込まれており、つまりは、人々はマインド・コントロールされている、ということではなかったか? 

 よく見よ。日本国憲法にも教育基本法にも学校教育法にも文部科学省指導要領にも、「大会で勝て」とは一言も書いていない。(当たり前だ。)

 

注1         ボート競技の淵源は古代ローマのガレー船漕ぎと言われているが、直近ではオックスフォードとケンブリッジがテムズ川で競い合ったものだ。彼らは「世界の支配者=大英帝国の白人男性」という帝国主義的世界観を持っており、自称「紳士のスポーツ」の名の下で世界の支配者になることをめざして鍛錬した。これが東京帝大など明治帝国のエリート学校を通じて日本に入ってきた。東大と一橋の隅田川での競漕はこれによる。

 

注2         蹴鞠や羽子板は、相手に取れるものをパスする。親子や友人とやるキャッチボールも同じ。声を掛け合って仲良くなるためのスポーツなら、大変結構だ。相手に取れない球を打ち込んでいばってどうするつもりだ?

 

注3         古代ギリシアにも勝利を競うスポーツがあった。そのギリシア人たちは、他のポリスを攻略し、自分たちの支配下に置き、果ては富を独占しようとした連中だ。それを継承したいとあなたは言うのか?

 

注4         誰が大会を作ったのか? 大会を主催した者の狙いは? 昭和15年(紀元2600年)明治神宮(外苑?)にて「大日本帝国の日本一の桃太郎の大会」が開かれた。(出典を忘れた。新聞だったかもしれない。)大人よりも頭一つでかい小学生の男の子(女の子も)が表彰された。帝国の理想的な軍人になれると期待されたからだ。言うまでもなく、桃太郎は頑健な身体能力と武力他を用いて海の向こうの「夷狄」を制圧し略奪する侵略主義者だ。ナチスは美しく優秀なゲルマン人を評価し、ユダヤ人と障がい者を抹殺していった。朝日新聞は金儲けのために(販売部数を拡大するために)中等野球大会(戦前)を始めた(これは今の朝日への批判ではない。念のため)が、野球大会は、帝国主義的な身体と敢闘精神を養うためのツールとして利用された。クーベルタンは世界平和の理想に燃えて五輪に私財を投じたが、ギリシア人はオスマン帝国からの独立のナショナリズム精神にこれを利用し(橋場他『古代オリンピック』『学問としてのオリンピック』)、東西冷戦下では超大国が自国の強大さを誇示するために利用し、また途上国が(64年の日本も)国民の不満をそらしよく言えば国民に希望を灯すために選手を利用した(マラソンの円谷幸吉=つぶらやこうきち=を見よ。『オリンピックに奪われた命』)。今でも「日本はメダルを何個取れたか?」などと騒いでナショナリズム高揚に利用している。(その選手は普段イタリアやアメリカで活躍している人なのに? 何か変だ。)誰がどんな意図でその大会を始め、利用しているのか? 社会の中でその大会はどのような機能を果たしてしまっているのか? の問いなくして、「大会が有るから参加する」「気付かずにチャンピオンシップに絡め取られてしまっていた」では、思考停止=反知性主義=愚民化政策に絡め取られている、と言われても仕方がない。

 

 宮沢賢治金子みすずの詩を読んで育った人は、そうはならない。「あらゆることに自分を勘定に入れずに」「いつも静かに笑っている」菩薩の境地を理想とする人は、地上の争いを嘆く。「イワシの大漁のお祝いの裏にはイワシの悲しい葬式がある」と発想する感性を持った人は、相手を倒して勝ちに行くことはしない。システムに乗せられて勝利をめざしてコースを懸命に走ってしまった場合、自分の中に修羅の心が目覚めてしまったことを恥じ、反省し、嘆くだろう。この煩悩は自分では解決できないと阿弥陀如来におすがりするかもしれない。中原中也はどうか。誰も顧みることのない・役にも立たない「月夜のボタン」をあなたは拾えるか。幼い子どもは、大人たちによってスタートラインに立たされ、「さあ、あのゴールめざして頑張って(他の人よりも早く)走るのよ!」「あなた、一等賞でエラかったわね!」などと、幼稚園(ですか?)で教え込まれてはじめて、競争をするようになるのではないか? もちろんジャイアンのような子もいるだろう。そういう子には欲望を抑え他に譲ることを教えなければならない。だが、初めからのび太のような子もいるだろう。中勘助(なかかんすけ)の『銀の匙(さじ)』の主人公は、争いが嫌いだ。帝国主義の先生が暴力的な関わりをすると、泣き出すのだ。主人公の兄は、帝国主義の思想に染まっている。弟は、兄が嫌いだ。中勘助は、帝国主義に染められる以前のウブな心優しい子供を描いて見せたのだ。競争を肯定する人は、21世紀になっても、未だに帝国主義システムの価値観を引きずっているのだ。「やるからには勝たねばならぬ」と言った人がいるが、初めからやらなければいいのだ。その暇に宮沢賢治の全集でも読まれてはどうですか。

