James Setouchi
2024.12.19
学校教育?
神戸市の公立中学「部活動」終了へというニュースから
関西テレビ
神戸市内の公立中「部活動」終了へ 地域のスポーツ団体等のクラブ活動に移行 全面移行は政令市で全国初
(R6,12/16(月) 18:37配信)によれば、
「神戸市は、再来年度から公立中学校の部活動を終了し、地域のスポーツ団体などによるクラブ活動に移行することを決めた、平日も含めた全面移行で、政令市では全国で初、2026年8月までに学校単位での部活動をすべて終了する、その後は、地域のスポーツ団体などが運営主体となり、学校施設などを利用するクラブ活動「KOBE◆KATSU(コベカツ)」を始めて、生徒が市内のクラブ活動を自由に選べるようにする、部活動の外部委託は、少子化で学校単位での活動が難しくなっていることや、教員の長時間労働の問題を背景に、土日を中心に各地で行われている」
とのことだ。(以上は記事の大体)
→どうなるか? どうするか? 思いつくままにいくつかの論点を挙げる。議論のたたき台にしてみて下さい。
・高校と中学は違うか? 小学校では既に部活動は追放している。中学も文部科学省はその方針だ。高校も・・?
・欧米は学校で「部活動」などしていないよね。フィンランドでもフランスでも。イギリスの課外活動も日本の「部活動」(それも概念としては課外活動の一つなのだが)とは全く違う。韓国でも日本のような「部活動」はない。音楽やスポーツの選手の育成システムは別にある。韓国経済はなぜ日本経済を(ひとりあたりGDPで)追い抜いたか? 韓国の若者が勉強しているときに日本の若者は勉強を馬鹿にしてスポーツばかりしていたのではないか? この問いは、いかがですか? アメリカも日本のとは全く違う。「部活動」システムは、実は、日本独自の(言わば「ガラパゴス化」した)システムなのだ・・・
(注1) 日本独自でやっていると言えるものは、学校行事のうち運動会・修学旅行、課外活動の部活動、全校掃除もそうか。なお、概念を整理すると、特別活動の中に学校行事やHR活動や生徒会活動がある。学校行事の一つが運動会(体育祭)や文化祭や卒業式や修学旅行(宿泊研修)だ。これら(またはそれに近いもの)は、文部科学省指導要領で、実施することになっている。部活動は、学校行事ではなく、あくまでも課外活動だから、全員必修ではない。少し前に(令和5年頃か?)Eテレを見ていると、エジプトの学校で「TOKKATU」というのを取り入れた、その内実は、掃除、学級会、委員会活動だ、それで子どもたちの自主性や責任感を養う、ということだった。私見だが、他方日本は「部活動」「学校行事」をやりすぎて弊害になる場合がある。「部活動」については以下に詳述するが、「学校行事」については? もし、春の運動会にクラスマッチ、夏の陸上記録会に全校野球応援、秋の大運動会にグループマッチ、冬の球技大会にマラソン大会をやり、春の集団宿泊研修、夏の臨海学校、秋の修学旅行、冬のスキー合宿をやり、春の芸術発表祭、夏の文化祭、秋の合唱コンクール、冬の予餞会(卒業生を送る会)をやり、さらに各種意見発表会や読書感想文コンクール発表会や英語スピーチコンテストなども全部やり、さらに歌舞伎鑑賞会、弦楽鑑賞会、演劇鑑賞会などにも出かけていくとすれば? 子供たちには楽しみでもある反面負担でもあるだろう。教師も忙しすぎる。また、授業をする時間がなくなってしまい、文部科学省指導要領が要求する内容を学べないまま3年間が終わってしまうだろう。だから、(最近は土日祝日も含めて休みも多いので)学校行事の「精選」を行い、重複するものは削るようになっている(はずだ)。予餞会はやめたところが多い? 運動会も半日開催に縮小する? 学校によるが・・掃除は「学校行事」ではないが、全校で自分たちでやるのが日本の学校のいいところ、とされているが、週ごとに交代してやる、業者に任せる(大学はそうだ)、週に2回はルンバ(自動掃除機)にやらせる、などのところもあるそうだ・・
