James Setouchi

2024.11.26

 

梁石日(ヤン・ソギル) 『冬の陽炎』幻冬舎(2008年)      

 

1        梁石日(ヤン・ソギル)

 1936年大阪府生まれ。2024年6月に没。著書『血と骨』『闇の子供たち』『夜を賭けて』『族譜の果て』『夏の炎』『裏と表』など。

 

2      『冬の陽炎』

  エンタメ。娯楽小説。娯楽なので、読まなくてよい。性描写・暴力シーンがあるので、健全な青少年にはお勧めできない。時間のある大人のためのエンタメ。でも、『裏と表』と同様、これも、面白いことは面白い。娯楽小説の書き手というのは、うまいものだな、と感心する。タクシー・ドライバーをしている男が主人公だが、読んでいると、自分が東京の町をタクシーを運転して走っているような感覚になる。作家の筆力と言うべきか。作家自身タクシー・ドライバーをしていた経験があるのかもしれない。ストーリーの起伏も面白い。ラストも余韻が残る。姜英吉は新宿の高層ビルが倒れてきそうな感覚に襲われながらクラブ<二十一世紀>に通じる地下への長い長い階段を降りていく。姜英吉は世の繁栄の虚妄を知りつつ、また同じ過ちを繰り返すのか・・・? うまいものだ。

 舞台は東京の新宿ほか。一部香港とマカオ。時代はバブル崩壊後、イラク戦争当時

 

(登場人物)(なるべくネタバレしないように)

姜英吉:三十代。アルバイトのような雇用でタクシーを運転し生活している。借金のため妻子を大阪に残し東京に逃げ出してきた。新宿のスナック<樹林>とクラブ<二十一世紀>に出入りする。在日。国籍は韓国。

康淳保:姜英吉の妻の従兄。新大久保で焼き肉店を経営。

宗方洋平:スナック<樹林>とクラブ<二十一世紀>の常連客。60歳。年長で落ち着きのあるモテ男。妻子とうまくいかず別居。金はある。

スナック<樹林>のマスター:妻子とうまくいっていない。客が来ず金がない。

朋子:スナック<樹林>で働く。マスターと関係ができる。

絵理:スナック<樹林>で働く。宗方と関係ができるが・・・

高木有造:スナック<樹林>の常連客。

クラブ<二十一世紀>のママ:宗方と良好な関係。

立花美津子:クラブ<二十一世紀>で働く。魅惑的な謎の女性。姜英吉と深い仲になるが・・

立花美奈子:美津子の妹。大人しい女性。冒頭で集団自殺を図るが偶然姜英吉に助けられる所から話が始まる。

米兵たち:クラブ<二十一世紀>の客。イラク戦争から一時引き揚げてきている。店で暴れる。

野上:立花美津子の元夫。ギャンブル狂でDV男。

島岡、井口、宮田、金原、江坂係長、部長、社長、会長:タクシー会社の人たち。

田村機長:航空機の機長。裏稼業で「運び屋」をしている。

黄錦城社長:香港のダイヤ会社の社長だが・・

暴力団の女、組員たち:ここでは記さない。

 

(あらすじ)(ややネタバレします)

 大阪に妻子を残して借金から逃げてきた姜英吉は、東京でタクシー・ドライバーをしている。ほとんどその日暮らしの貧しい生活だ。或る夜偶然出会った白いワゴン車で集団自殺を図った女性・立花美奈子の命を助けたことから冒険が始まる。行きつけのクラブ<二十一世紀>にはその姉・立花美津子がいた。美津子には夫がいる。英吉にも妻子がいる。だが二人は深い仲になってしまった。あるとき英吉はタクシーの客の忘れていったボストン・バッグに、現金2300万円と、時価3億円のダイヤと、さらに麻薬があることを発見。借金があり妻子を養えず美しい立花美津子にも会いたい英吉は、ついそれを届け出ず自分のものにしようとする。ここから大きく事態が動いて・・・

 

(コメント)(相当ネタバレします)

 客の忘れものは会社か警察に届けるものと決まっている。さもないと泥棒になってしまう。だが姜英吉は欲にくらみ我を忘れ自分のものにしようとする。恋人の立花美奈子に「誰にも言うな」と話したら直ちにその姉の立花美津子、その元夫の野上の知るところとなり、分け前を寄越すよう迫られる。時価約3億円の高級ダイヤを香港で換金すべく3人は香港、そしてマカオへ。小切手を切ってもらい大金持ちになった3人は帰国し、小切手を換金しようとするが、実は騙されていたことに気付く。3億円は泡と消えた。しかも落とし主の暴力団が嗅ぎつけ、英吉たちは監禁され拷問されることに。生命の危険が迫る。・・・以下まだ展開があるが、読んでのお楽しみ。

 

 拾ったバッグの金とダイヤで大金持ちになり、今のしがないタクシー・ドライバーのくらしから抜けだそうとしたが、すべては夢と消えた、という話。すべてを失い一時の夢から覚めた彼を迎えてくれたのは、大阪から出てきた妻子と、もとのタクシー会社の部長だった。平凡な日常の中に、彼を必要としてくれている・助けてくれる人はいた、という結末で、よくできている。

 

 周辺の人物の物語も印象的だ。

 

 数少ない友人・宗方洋平は、60歳のダンディーなモテ男だが、妻子とそりがあわず、新宿で飲んでいる。絵理という若い女性と仲良くなり、絵理に貢ぐ。その絵理はもと彼(DV男)に貢いでおり、果てはもと彼に殺害される。(このシーンはホラーだ。姜英吉が夜にタクシーを走らせていると、突如目の前に白い服の血まみれの女が現われ、タクシーにしがみつく。英吉は幽霊だと思い逃げた。実はそれは絵理で、もと彼に殺されそうになり逃げる途上だったが、英吉が逃げた直後にもと彼に殺害された、とわかる。実に恐ろしい。)宗方洋平は実は末期癌で、介護をしてくれたミドリという女に財産を半分残して死んでいこうとする。「おれの人生は可もなく不可もなしだった。人間の一生って、こんあもんだよ」と宗方は気取ってみせる。

 

 スナック<樹林>のマスターも妻子とうまくいかない。朋子と関係がある。客が来ず店が儲からないので悩んでいる。金がないのに人がよく、姜英吉に金を貸してくれたりする。

 

 美津子と美奈子の姉妹にも物語があるが、ネタバレになるので紹介しない。

 

 姜英吉が金を近所の墓地に埋めようとしたら、下から謎の白骨死体が出てきて恐怖するシーンがある。行方不明で殺され人知れず埋められている人が実は他にも沢山いるのかも知れない。自分もまた行方不明者の一人のようなものだ・・と姜英吉は思う。都会を(高度資本主義社会を)彷徨う姜英吉(あるいは、我々)に、安住の場所はあるのか。

 

 冒頭で客が、日本の巨額の赤字国債と、にもかかわらず明治通りの地下に数千億円をかけて地下鉄を作ろうとしている、と批判するシーンが出てくる。日本では巨額の金が動いているがそれは空しい金だ、一方で姜英吉はじめ金のない人々がネオン下でうごめく・・という図式を際立たせている。ラストの、高層ビルが倒れてきそうだという感覚を抱きながら姜英吉が地下へ降りていくシーンと呼応している。これもうまい。

 

 姜英吉は在日だ。すべてを失った彼を迎えてくれたのは、同じ在日の妻子と康淳保と、隠れ在日の会社の部長。在日の繋がりで助け合う、という隠れた文脈がここにはある。梁石日のメッセージが隠れているかも知れない。