 

 富国強兵と日清日露戦争のプロセスで、軍歌を教え込みナショナリズムを血肉化させ戦って勝てるボクラ少国民を育ててきた。運動会(西洋型の歩行で厳しい入場行進アリ)を始め、かけっこ(徒競走)を取り入れた。懸垂で筋力を鍛え銃剣を持っての匍匐前進をできるようにし、組体操で障壁を乗り越える能力を身につけ(人民解放軍の宣伝サイトでやっているやつ)、遠投で手榴弾投げの準備をした(「沢村、しっかり狙え」と上官殿が巨人の沢村に言ったという話が伝わっているが・・)。勝利者は拍手喝采で迎えられる。徴兵制甲種合格がエラく、病弱で不合格の者は非国民だと差別された。歪んだ価値観だ。(安岡章太郎の『遁走』を見よ。)

 

 競争して勝て、というのは、明治の帝国主義システムや戦後の高度成長システムが国是とした価値観だ。江戸時代の幕藩制のシステムでは、競争せず、「親の仕事を受け継げ」「足るを知れ」「一時江戸に遊学しても故郷に帰ってこい」と教えた。今や高度成長システムが立ちゆかなくなり、持続可能な安定型システムが重要となった。パラダイム転換をするにあたり、あらためて、仏教やキリスト教、また老荘思想や儒学にヒントを得つつ、「相手を倒して勝ちに行く」のではなく「異なる価値観を持った相手を思いやり争わず共に生きる」(私ができているとは言わないが)世界観に移行していくことの方が、大事なのではないか? 

 

 映画『がんばっていきまっしょい』に戻ろう。

 

 大会に参加せず、のんびりと仲間と夕景色を楽しむボート部があってよい。マッチョでなくてよい。マッチョな人は、自衛隊や海上保安庁に仕事があるだろうが、全員がそうでなくてよい。「マッチョ=善」とするのは、偏った思想だ。(ヒトが種として生き延びるためにも、多様性が必要だ。もしマッチョという単一のタイプしか残らなかったら、ヒトは遠からず絶滅するだろう。心優しい人、賢い人、愚直な人、手先の器用な人、おおらかな人、繊細な人、いろんなタイプがいて、助け合い補い合って共に生きるのがよい。)

 

 疑問がある。

 どうして映画には冒頭のシーンがあるのか? つまり、1990年代のボロボロに寂れた艇庫を見て「早く壊そう」というシーンを入れてから、1970年代の青春の回想に入ったのか? 皆さんはどう考えますか? (この文章のラストに一応の答えの試み)

 

 批判がある。

 コーチは、自分の青春時代がボートばかりでダメだった、と思う十年間の思いがあるのなら、その反省(自己批判)の上に立って、若者には同じ過ちを繰り返させてはならない、という視点を持つべきだが、どうして持たないのか? 「正反合」を使うなら、「正」=高校時代のボートはよかった、「反」=ボートしかないあの青春は間違いだった、「合」=ボートに打ち込むならこの点とこの点に気をつけた上で打ち込めばいいよ、と「アウフヘーベン」すべきであるのに、「あれでよかった」と「正」に単純に戻っている。これでは、1970年代の篠村悦子たちも、10年経ったら「反」=私たちの青春は間違いだった、に陥るのではないか? コーチの失敗の二の舞ではないか? 皆さんはどう考えるか? 映画を見ながらそこまで考えていないか? あの映画を見たとき、「がんばってボート漕いでいいよね!」で止まっていないか? 観客に思考停止があるのだ。そこで止まらないでほしい。