・参考までに、2000~2003年のPISAの学力調査では、韓国は全ジャンル上位、日本は「読解力」が弱かった。韓国の根性のある若者が懸命に勉強している間、日本の若者はろくに勉強しないで、少し「根性のある」若者は「勉強がすべてじゃない」「勉強なんかしたって」の大合唱のもと(やっぱり勉強しないで)部活動(スポーツなど)ばかりやっていた? 当時の15才が今35才~40才くらいになっていて、GDPに影響しているということがあるかないか? (ちなみに日本の中学生や高校生の「読書離れ」が底を示したのは1990年代後半。1995年に15才なら今44才で部長さん・課長さんくらいですか?)韓国は1998年に経済危機があったし、徴兵制があって若者はあまり勉強できない時期が2年間ある。それでも学力が高いとすれば? 危機感を持って勉強してきた、ということだろう。(中国では多分もっと勉強している。)もちろんGDPがすべてではないし、経済を牽引する政策なども関係しているはずだが、「知価社会」に必須の学力をどうつけるか? 危機感を持った方がいい。但しPISA型学力が真の学力か? も問うべきだし、韓国も日本も「学歴」のための勉強で歪むという問題がある(日本の場合は、勉強しないで試合で勝って高校や大学に行く、という非常に問題のある事例が私立などでは横行している。反知性主義と言える。)また受験学力やPISA学力以上の価値ある「学力」が真に付いているかどうかは気をつけないといけない。例えば『論語』『孟子』『仏典』『コーラン』『旧新約聖書』を深く読む力はPISAでは問えない。多少PISAの点が近年上がったと言っても、文部科学省・教育委員会・学校が対策に取り組んだだけで、(その程度のことは日本ではやればすぐできる、)それが本当に望ましい真の学力(学んだ力と学ぶ力、もっと言えば、底の浅い小手先の実用スキルではなく、現代を相対化し未来を切り開く普遍的な教養)の増強につながっているか? と言うと、疑問だ。『論語』『孟子』以下が実は重要だ、と言うこと自体に気付かない世代が増えているのは、韓国も日本も同じだろうか。韓国では漢字が読み書きできない人が増えている。日本でも・・・母国語の高度な文化を捨てて金儲け英語だけやるのだったら、そういう国は、旧英語圏植民地に「先輩」はいくらであもる。ところがその金儲け英語すらしないでラグビーやアメフトの試合をぽかんと口を開けて見ているのだから・・(かく言う自分も2024年秋にオータニサン&ヤマモトサンとドジャーズの試合をぽかんと口を開けてみてしまったのだから同罪なのだが・・)
*2924.12.21 これについて更に付言。受験勉強・詰め込み教育の弊害として、小学校で3割、中学校で5割、高校で7割の子が落ちこぼされる(「七五三の法則」)、しかも値打ちのある学力が付いていないことの反省として、いわゆる「ゆとり教育」が叫ばれた。土日も休み。指導要領内容3割削減。(厳密にはこの通りではない。文部科学省は「学力低下」を目指してこれをしたわけではない。本当は「値打ちのある学力の全国民への普及・向上・充実」を考えていたのだ。)そのさい、
A多くの国民が勘違いした。
受験勉強はつまらない→勉強がすべてではない・勉強しても意味が無い・勉強しなくていい・勉強はPCがしてくれる→反知性主義に陥る(産業界も「「受験勉強」をしてきた学生は役に立たない」式の図式でものを言ったことを忘れてはならない。自分たちで若者を育てることを放棄し、使い捨てできる労働力を学校に税金を使って育てさせようとしたのだ。価値ある学力は本当は要る、だがそれを言うことを失念し「受験勉強」批判で終始した)
B次のように考えた人もいる。
受験勉強はつまらない→しかし今の制度では受験勉強にも対応する必要がある・受験勉強に対応しつつ、それ以上の学びをしなければならない・けどそれ以上の学びとは何か? は考えていない・PISAって何?
