James Setouchi
2024.12.9
カーラ・パワー『コーランには本当は何が書かれていたか?』
文芸春秋社2015年9月
原題『If the Oceans Were Ink ― An Unlikely Friendship and a Journey to the Heart of the Quran』
なお、翻訳者 秋山淑子(1962~。東大文学部宗教学・宗教史学科卒。翻訳家。)
1 カーラ・パワー(1966~)ロンドン在住のアメリカ人ジャーナリスト。幼少期からテヘラン、カブール、デリー、カイロなどに暮らし、大学ではイスラム社会について研究。父は(クエーカー教徒の)法学者、母は(ユダヤ教徒の)フェミニズム研究者。彼女の立場は世俗主義的で現代欧米諸国の価値観に近い。
2 モハンマド・アクラム・ナドウィー師(1963~)インドの僻村に生まれる。マドラッサ(イスラム学校)に学び優秀、1991年からオックスフォードのイスラム研究センターの特別研究員。
3 内容 カーラ・パワーが、オックスフォードのイスラム研究センターで同僚として知り合ったアクラム師と友人になり、『コーラン』の内容について対話を重ねる様子を書く。その中にアクラム師やカーラ・パワーの個人史が世界史(現代史)の出来事と共に語られていく。題名の通り「コーランには本当は何が書かれていたか」を概説した本ではない。副題の通り「奇妙な友情と『コーラン』の心髄への旅」を綴った本だ。が、その中で、「『コーラン』には本当は何が書かれていたか? 現代の過激主義者たちは何か間違っているのではないか?」という問いが繰り返されている。例えば、
(1)有名な「剣の章句」(9章5節)について、パキスタン軍のある少佐(ゲリラを育成している)は非信者との軍事的な闘争とイスラム法の強制を提唱する。が、アクラム師は個人的敬虔と平和の必要性を提唱する。「剣の章句」はメッカのクライシュ族がムハンマドの共同体を繰り返し攻撃していた時の啓示であり、しかもムハンマドのグループは少数の相手を殺しただけであり敵対者をすべて許した。5節の後半は「だが、もし、彼らが悔いて戻り、礼拝を遵守し、浄財を払うなら、彼らの道を空けよ。まことにアッラーはよく赦し給う慈悲深いお方。」しかも「ジハード」の字義的な意味は「奮闘あるいは闘争」なのだ。(p.537~p.365)(注:「ジハード」を「聖戦」と訳したのが誤訳であり「信仰のための奮闘努力」というほどの訳の方が適切だ、例えば内面の欲望と戦い神への信仰を貫くのが「ジハード」だ、とはよく言われることだ。
(2)イスラム教は女性蔑視・差別の宗教だとしばしば言われるが、アクラム師は、本来はそうではない、とする。女性の自由は本来イスラム教の伝統の一部であり、開教後数世紀は保たれていた。女性を制限しているのはしばしば家父長制文化であって、イスラムの教義ではない(p.169)。アクラム師が長い年月を費やした研究『アル=ムハッディサート - イスラムの女性ハディース学者たち』などによれば、ウンム・ダルダは7世紀の法律家・学者で、ダマスカスとエルサレムのモスクで法学を教えた。男性も女性もカリフすらも彼女の生徒になった。ファーティマ・バタイヒヤーは14世紀のシリアの学者で、メディナの預言者モスクで男女に教えた。ファーティマ・ビント・サアド・アル=ハイルは11世紀の人で、中国西部で生まれ、ブハラ、サマルカンド、イスファファンで学業を積み、バグダッドを経てダマスカスとエルサレムで男女の学生に教え、カイロで没した。このような女性がハディース(ムハンマドの言行の伝承)学者として多く活躍し、馬やラクダで遠隔の都市に行き学び、教えた。アクラム師はこのような女性を9000人も発掘した。これらの女性は現代では忘れられかけていたが、実はイスラム教形成期には重要な役割を果たした(p.191~p.204)。
(3)女性はベールで頭を覆うべきか? 24章30~31節「彼女らの装飾は外に現れたもの以外、表に現してはならない…」の解釈は多様であるようだ。アクラム師はじめ多くの古典的法学者は「女性は顔と手を現すことができる」と解釈する。他に「質素な服装をするよう勧めているだけだ」「男女が交わす冷やかしと冗談に対して警告を発しているだけだ」「ブルカ着用を命じたものだ、女性に許されているのは手のひらを出すこと、片目もしくは両目を見せるだけだ」とする解釈者もある。アイーシャ(ムハンマドの妻)の伝承によれば預言者の妻たちがいつも顔を覆っていたわけではない、とアクラム師は言う(p.235)。イスラム教徒の社会にベールが流行するようになったのは後世のことだ(p.237)。
4 コメント
他にもさまざまに学べるところがあった。イスラム教徒は過激主義だけではなく(当然だが)このように静寂な人もあるとよくわかる。特に印象に残っているのは、本書第5章「ユースフの物語」だ。『コーラン』ユースフ章でユースフ(旧約聖書のヨセフ)は、兄弟に欺かれ井戸に落とされ、エジプトに奴隷として売られ、監禁されたが、神への敬虔な信仰を保った。アクラム師は言う「ユースフは何が起ころうと禁欲的であるべきことを私たちに教えています」(p.157)。どのような環境にあっても敬虔な信者であることはできる。中近東からヨーロッパへ移住し世俗の誘惑の多い環境に暮らしても。これは過激主義に染まることとは違う。「アッラーがあなたに空間を与えたなら、それに文句を言ってはなりません!」「与えられた空間をどのように用いるか、よく考えるのです!」(p.160)。実際アクラム師の生活はどこに住んでも腰を据えて神と対話し静寂の中で信仰生活を続けるものであった。他方、エジプトの騒乱の中で家族が拘束され危機感を持っている友人を持つカーラ・パワーは、アクラム師に共感しつつも、果たしてそれでよいかと自問する。両者の異文化対決だけど理解・共感し合えるところも本書の魅力だ。
H29,2
(国際)ムルアカ『中国が喰いモノにするアフリカを日本が救う』(アフリカと中国と日本)、勝俣誠『新・現代アフリカ入門 人々が変える大陸』(2013年現在の政治経済)、中村安希『インパラの朝』(中央アジアやアフリカ)、中村哲『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』、パワー『コーランには本当は何が書かれていたか』、マコーミック『マララ』、サラミ『イラン人は面白すぎる!』、中牧弘允『カレンダーから世界を見る』、杉本昭男『インドで「暮らす、働く、結婚する」』、アキ・ロバーツ『アメリカの大学の裏側』、佐藤信行『ドナルド・トランプ』、堤未夏『(株)貧困大国アメリカ』、トッド『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』、池上俊一『パスタでたどるイタリア史』、多和田葉子『エクソフォニー』、田村耕太郎『君は、こんなワクワクする世界を見ずに死ねるか!』、伊勢崎賢治『日本人は人を殺しに行くのか』、高橋哲哉『沖縄の米軍基地』、岩下明裕『北方領土・竹島・尖閣、これが解決策』、東野真『緒方貞子 難民支援の現場から』、野村進『コリアン世界の旅』、明石康『国際連合』、石田雄『平和の政治学』、辺見庸『もの食う人びと』、施光恒『英語化は愚民化』