 

 原作者は、自分の人生を肯定するために、必死の思いで原作を書いたかも知れない。映画監督は、どういうつもりで映画を作ったかは、私は知らない(後述)。見る側は、「私たちもボート漕いでたらいいのよね!」と思い込みやすいかもしれないが、それではダメだ。そんな単純なものじゃない。「痛快な青春映画」などと評しているコメント(客を集めて儲けるためだろうよ)をしばしば見るが、無責任だ。高校時代、もし本当にボートしかやらなかったら、2年に上がれない。学力がつかない。日本国憲法と帝国憲法の違いすら理解できない人間になる。新聞の社説くらい比較して議論できる人になりたいが、それもできず、挙げ句に「自分はボートしかなかったからつまらん」「なーにもわからん」「アタシみたいなおバカが投票に行ってもダメよね」と思うようになるだろう(現になっている)。「それでもいい」「勉強なんかしなくていい」と言い張る人を、反知性主義者と言う。そういう大人を、愚民化政策に加担する者と呼ぶ。反知性主義と愚民化はファシズムの特徴だ。くわばらくわばら。(ボートをすることで学力もつき世界文学も読み『論語』や『聖書』や『コーラン』も読み、世界における「人間の安全保障」を実現する人間に変容してくれるのなら、それもいい。だが、1日は24時間しか無い。睡眠は、ハードなスポーツをするなら、8時間寝たい。では、残りの時間配分は? 家庭学習4時間を毎日確保できるか? ドラマでも小説でも「部活青春もの」でおかしいのは、ここの問いが書かれてないことだ。放課後に2時間部活動をすれば、帰りが遅くなり、勉強も読書も家族の世話も不十分になる。真面目な子が睡眠を削れば身心の不調を招く。勉強嫌いの子は「大会で勝つ」という大義名分のもとで、勉強も読書も「やらなくていい」と言い始める。こうして、日本人の高い文化と教養は失われ、「人間の安全保障」は国内ですら脅かされ、まして世界への貢献などほど遠く、一人あたりGDPで韓国に抜かれ、ああ・・・)

 

 これはボート部だけの話ではない。野球、サッカー、陸上などなど、勝ちに行くすべてのスポーツで(いや、合唱やブラバンなども)同じことが言える。

 

 青春とは、明治には、恋愛であり、いかに生きるかであり、文学・哲学・思想であった。(北村透谷。朝日新聞でその妻北村ミナを主人公とする門井慶喜『夫を亡くして』連載中(2024年12月現在)。正岡子規=のぼさん=も東京に出て新しい文学(俳句だけじゃないよ。小説も書いたのさ。もし長生きしていたら何を始めたかわからないよ、あの人は。)を考えようとした。内村鑑三『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は真剣に生き方を考えているぞ。必読。藤村『春』、鴎外『青年』、漱石『三四郎』。『三四郎』には、明治40年頃の東京の新しい風俗として、帝国大学運動会でのかけっこが出てくる。有島武郎『星座』は札幌の青春。)

 

 大正から昭和のごく初期までも、その流れがメインだった。(漱石『こころ』は大正3年。若者に新しい生き方を期待する。谷川徹三=谷川俊太郎の父親=は1914(大正3)年には一高生で仏教に接近していた(のち京大哲学科へ)。埴谷雄高『死霊』は懐疑的な旧制高校生たちが出てくる。)「思考停止して体さえ鍛えればいい」派もいたが、彼らこそ軍国主義を導き入れた戦犯の一角だと言ってもよい。当時そこに気付くべきだった。貧困ゆえ高学歴ではない人もいた。多くの少年少女が貧困の中で幼少期から働き(林芙美子『放浪記』佐多稲子『キャラメル工場から』(林は実はある程度豊かだったという説もある)、周囲には社会主義や無政府主義を勉強する青年たちもいた。椎名麟三は十代で働き左翼運動の末端に連なるが官憲に捕らえられ自白を強要される中で失神。その後ニーチェやドストエフスキーや聖書に魂の救済を求めた(『重き流れの中に』『自由の彼方で』)。