C一部の心ある人はわかっていた。
受験勉強はつまらない→真に価値ある勉強をしたい・今のままでは欧米や中国に国力・産業力で負ける・しかもいわゆる産業力を超えた学力、PISA型を超えた学力がある
2003年頃のPISA型学力テストで「読解力低下」が数字で突きつけられたとき、産業界が怒った。自分たちのバブルの失敗を棚に上げ、文部科学省と学校のせいにしたのだ。国を挙げて「ゆとり教育批判」の大合唱が起こった。
D 多くの人はやはり勘違いしていた。昔の「受験勉強」を復活・強化しさえすればいい→宿題を増やし、土日に補習や模試を入れこもう。業者模試やセンターテストでいい点を取ろう。数値の成果主義、受験・進学の競争を強化しよう(ついでに、部活で勝って有名私大に進学で押し込もう。「勝つための部活」を強化しよう)、学校間で競争しよう→結果として、不登校を量産した。また、本来の上記の問いへの答えを探らないまま「逆戻り」が起こった。(ことはそう単純ではないが、一面の真実ではある)
E 一部の人はPISAとは何か? を知っていたので、「PISA型学力」を強化しようとした。
Fさらに心ある人は、PISAとは何かを分かった上で、それ以上の学力をつけるべきだ、と早くから提唱していた。が、当時はそれを理解できる人が少なかった。
近年「読解力」のポイントは上がった。文部科学省や学校が取り組んだ結果である。だが、PISA型は、結局、OECD諸国ならどこでも流動的な労働力として使えますよ、というレベルの「学力」でしかない。運用スキルに過ぎない、と言うべきか? [
「リテラシー」「コンピテンシー」「CEFR」「STEAM」といったカタカナ・アルファベットの概念で言いさえすれば何か価値あることを言えていると思い込む、というレベルでとどまっていた。それ以上の学力になかなか届いていない。内容(コンテンツ)がないのだ。日本文化と言えば観光ガイドブックレベルの理解しかなく、日本の古典を読んでもいないし「そもそも伝統とは何か?」「茶道って何?」「武士道の正体は?」といった問題意識も乏しい。英語を勉強しても金儲けのためのハウマッチ英語にとどまるので、英米文学やキリスト教聖書の深いところを読むことができていない。イスラム圏の人と対話し中東の危機を解決するには、『コーラン』を読むくらい必須ではないか?(コンピテンシーのレベル5はパラダイム転換行動ができることだそうだが、イスラム圏の人と共に働き生活しパラダイム転換をしようというときに、イスラム圏の価値観を知らないままで、どうやってできると言うのか? 「国際化」とはこちらの資本の都合を絶対善として押しつけることではない。イランにもアフガニスタンにも人々の懸命な暮らしがあるのだ。) そう言うと「文学も宗教も学ばなくていい、金儲けとスポーツさえできれば、人間や社会のあり方など問わなくていい」とおっしゃる。それを反知性主義と言うのだよ。異文化への敬意を放棄しているので差別主義にも陥る。(あの国やその国のリーダーたちは異文化理解をせず一方的に爆弾を落としているよね。それが独善でしかない、ということは皆さんお感じですよね?)(一般大衆が愚民化すれば自分の利権を守れるので金持ちはその方が都合がいいとでも思っているのだろうか? だが、国民大衆が愚民化したらその国は滅ぶのだよ。)かつての若者はサルトルやマルクスやロシア文学やシモーヌ・ヴェイユを読んで、人間と社会のあり方を考えた。全共闘のやったことのすべてが正しいわけではもちろん無いが、人間や社会への問いを持ち、自分はいかに生きるべきか、社会はいかにあるべきか、を問う姿勢があったことは、尊い。内田樹や小森陽一はだから読む価値があるのだ。村上龍は高校時代は尻馬に乗って騒いだだけだろうがその後勉強した。村上春樹はベタな形では出さなかった(それゆえ多くの読者を獲得した)が根底には人間や社会への問いがある。漱石や鴎外や内村鑑三や大江健三郎にこの問いがあったことは言うまでもない。1970年くらいから「勉強をしないでスポーツだけやってりゃいい」式の言説が出回り始めた。TVも普及し「愚民化」が進んだのだ。佐藤優は1975年以降の高校生だがそれでも「愚民化」しなかった珍しい一人。何しろ専門は「神学」ですから。
2024.12.21付記 12.22さらに一部付記
以下、「公立中学から部活動追放」の記事に戻る。
・学校に生徒の居場所は? その意味では勝ちに行くのではない楽な(部活動でなく)同好会がいろいろあってもいいのでは? 同好の士が集まってそこに居場所があって安心できるし楽しい、これはクラス以外にもう一つあるといいのでは? だって、家にも居場所がないし塾やスイミングにも行くお金がない子は、どこへ行けばいいの? 教会やお寺やタダの塾や民間サークルがその役割を果たしてくれればいいが・・? 北欧では政治サークルの青年部も盛んで若い政治家が育つそうだが・・日本では全共闘時代の記憶があって嫌がるのだろうか?
