James Setouchi

2024.12.9

 

 エマニエル・カント『永遠平和のために』中山元・訳 光文社古典新訳文庫

 Immanuel Kant “Tum Ewigen Frieden”

 

 カントは世界最高の哲学者の一人として有名。倫理や世界史で学習する。この本は中山元の「古典新訳」で、2006年に出た。入手しやすく、読みやすい。中山元は「訳者あとがき」で言う。

「・・・現代のグローバリゼーションの時代において、国家と、国家を越える体制の関係がきわめて緊張したものとなってきたのである。

・・・カントの時代は、政治哲学において超国家的な体制についての思索が生き生きと紡がれていた時代である。カントの政治哲学は、十八世紀の古い『殻』を残しながらも、日常的な思考がそのままグローバルな思考となる形で結実したものなのである。・・・現代にいたってカントの政治哲学が真の意味で、アクチュアルなものとなり始めたと言えるだろう。」(p.385~p.386)

 

例えば、本文中に次のような箇所がある。

 

「卑劣な敵対行為の禁止 いかなる国家も他の国との戦争において、将来の和平において相互の信頼を不可能㋑するような敵対行為をしてはならない。たとえば暗殺者や毒殺者を利用すること、降伏条約を破棄すること、戦争の相手国での暴動を扇動することなどである。/これらの行為は卑劣な戦略である。・・・敵対行為は相手の国を絶滅させる戦争(ベルム・インテルネキーヌム)に陥ってしまうだろう。」(p.156)

 

「超大国への攻撃の二律背反 恐るべき強大さにまで膨張した近隣の強国が、不安を呼び起こさせたとしよう。この強国は我が国を屈服させることができるのだから、屈服させようと考えると想定できるだろうか。そしてその想定に基づいて、あらかじめ攻撃を受けなくても、弱国は(連合して)強国を攻撃する権利があるだろうか。」カントはこう問い、直ちに次のように答える。「しかしもしある国がこのような権利を所有するという原則を公開する場合には、攻撃されるという悪を迅速に、しかも確実に招くことになるだろう。・・・」(p.247)

 

「小国の併合の二律背反 ある小国が大国の外とのつながりを断つような位置にあり、大国にとっては外とのつながりを維持することが必要な場合に、大国はその小国を屈従させ、自国に併合する権利はあるだろうか。」カントはこう答える。「大国がその原則をあらかじめ公表できないことはすぐにわかる。これを公表したら、小国はそれに先立って他国と連合してしまうか、他の大国がこの獲物をめぐって争うようになるからである。・・・」(p.248)

 

 「絶滅戦争」「強国への先制攻撃」「小国の併合」とその回避策! カントが述べているのは、まさに20世紀末から21世紀初頭のわれわれのこの世界のことであるかのようだ。今こそカントの政治哲学はアクチュアルな(現実的な)意味を持ち始めた、と訳者・中山元が言うのは、例えばこういうことであるに違いない。あなたは、どう考えるか?

 カントは、単なる平和条約とは異なる「平和連盟」を提言する。「平和連盟は全ての戦争を永遠に終わらせようとする」(p.182)ものである。それは「一つの世界共和国」という理念に一足飛びに行くものではなく、「たえず拡大し続ける持続的な連合」という理念である。(p.183)

 

イマヌエル・カント(1724~1804) 哲学者。『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『人倫の形而上学』など。『永遠平和のために』は1795年でカント71歳。これは、プロイセンではフリードリッヒ大王の没後、ロシアではエカテリーナ2世の晩年、フランスではフランス革命のさなか。グロチウス『戦争と平和の法』・ホッブズ『リヴァイアサン』より約150年あと、ロック『市民政府二論』より100年あと、ルソー『社会契約論』より30年あとである。日清戦争の100年前、国際連盟(1920年発足)・パリ不戦条約(1928年)より130年前、第2次世界大戦と国際連合より150年前である。

 

(十代で十分読める哲学・倫理学)プラトン『饗宴(シンポジオン)』、マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』、デカルト『方法序説』、カント『永遠平和のために』、ショーペンハウエル『読書について』、ラッセル『幸福論』、サルトル『実存主義はヒューマニズムである』、ヤスパース『哲学入門』、サンデル『これからの「正義」の話をしよう』、三木清『人生論ノート』、和辻哲郎『人間の学としての倫理学』、古在由重『思想とは何か』、今道友信『愛について』、藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』、内田樹『寝ながら学べる構造主義』、岩田靖夫『いま哲学とは何か』、加藤尚武『戦争倫理学』、森岡正博『生命観を問いなおす』などなど。なお、哲学・倫理学は西洋だけではなく東洋にもある。仏典や儒学等のテキストを上に加えたいところだ。