James Setouchi
2024.12.10 2025.12.2改
12月の視角 R6.12.10記 R7.12.2改
12月1日 敬宮愛子(としのみやあいこ)さまお誕生日
12月8日 1941年(昭和16年)日本が英米に宣戦した日。開戦の暗号は「ニイタカヤマノボレ1208」で真珠湾攻撃の成功の暗号は「トラ・トラ・トラ」だった。国民は(今にしてみれば驚くべきことに)英米との開戦に熱狂した。それだけマインドコントロールされていたのだ。ボクラ少国民の世界でも毎月8日には大詔奉戴日として朝礼があって国旗掲揚、君が代吹奏、宮城(きゅうじょう=皇居のこと)遙拝(ようはい)などを行った。学校も軍国主義教育を担っていた。なぜ馬鹿げた戦争をしたか? なぜ引き返せなかったか? 同じ過ちに陥ることはないのか? 歴史をしっかり勉強したい。軍部・軍人の責任は言うまでもなく大きいが、彼らだけに責任をなすりつけるべきではない。産業界(軍産複合体)、政治家、官僚、マスコミ、教育界、国民自身などなど、それぞれに反省すべき点がある。明治以降の歴史をしっかり学び直しすべきだろう。
12月9日 皇后陛下(雅子さま)お誕生日。皇太子・皇太子妃ご結婚のころ、多くの人が熱狂して「まさこさま~」と言って手を振っていたことを思い出す。天皇陛下(浩宮様)も素敵な方だが、皇后陛下(雅子様)も素敵な方だ。上皇后様(美智子様)のご実家はメーカーで、雅子様のご実家(お父上)は外交官であることから、第2次産業で生産力を高めていた時代を経てグローバルな時代がやってきたことを象徴している、とうがった見方をしている人がいたが、うまいことを言うものだと感心した。雅子妃は、ハーバード大(国際経済)→東大(法)→外務省→オックスフォード大(国際関係論)というすごい学歴(学びのキャリア)をお持ちである。なお皇后陛下の誕生日を「地久節」と言うのは老子の言葉による。
12月14日 忠臣蔵の討ち入りの日。新暦だと1月30日だそうだが、赤穂浪士を記念する祭りは12月14日にやることが多いようだ。元禄15年(1702年)は平和な時代だったが、大石内蔵之助(おおいしくらのすけ)率いる47名の赤穂浪士が幕府高官の吉良上野介(きらこうずけのすけ)の邸(本所松坂町)に討ち入って殺害した事件。もともとは吉良がいじわるをして赤穂の浅野内匠頭(たくみのかみ)が怒って江戸城内(刀を抜いてはいけない)で斬りつけ、浅野は切腹、赤穂藩は取りつぶしとなった処置に対して、浪人した赤穂の家臣たちが怒って主君の仇討ちをした、と言われる。歌舞伎などにもなり庶民レベルで拍手喝采された。幕府の対応としては、忠義故に顕彰するか、反乱として厳罰に処するか、などの議論があったが、名誉の切腹、という処置になった。のちにも小説化・映画化されるなど人気のあるテーマで、アメリカにも『47ローニン』という映画がある。有名な作家の小説では、芥川龍之介『或日の大石内蔵助』、野上弥生子『大石良雄』、大佛(おさらぎ)次郎『赤穂浪士』などなどもある。関連作品は紹介しきれないほど多い。
だが、真実については多くの議論がある。仇討ちを成功させて再就職を狙っていたのではないかといううがった見方もある。成功を狙って仲間を集め周到に計画するなどは腰抜けのすることで、怒ったら直ちに打ち込めば成否にかかわらず恥にはならぬ、とは『葉隠』の言い分。先日民放を見ていると、浅野内匠頭は武闘派だった、赤穂藩は大名火消しの役割で日頃訓練されていた(今で言うと消防隊)、吉良家が朝廷と幕府の間を取り持つと費用がかかるので幕府は討ち入りを黙認し吉良家取り潰しに持ち込んだのではないかという仮説が紹介されていた。武士道、と一口に言いたがる人がいるが、実はその内実は、彼の信じる「私の武士道」でしかないことが多い。武士道の内実は実は多様だ。江戸初期の有名どころだけでも、宮本武蔵、忠臣蔵、『葉隠』で随分違う。中江藤樹や山鹿素行になるとまた違う。明治になると新渡戸稲造がいて、更に違う。
12月22日 2025年の冬至。冬至の日は21日のこともある。これから毎日昼間の時間が長くなる。「冬来たりなば、春遠からじ」
12月23日 上皇陛下(平成天皇)お誕生日。平成天皇陛下は被災地や旧戦場を訪れ、苦しみに満ちた生活を送る人々に寄り添いお言葉をかけられた。宮内庁の演出もあったのかもしれないが、陛下ご自身のお考えでもあられたのではないか。平成天皇は「寄り添う」天皇だった。今上(令和)天皇陛下もそれを受け継いでおられる。なお、この頃、冬至、天皇誕生日、クリスマスがある、土日もあれば、毎日お祝いのような感じがして嬉しかった。