 

 戦中は、思考停止を自らに課し、青春とは、端的な戦場=死への突入だった(戦没学生たちの『聞けわだつみのこえ』、島尾敏雄『魚雷艇学生』、予科練の歌、加藤隼航空隊の歌など)。あるいは、沖縄戦(曽野綾子『生贄の島』)、原爆を浴びた青春(原民喜『夏の花』三部作)。

 

 戦後すぐにも、まずは飢餓があり、他方新しい社会が開ける実感があったので、青春とは、そこでいかに生きるか・恋愛・文学・哲学・思想だった(高史明『生きることの意味 青春篇』早坂暁『東京パラダイス』石坂洋次郎『青い山脈』、畑正憲『ムツゴロウの青春記』)。海外に目が開け、二十カ国語マスターへの足を中学高校時代に踏み出した人もいた(種田輝豊『二十カ国語ペラペラ』)。

 

 政治に引き裂かれる青春もあった(柴田翔『されどわれらが日々』、髙橋和巳『憂鬱なる党派』、大江健三郎『政治少年死す』)。

 

 1970年以前には、政治・芸術・文学などへの問いが高校レベルでも強くあった(庄司薫『赤ずきんちゃん気をつけて』)。高校時代から英文で小説を読んだ人もいた(村上春樹『職業としての小説家』)。

 

 しかし、1970年頃、中学からほぼ100%近くの人が高校に進学するようになり、(生徒指導・管理のために)スポーツを奨励した。TVの普及(「青春スポーツもの」ドラマ『俺は男だ!』『飛び出せ!青春』などなど)のせいもある。反発する人は校内暴力をしたり15才の夜にバイクを盗んで走り出したり(尾崎豊の歌。尾崎は15才の時1980年)するので、それくらいならサッカーでもして貰った方がいいよね、ということだろうよ。低レベルの話だ。太平の鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の民のくせして、足るを知って太平の歌を歌うことをせず、贅沢のためにナイキの靴を盗むとは、なんたることだ!? メシが食えて学校も行かせて貰えるだけで、ありがたいことじゃないか。かつての若者の苦労を知れ。(その世代の若者が今親になっているとは。)(注5)

 戦時中は、いつも腹ぺこで、ろくに勉強もさせてもらえず、軍事教練か学徒勤労動員で働いてばかりいて、「もうすぐ十代で戦場で死ぬ、二十才までは生きられない、予科練に入って特攻しよう」と本気で思っていた(思い込まされていた)のだぞ。実際同級生が空襲の焼夷弾で火だるま・黒焦げになって大勢死んだ。グラマンの機銃掃射で体に大きな穴を開けられて・・グラマンの弾は大きく猛烈で、納屋の壁くらい撃ち抜く。頭蓋骨なら吹き飛ぶ。あなたの親友が頭蓋骨や肋骨を吹き飛ばされて黒こげになって死んだのだ。これが戦場だ。(当時はここがガザでありウクライナだったのだ。そこから何とか立ち上がってきたのだ。戦前戦中のシステムは間違っていた、と言うためにはものすごく勉強する必要があった。何しろ軍国主義が血肉になっていたのだ。それを相対化し批判しそれと決別するためには、ものすごい努力が必要なのだ。今の若者も、勉強して、やるべきことが沢山あるだろう?)