・文学部、宗教部、ハイレベル勉強会のような特殊な勉強の場は? 同好会でできる・・安全のための保険などは加入するとして。またはタダの民間塾でやりますか? その場合も安全対策があった方がいいかな。
・茶道、弦楽、放送など金のかかるものは、民間業者でやると大変。詩や勉強のサークルで独自教材を作ってもコピー代がバカにならない。学校で道具を買い同好会があれば金のかかる「文化」にも触れることができる。但しコンクール(競って順位をつける大会)には参加しない、と決めればいいのでは? 弦楽やお能の鑑賞は「学校行事」として行くことも出来る。(現状でも野球漬け・ラグビー漬けの子は茶道や弦楽やお能には触れていない。複数の同好会を兼ねるようにすればいい。お茶と軽音楽とか。クリケットと美術とか。但し決して勝ちに行かない。勝ちに行くと「できる子」の取り合いになる。賞を取るために、「できる子」を複数の大会やコンクールやコンテストでこきつかうことになり、その生徒を使い潰すことになる。学校の勝利・成果至上主義の犠牲にその子はなってしまう。(だが、中高時代に野球やラグビーや剣道をせず弦楽やお能をせず俳句甲子園をしなかったから自分が決定的に不毛な青春だったか、というと、決してそうではない。学校で全部揃えなければならない、とするのは、思い込みでしか無いのかも知れない。野球漬けだった人よ、あなたは勉強も読書も弦楽もお能もキリスト教会でのボランティア活動もやっていませんよね?)
・学校で同好会をやると、担当教師を決めることになり、先生が忙しいことには変わりないのでは? いや、部活動ほどではない。現状よりは緩和される。勝ちに行かない分だけでも緩和される。(協会で大会をやり勝ちに行くから腐敗するのだ。大会をやらず勝ちに行かず値打ちのある学びをすればよい。)
・危険な種目(マラソンや水泳や柔道や登山やボートなど生命の危険の潜むもの)は、素人の先生には引き受けられないので、部活動・同好会いずれであれ学校からは切り離した方がいいかも。「私はやりたい」という人がいても、その人が転勤したらその後がたちまち困る。読書や手芸の同好会くらいならケガはないだろうが・・そこで指導者を育てればいい」と言う人は、自治体の資源が有限だとわかっていない人で、かつ、「勉強など要らない、部活が大事」という、部活至上主義者(で、かつ反知性主義者)だ。
・全国大会は? 私見では、要らない。大会があれば競いたくなる。歪みが生じる。地方大会も要らない。教員が競技や大会の事務局をやっているが、本来業務(目の前の生徒の世話)ではないところで多忙化している。遠征・練習試合なども大変な業務になる。どうして民間団体である「何とかスポーツ協会」主宰の大会に先生が駆り出されて審判や事務をしているのか? それらに先生と生徒は、土日祝日を潰していくか、学校を休んで行くか? どちらも問題だ。大会の回数が多いほど、学校を休むことが多くなり、勉強はついて行けなくなる。先生が引率で休むと他の生徒に迷惑だ。大会ばかり出ていて、文部科学省の指導要領の出席の規定を満たすほど出席できているのか? どうしても大会をやりたければ、勝ったところが出場するのではなく、順番に出ればいい。それで交流はできる。勝つための歪みから解放される。
・競技力が下がるではないか? いや、五輪レベルの選手は学校でなく他で育てる方がいい。(元永知宏『殴られて野球はうまくなる?』参照。)そもそも、万人に、「競技力」って、どうして要るの? 競技力と体力・生命力はイコールではないよ。沖田総司は天才剣士だが病で早世した。チャンピオンシップのスポーツをやりすぎると免疫力が低下し病に負けやすい体になる。女子は生理が止まり骨粗鬆症になり老化が進む。体育系学部出身者は他学部出身者より有意味に短命だという報告もある(加藤邦彦『スポーツは体にわるい』参照)。競技力より体力、生命力だ。元気で楽しく暮らせればいいのであって、巨人の星をめざさなくていいし、明日のジョーみたいにリング上で燃え尽きて灰になってはいけない。生きて年寄りの世話をしなければ・・筋肉のパーツを鍛えて0コンマ何秒の記録を更新することに何の意味があるのだろうか? また、どうして盲腸を取ってまで金メダルを取る必要があったのか?(新雅文『「東洋の魔女」論』)誰が円谷幸吉を殺したのか?(橋本克彦『オリンピックに奪われた命』)そもそも五輪って、何であるの? その暇に『ジャン・クリストフ』『カラマーゾフの兄弟』でも読めば、世界が劇的に変わるのだが・・? ・・何? 読めない? 前提となる世界史の知識も無ければ長い物語の読解力も無いから? ああ、それを「学力低下」と言うのだよ・・スポーツをやり過ぎると、体力と学力が共に低下する、ということがわかった・・・ああ・・
