James Setouchi
2024.11.16
宮本百合子『貧しき人々の群』
1 宮本百合子 1899(明治32)~1951(昭和26)
東京都生れ。作家。父祖は米沢藩士(米沢は上杉、奥羽越列藩同盟)の家系で、祖父は福島の郡山近くの安積(あさか)原野の開拓をした。父は設計士。母方も佐倉藩(千葉、譜代)の武士の家系で、母は倫理学者で明六社の西村茂樹の長女。百合子は本名ユリ。幼時父の仕事で札幌にもいたが、東京育ち。文京区の誠之小学校、お茶の水高等女学校、日本女子大予科(英文科)に学ぶ。父と渡米。荒木茂(東洋語研究者)と結婚。帰国し創作や慈善活動を行う。数年で荒木と離婚。湯浅芳子(ロシア文学研究者)と知り合う。長編『伸子』を書く。昭和2年(1927年)ソヴィエト旅行。昭和5年帰国後プロレタリア作家同盟に加盟。昭和6年宮本顕治と知り合う。昭和7年宮本と結婚。執筆活動も行うが、何度も検挙され入獄し体調を崩す。夫の顕治も非合法活動、検挙、入獄。経済的・精神的に困窮。官憲の検閲を受けつつ執筆活動。戦時中も検挙、拘置所勾留、病などで苦しむ。夫の顕治は網走刑務所へ。やがて昭和20年(1945年)の敗戦。百合子は新日本文学会、婦人民主クラブ創立のために働く。共産党中央委員候補に選ばれたり、反戦、平和擁護運動の先頭に立って働いたりする。執筆も続ける。昭和25年レッド・パージで宮本顕治が追放される。百合子は昭和26年1月病で死去。享年52。(集英社日本文学全集の年譜、小田切進の解説などから)
2 『貧しき人々の群』大正5(1916)年発表。作者17歳の時の作品!
宮本百合子に手を出すのは正直、億劫(おっくう)だった。何しろ、もと共産党委員長・宮本顕治の妻、ということだけは知っていて、イザ宮本百合子を読むならば、マルクス主義そのものと全面対決しなければならないのではないか、その力量は自分にはない、と思うからだ。(私の尊敬する大塚久雄という経済学者は、キリスト教徒で、学生時代優秀な学友がマルクス主義者になって論争を挑んでくるので、対抗上自分も勉強したら結果的に自分の方が詳しくなってしまって・・と言っておられた。優秀な方はそういうことがおできになる。私の及ぶところではない。叱られるかも知れないが・・)
『貧しき人々の群』、読んでみて、予想と全く違った。面白い。いや、その前に、作者がこれを17歳で書いたというのがまず驚きだ。言われてみれば大作家の円熟期の語彙やストーリー展開があるわけではなく17歳相応の素直な作品だ。が、それは言われて初めて思いあたることだ。自分が17歳でこれを書けたか? というと、全く書けない。それまでに相当の小説を読んで、見よう見まねも含めて何本かは書いていたであろうが。
「私」が語り手。私小説風である。が、自然主義は理想に欠け、『白樺』派は現実描写に欠けるが、本作は理想と現実の両方を探究している、と本多秋五が言った(解説の小田切進による)。確かにそうだ。何より強い印象を受けたのは、作者の、弱者に対するやさしい眼差しと、厳しい自己省察の(誠実な)姿勢。作者の誠実は自己のあり方を厳しく問う。これはマルクス主義の社会理論云々では無く、恐らく儒学(朱子学?)だ。そう言えば作者の母親は西村茂樹(倫理学者。東洋的道徳を説く)の娘だ。
舞台は、恐らく作者の父祖の故郷、福島の農村。「私」は都会に住む豊かな地主の娘で「お嬢様」と呼ばれている。その農村は貧しく、教育も行き届かず、道徳心も荒廃している。(実際にその福島の農村がどうであるかは、私は知らない。農村でも貧しくても江戸末期以降儒学や心学などが行き渡っている場合もあるので。)そこは「私」の祖父が開墾し多くの人が入植した村でだ。「私」は貧しい人、病気の人、障がいのある人、いじめられている人に大いに同情し、何かしてあげられることはないか? と探り、声をかけ、金品を渡したりしている。
ここまでだと、おや、これはマルクス主義でも何でもない、キリスト教徒で慈善をする人々の姿ではないか? と思った。マザー・テレサとまでは言わないが、「蟻の町のマリア」北原怜子(さとこ)やゼノ修道士、あるいは・・
だが、施しを受ける悪ガキが、「おめえの世話にはなんねーぞッ」と石を投げてくる。大人たちもオモモライ主義でつけこんでくる。「私」は困惑しつつ、自分に至らないところがあったのではないか、と自らを省みる。この自らを省みる姿勢は、ネパールに医療活動に行き、現地の人々から学ぼうとした岩村昇(キリスト教徒、医師)を連想させる。中村哲(アフガニスタン)をも。岩村昇や中村哲は現地に学びながらやり方を変えていく。