 

注5 1980年頃には1980年頃の、今(2024年)には今の苦労がある、と重々承知の上で、敢えて言ってみた。ほぼ全員が高校に進学するが、値打ちのある勉強をさせず単なる点取り勉強をさせる、値打ちのあるスポーツ(人間を活かすスポーツ、創意工夫と自主性を育て居場所を確保し安心感を持たせるスポーツ、補欠でも運動音痴でも病弱でも誰でも皆が自尊感情を高めるスポーツ)をさせず勝ちに行くスポーツをさせる、強烈な自己主張のある奴がのさばり、心優しい人、真面目な人、ものを考える力のある人が不登校に追い込まれる・・これは大問題だ。学校関係者は自ら省みて、ありかたを正すべきだ。(それでも、贅沢してナイキの靴を盗む奴はやっぱりダメよ。窃盗=泥棒=法律違反だし、流行の奴隷だし。ましてバイクを盗んで無免許で走ったらダメでしょう。)

 

 1979年には、青春=スポーツという図式が大きな顔をするようになった。もちろん一部の人は本を読みものを考えた(佐藤優『私のマルクス』)。高度成長(実は低賃金・長時間労働の規格大量生産)のためには学校教育で画一的な指導をすることが有効だった、という「成功体験」の言説も出回った。本当は画一主義では新しいアイデアが出ないのでダメだ、と心ある人はわかっていたのだが、過去の「成功体験」から抜け出せなかった。スポーツでも本当は創意工夫と自主性が大事なはずだが、大会で勝つことが優先されたので、創意工夫と自主性は後回しにされた。有力選手を特待生でスカウトし、コストを投入して有名監督と多くのコーチを雇い、勝った勝ったとHPに掲載し、全校集会で校長先生が「また一つ甲子園に近づきました」と言う。(今思えば映画のあのシーンは、皮肉だったのか?)(PL学園が野球部を無くしたのは、詳細な事情は存じあげないが、大きく言えば高い見識だった、と私は思う。さすがはひとのみち教団だ。*私はPLの関係者ではありません、念のため。)

 

 バブルを経験し、長期デフレを経て、高度成長システムではダメだ、では次をどうする、と考えるべき時代が来ているが、反知性主義と愚民化政策のため投票率も低迷。グローバル競争の論理に絡め取られそれを相対化する視座もなく数値の成果主義・勝利至上主義の論理が隅々まで貫徹し(私立高校や私大などは推薦入試にまで使っている。国公立は?)、一部の「勝ち組」の利権独占と首相官邸の独裁主義とも相まって、心ある人々は閉塞感で心が押し潰されそうだった。先見の明のある人ほど、憂いが止まらなかったのだ。

(これからは変わる。石破政権は少数与党なので、首相官邸の独裁ではなく、野党と対話する本来の政治に戻るので、埋もれていた人々の叡智が表に出てきて、必ずよくなる。石破氏は国民民主と多く話をしている印象があるが、野党第1党は立憲民主、第2党は維新なので、それらとも話をするといい。もちろん他の政党とも。政治はディベート・マッチやスポーツの試合の「勝つか負けるか二つに一つ」ではない。同一化圧力をかけて異質な要素を押し潰すのではなく、異質な要素を大事にしながら調和をもって貴しとなし(聖徳太子十七条憲法)、万機公論に決する(五箇条の御誓文)のであるから、多種多様な意見と対話して叡智を集めてよりよい政策を出していくのが当たり前だ。)

 

 原作者・敷村良子は、自分なりに閉塞を脱しようとしてあの原作を書いた。そこには彼女の挑戦があり創意工夫があり自由があった。そこまではよい。だが、それを深く分かることもなく、思考停止に陥り、「ボートだけ漕いでいればいいのよ」「四の五の言わずに練習、練習」となるとすると、非常に困った事態なのだ。おわかりですかな?

 

→もしかしたら、映画監督(磯村一路)が、1990年代にボロボロになった艇庫の描写(「早く壊さなければ」)から始めたのは、「あれは1970年代の青春。あれはあれで終わったこと。これからは別の青春が始まるべき」と気付いていたからではなかろうか? いかがですか?

 

→ 2024.12.27付記  希望はある。心ある若者も一定数以上存在する。「国際紛争をどうする?」と聞いたら「話し合いで解決する。武力は不可」と言う若者は結構多い。災害や難民を見たら「たすけに行く」「行けなくても心を痛めている。せめて募金する」「国内難民・貧困にまずは取り組む」という若者も結構いる。「民族差別・人種差別は不可」「女性差別も不可」「人権が大事」「環境・共生も大事」という若者は圧倒的大多数だ。そこに期待できる。  2025年がよい年でありますように。