(・全国大会について、小学生の柔道の全国大会をなくしたのは正しい。まだ身心ができていないのに全国優勝をめざしてはいけない。他の種目も。中学も、無くしたらいい。高校も、全国大会優勝をめざすと、弊害が生じる。カネで優秀な選手・監督をスカウトし、学業をおろそかにし(最低限、日本国憲法と帝国憲法の違いくらい(ネットで調べずに頭に入っていて)言えるのだろうか? 新聞各社の社説を比較して論じることができるだろうか? 民主社会の一員として、日本国民なら全員ができて当たり前だと思うが?)、むりやり学業と両立しようと頑張る子ほど睡眠不足に陥り、免疫力が低下して病気がちになる。不登校になる場合も。ゆえに居直って勉強なんか要らないと大合唱すれば楽になり、個人も学校も日本全体も学力が低下する。スポーツしかできない子が育ち、価値観が偏り、ひどい場合は体重を落とすため拒食症・うつ病になり(女子陸上・駅伝とか・・私が勝手に言っているのではないよ、東大病院のエライお医者さんが臨床の現場から言っておられるのだよ)、他の文化に触れなくなる(本も読まないなど)。狭い世界観・狭い人間関係(「狭い人間関係」と敢えて言う。ロシア文学も旧約聖書も儒学も仏典も論じることができないからだ)の中でしか生きられない子が増えてしまうのは、その子のために、また社会全体のために、どうかな? (大学もだが・・)(校内の放送、新聞、図書、応援、園芸などは委員会や同好会などで対応できる。同好会で居場所を作り楽しくやるのはいいと私は思うが・・?)
・業者がやると一部の青少年を勝利至上主義に染め上げるだろうか? 歯止めをどうするか? 保護者や一般社会、マスコミを含めての良識が必要だが? 土日にニュース解説・社会問題の深掘りをせずスポーツ中継ばかりしている社会ではやっぱりダメですかな・・? ローマは「パンとサーカス」で愚民化した挙げ句に滅んだ。戦前の日本も「勉強しなくていいから四の五の言わずに体を鍛えて突っ込め」式の風潮が支配した挙げ句馬鹿な戦争を始めて焼け野原になって滅んだ。モンゴル帝国は戦闘集団かと思っていたら、実は、中東の商人(経済通)を登用して経済・通商政策で栄えた。中国の官僚(識字階級)を使って安定した。モンゴル帝国の時代(13世紀)でも知識・教養が要るのだ。まして現代社会では・・今でも一部の人は危機感を持って取り組んでいるのだが・・
*民間のスポーツクラブでも、根本においては教育基本法の支配を受ける。教育基本法は、学校だけを規制するのではなく、日本における教育(社会教育も含む)のすべての基本理念を規定している。教育基本法には、「教育の目的」は「人格の完成」をめざすんだ、「平和で民主的な国家および社会の形成者」を育てるんだ、と明記してあり、「勝つために練習しなさい」「やる以上は勝たねばならぬ」などは、一切書いていない。
*公教育から切り離し民営化すればビジネスチャンスだ! と思っている人の(例の産業界の思惑)が、どこかで働いているのだろうか? だが、金儲けの手段として子供たちを見ている人々よ、あなたがたは間違っている。このことにもっと多くの人々が気付き、「あれはおかしいよね」ともっと言うようになることが必要だ。十代で五輪に出るためには沢山のことを犠牲にしているだろう。幼児虐待の疑いがある、とかつて加藤周一は警告した。相撲部屋は十代で入門して徒弟修行をするが、十分な判断力も無いまま兄弟子に連れられて夜の街に繰り出し妙なことを覚えていく結果、おかしなことになっていったのではないか? と、かつて八百長疑惑が取り沙汰されたときある識者が書いていた。部屋の暴力沙汰が取り沙汰されたときもそれを思い出した。今は改善されているならいいが? カネと暴力にまみれるのはダメだよ、と強く規制するのは、まずは世論(良識)、それに基づく法整備であろうか?