ここで町のキリスト教婦人会のマダムたちの慈善活動が登場する。彼女たちは慈善の志に燃え寄付金を募りこの貧しい村にやってきて巨額の義援金を戸別に配布した。彼女たち町のセレブなマダム同士の、キリストの弟子にあるまじきメンツ争い、(そう、いかにもありそうな例のやつ、)が批判的に描かれる。配布されるカネに群がる村人と、そこで起こる見苦しい争いと堕落が描かれる。婦人会の企画は村人を更にダメにしただけだった。
このやり方ではダメだ、とはっきり描かれる。(慈善や義援金がすべてダメかどうかはここでは措く。)「私」自身のやってきたこともダメだ、虚栄心があったのではないか、と「私」は反省する。「ほどこす者」と「ほどこされる者」との間にある「力の懸隔」が歴然とあってしまう、と「私」は意識する。(注1)
では、どうすればよいのか?「私」は絶望しない。別のやり方を見つけよう、それはきっとあるはずだ、それを「私」はきっと今に捕らえる、それまで待っていておくれ、「私」の悲しい親友よ、と「私」は書く。
ここがすごい。楽天的で、悲観しない。別のやりかたを何とか探そうとする。それは必ずつかめるに違いない、と「私」は考えている。ペシミスティックでない。17歳の若い生命力ゆえか、父母の教育を含めた生育歴のおかげか。埴谷雄高なら立ち止まって「自我とは何か」「宇宙とは」と始めるところだ。内村鑑三なら(若い頃は多少は社会改良も考えたが)結局神に祈り委ねそうだ。法然上人は念仏をする。親鸞上人はお経を読みかけたが中止、やはり念仏を。一遍上人はお札を配る。日蓮さんと栄西さんは鎌倉幕府に仏教で訴えることがあった。奈良期の光明皇后は悲田院と施薬院を作った。松尾芭蕉は捨て子に食べ物を投げ与え「親を恨まず、生まれつきを嘆けよ」と言って去る。有島武郎は有する農場を手放した。宮沢賢治は具体的な農業指導を行いかつ農民芸術論を考えた。二宮尊徳は自ら勤勉に働き農民を勤勉な存在に変えた。上杉鷹山は自ら節倹しかつ政治経済社会の改革で、飢饉においても餓死者を一人も出さなかった。西光万吉は水平社を作って立ち上がる。北一輝なら天皇と軍隊による社会改革を唱えるだろう。宮本顕治なら・・・マッカーサーと吉田茂は・・・
ドストエフスキー『貧しき人びと』とは、本作と題は似ているが、全く違う。ヒューマニスティックな心情が流れているのは宮本百合子『貧しき人々の群』も同じだが、ドストエフスキー『貧しき人びと』(1846)は、大都会ペテルブルクが舞台で、貧しい下級官吏と少女の文通の形で語られる。その中に人間関係のトリックも仕込まれている。ドストエフスキーはこれを二十代で書いた。ゴーゴリ『外套』(1842)はじめ当時のロシア文学の影響を受けているのは言うまでもない。貧しくも心優しく善良な人々を描いた。(ドストエフスキーは、農奴たちに父親を殺された。それでもなおこうして書いた。)
宮本百合子は、「貧しい人々=心優しく善良」とは、しない。彼ら貧しい村人は、自分勝手で横暴で金品をねだり嘘をつき、自分より劣位の者を差別しいじめる。「善馬鹿」とその「白痴(原文ママ)の子」が村の悪ガキどものターゲットだ。いじめを注意した良心的で親孝行な水車屋の「新吉」(北海道から帰ってきた)は、しかし母親から虐待され病をこじらせ、(村人の同情にもかかわらず)死んでいく。ここがきわめて悲惨だ。そういう事実を作者が見聞したかどうかは知らない。だがここを最も悲惨なものとし、そういう悲惨を招来する村の経済的・精神的貧困を抉り出し、今は自分は何もできないがいつか必ず何とかする、と「私」が決意する、という小説である。
こうして見ると図式的と言えば図式的だ。「私」が楽天的で肯定的なのは、いいことだが、どうしてそんなに前向きなのかはわからない。そういう目で見れば、17歳の学校で優秀な方の「作文」かもしれない。ドストエフスキーはシベリアに流刑となり聖書を心読して『罪と罰』の世界へと深化していく。宮本百合子はその後渡米し結婚離婚を経てどうなっていくのだろうか。
年譜によれば、戦前の体制の中で宮本百合子はしばしば官憲に検挙・投獄され体調を崩し戦後も夫がレッド・パージされ、百合子は52才で亡くなる。上の小説作品からうかがい知られるような純真で良心的で誠実で(しかもこれほどにも優秀な・・優秀でなくても・・)人がやがて世の中に出てひどい目にあって死んでいくのは残念だ。いっそ金持ちの娘として(良心にフタをして利権にしがみついて)えらそうにして暮らしていれば元気で長生きできたのか? 理不尽だ。(有島の早世も同様か。)やはり戦前のシステム(人々の意識も含めて)に大きな問題があった、とまずは感じてしまうのだが・・・そしてそれは今でも・・・
注1 本作には階級対立の見方は明確には出てこない。だがその萌芽があると言えばあるかもしれない。小田切進の年譜を見ると、本作を書いた17才の時点で作者はトルストイは読んでいるがマルクスやレーニンについて読んだとは書いていない。
R6.11.16