12月24日 クリスマスイブ。旧約聖書の世界では日没から1日が始まるので、12月24日が日没で終わると、まさにその晩(イブ)から25日(クリスマス)になる、と考えるべきだろうか。
12月25日 クリスマス。キリストの誕生日。実は聖書には12月25日に生まれたとは書いていない。ベツレヘム地方で12月25日に羊が外に出ていたら凍えてしまう。実際にはもっと別の季節だったという。だが、キリスト教会が、会議で、12月25日をキリストの誕生日と決めた。これは地中海世界のメジャーな宗教でミトラ教(ペルシア由来)というのがあり、その祭りの日だったので、これに合わせたと言う。太陽神が冬至で死に、再生する。丁度その季節に祭りを持ってくるのが、人々の生活習慣にマッチしていて、都合が良かったのだろうか。キリスト教は決して辺境で排他的な宗教ではなく、土地の人々の習俗を取り入れる柔軟な構造を持っていると、このことからもわかる。クリスマスツリーはゲルマンの樹木信仰、その上の星はバビロンの占星術、贈り物をするのは農業神サトゥルヌスの祭りを取り込んだ。(だから清教徒のクロムウェルは邪教の名残であるクリスマス祭りなんてやめよう、と言った。)深い思索を展開するある方は、このもっとも寒い時期にもっとも貧しい厩で救い主が生まれた、とすることに大きな叡智が働いているのだ、と言っておられる。神は自ら最も惨めなところに生まれ、かつ最も惨めな死に方をし、復活して見せることで、この世でみじめな暮らしをしている人にとにとっての希望を示したのだ。それは人間(神父たち)がご都合よく「うまい知恵」をしぼったのか、そうではなくその奥にまことの神の叡智が働いているのか。後者だ、と信じることを肯定する科学的根拠はないが、反対に、後者だ、と信じることを否定する科学的根拠も、ない。クリスマス商戦がきっかけであっても人が聖書を読み神を信じるに至るなら結構だ、とは神の遠大なご計画であるのかもしれない。ディケンズ『クリスマス・キャロル』も読んでみよう。
12月29日 佳子さまお誕生日
12月31日 大晦日。紅白歌合戦を見て「ゆく年くる年」で映る神社仏閣に手を合わせてきたが・・なお平安期には追儺(ついな)(鬼やらい)は年末の大晦日(当然旧暦)の夜の行事だった。邪気を払って新しい年を迎えるのである。そのもとは中国にある。日本文化は世界各国の文化を受け入れて融合してきた雑種文化(加藤周一)であり混淆文化である。それでよい。(「天皇」も「神道」も「神社」もすべて漢字表記でしかも音読みである。「日本」も「ニチホン」→「ニッポン」「ニホン」は実は音読み。中国語では「リーベン」と言いこれが「ジパング」「ジャパン」になった。)日本文化で(他の文化でも同様だと思うが)偏狭に何かを排除し純粋化しようとすると無理がくる。明治初期の神仏分離・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)は伝統文化・日本人の安定的な生活感覚の破壊だった。
(注意! 「日本文化は寛容だがキリスト教・イスラム教など一神教は不寛容だ」と単純に断定する人があるが、これがまた誤り。ガンジーを暗殺したのは多神教のヒンドゥー教徒。キリシタンを拷問したのは多神教の幕府の役人。「アカ」を虐殺・弾圧したのは自称多神教の国家神道の大日本帝国の官憲。キリスト教は上記の如く柔軟な構造を持っており、イスラム教ももしかしたらアラビア砂漠と中央アジア高原と赤道間近のインドネシアやマレーシアでは随分違った生活習慣を持っているかも知れない。タリバンでは女性を学校に行かせないとか言うが、インドネシアでは女性が上級学校に進学して事務職などで働く。一概に「あっちが不寛容、こっちが寛容」と断定は出来ないのだ。 参考書 ボルテール『寛容論』、アマルティア・セン『人間の安全保障』、渡辺一夫『狂気について』『人間模索』などなど)
(もう一点。イラン人が日本人を見て「ああ、何と宗教的な人びと! 私たちと同じ」と言う。「日本人は年中神社やお寺にお参りし、何かの宗教行事がいつもある」と。確かに。「日本人は無宗教」と言うのは誤りで、年中行事の中に宗教的感覚がいつもあふれているのだ。それを「行事であって宗教ではない」と言うことはできない。)