今の学校で部活動の勝利至上主義者が大手を振っていることがまずは問題だ。そこの改善は急務だ。「大会で勝った、勝った」と言わないのが健全な良識だ。教育基本法第1条・第2条だけでも読み直してみましょう。 (2024.12.27付記)
・民間の業者のクラブは、退会したければ退会すればいいので、風通しはよくなる。(民間の塾と同じ。)が、やめた子の居場所は? 別の所に行けばいいとも言える。(学校の部活動はやめにくい。3年間やり通し主義がいけないのだ。部活でとって貰って、部活をやめたら、学校にも居場所がなくなるかも?)
・「全入」でなくなるので、厭な子はやらずにすむ。放課後はそれぞれに塾に行く、熱心に予習と復習をする、探究学習を深める、図書館に行き本を読む、地方行事に参加する(中高生が暴力的な秋祭りに参加して絶叫しながら酒や喧嘩に関わる、大けがをする、さらに金まみれになる(詳述しないが)のはダメだと私は考える。老若男女が穏やかに参加する鹿踊りや花取り踊りはよいと感じた)、帰宅して家の仕事をする、とか。ああ、祖父母や弟の世話も自分がやらなきゃ、誰がしてくれるのか?
・教員の多忙さはかなり減って、その分本来業務の授業(学力)や生徒指導(相談)に注力できるかも。(なお、授業をする先生と、進学相談などをする先生も、アメリカなどでは別。日本の先生は何でも屋でブラックワークになっているが・・それで日本の先生は自分の家庭で自分の子供の悩みを聞く暇がない。それで「先生の子」が育つはずがない?)
・部活至上主義の教師は「部活をやらせろ」と言うかも知れないが、今後やりたい人は「地域クラブ」で活躍できるかも。その際も「やりすぎ」の歯止めをどうつくるか。保護者を含む一般人の良識が大事だ。(ああ、公立中学でも、バスケや卓球やブラスでさえ、目がつり上がって勝ちにいく・毎朝朝練をする(朝練は体に悪いですよ、それがわかってきたのであちこちで禁止し始めている)・偏狭な顧問がいて、果ては暴言に体罰、さらにそれに育てられてそれが正しいと思い込んだ生徒が大人・保護者になっているのだ・・困ったことだ・・)
・教師で、向いていないのにラグビー部や野球部や登山部や水泳部や柔道部(いずれも専門でないと無理だし命の危険もある)を割り当てられて厭な思いをする人が、いなくなる。教師志望者が増えるかも。
・お金と場所の問題。安全確保。上記の記事では、学校の施設も使う、となっている。市立中学は市民の税金でできているのだから、そうすればいい。
*生徒数・教員数が減ったので部活動も減らすという議論がある。中学で部活自体をなくすのは一つの正解。高校でも全体の活動を縮小する・同好会化するのは正解だと私は思うが、いくつかを廃部し強い部を残すという意見に対してどう考えるか? 反論としては、いくつか勝ちに行ける部活を残して弱小部を廃部にすると、ますます勝利至上主義に侵食されて学校教育がさらに歪む、生徒のために多様な帰属場所を残すべきだ、学校に多様な文化(文化部というだけではなく運動部も含む多様なカルチャー)を残すべきだ、弱小の部こそ重要だ、すでに学校は小規模化していて部活動のチームは作れないのだから校外のクラブに移行するのが正解、いっそ勝ちに行く部をなくせばいいのでは(HPで「何部が全国優勝しました」など載せるのはやめよう、それで「え?」と感じるあなたは既に勝利至上主義の毒が体に回っているのです、そこは学校なのだから勝ちに行く・数字の成果を出すことよりも、どんな個性の子も活かされることの方が、大事ですよね、商店が売り上げを競うのと同じではダメですよね)、一つの部で年間何度も大会に出るから多忙化するのであって、大会参加回数を減らせば(年間4回を年間1回に減らせば)楽になるのでは、など。