James Setouchi

2024.11.14

牧野信一 の 短篇から(3)『泉岳寺付近』『鬼涙村』『淡雪』ほか

 

1        牧野信一 1896(明治29)年小田原生まれ。家は没落士族。父が渡米、帰国後も別居。母は小学校勤務。

 祖父母に育てられる。小田原の小学校、中学校を経て早稻田大学高等予科、本科(英文学科)に学ぶ。一時時事新報社に勤務。東京、小田原などに住む。38歳で憂鬱症になり1936(昭和11)年に小田原で自死。初期は家族のいさかいを描いた『地球儀』『父を売る子』『父の百ケ日前後』など。やがてギリシア・ローマの知識を多く取り込んだ『村のストア派』『吊籠と月光と』『ゼーロン』『バラルダ物語』『酒盗人』などを書く。さらに『泉岳寺付近』『鬼涙村』『裸虫抄』『淡雪』など。牧野は、島崎藤村に見いだされ、坂口安吾を見いだした、と言われる。自身の家族や田舎を舞台にした私小説風の作品が多いが、書いていることがすべて彼の家族の事実というわけではない。(集英社日本文学全集の年譜他を参照した。)

 

(ネタバレ有)

 

2 『泉岳寺付近』昭和7年発表。作者36歳の年。

 泉岳寺付近の居酒屋の息子の守吉は尋常小学校5年。親父と喧嘩し、近所で子どもたちと討ち入りの劇をうまく演じ、「私」を賭け将棋で負かす子だ。「私」は後輩作家の進藤や枝原と会う約束があるのに賭け将棋の負けを取り戻すべく将棋を続け、負け続ける。星座のような花火が上がる。

 勝又浩という人が『泉岳寺付近』を暗記するほど読んだ、と言っている(藤田愛子『愛子の窓』⑤による)そうだが、どこがそんなによいのかよく分からなかった。昔の江戸・東京の辺境エリアの、生意気な子どもたちが生き生きと生活している情景は、わかる。

 

*泉岳寺:曹洞宗の寺。高輪にある。赤穂義士が葬られている。

*赤穂義士:1702年赤穂藩の浪士らが江戸幕府の高官・吉良上野(こうずけ)の邸に討ち入り主君の仇討ちをした。討ち入りには山鹿流の陣太鼓が使われた。その事件に参加した四十七人を赤穂義士と言う。賛否両論ある。

 

3 『鬼涙村(きなだむら)』昭和9年発表。作者38歳の年。

 「私」はお面師の水流(つる)舟二郎と同居しお面を作っている。この村では祭りの際に(祭りでなくても)気に入らないとされた者を大勢で担ぎ上げて心神させ、果ては川に放り込むという風習がある。担ぐ側はお面をかぶっているので犯人が誰かは分からない。誰が次の生贄になるのか? 戦々恐々だ。次は「私」だ、という噂が聞こえてきた。村会議員のJ氏は村の人皆を敵に回して担がれた。そのJ氏を介抱したので今度は「私」が狙われるらしい。柳下杉十郎と松二郎の父子や、通称「ほら忠」の獣医・堀田忠吉や、「スッポン」こと養魚場の宇佐見金蔵なども狙われるかもしれない。彼らの所業は不誠実だがそれ以上に身振り・風体が反感と憎しみを抱かせるもので、担がれるにふさわしい・・と思ってふと鏡を見ると、自分の顔こそ「カラス天狗じみた独りよがりげな顔」をしていた。「ほら忠」は水流舟二郎を「あいつはいったい生意気だよ・・」と言っている。

 

 本作は評判が高いと言われる。誰かを匿名でやり玉に挙げてリンチする、面と向かっては言わないが相手のいないところで悪口を言う。(おや、これは今もSNSでやっている・・)。日本の閉鎖的な集団の典型だ。「私」も誰彼の顔を見ながらひどい面相だな・・と思っていたら、何のことはない、自分こそひどい面相だった。(ここは(笑)というところだ。)・・自分への問いもある。他の村人には、自分への問いはない。日本の古い田舎の村の悪弊と倫理的欠陥を言い当てた小説だ。

 但し私にはすごく面白いとは思えなかった。あまりにリアルでうんざりする気持ちが先に立ったからだ。

 

*祭りで神輿や山車を担ぐのは全国各地にあるが、人間を担いで川に放り込む風習が全国にあるかどうかは、知らない。だが、本作を読むと、いかにもありそうに思えてくる。「ギリシアもの」を書くときは小田原近辺の田舎の村は理想の平和郷のように描いたが、本作では違う。ひとくせもふたくせもありそうな住人たちの顔が描かれる。

 

4 『淡雪』昭和10年発表。作者39歳の年。

 これはある程度面白いが、人物の名前が似ているので、表を作らないと読めない。本作の桑原家では女子は代々「園」の字を名に使う。

 

(登場人物)

桑原家の老主人:城下町の桑原家の二度目の養子。

長男:養子で来たが浦賀の猟師の家に養子で行く。

次男:養子で来たが他家へ養子で行く。

園(その):養子で来た。(若い頃は鹿鳴館のダンサーもしていた。・・いつか?)婿を取り家を継ぐはずだったが、温泉宿で知り合った歌舞伎役者のFと出奔。小園(こその)という娘を産む。小園の子の藤吉とともに浦賀に住む。藤吉を歌舞伎役者の養子にすると言い出した。

F:歌舞伎役者。妻があるが園と関係を持つ。小園の父親。

Fの妻:Fの没後、園を大切にし、園と仲が良い。園と共に浦賀に生む。

小園:Fと園の子。東京の北島町(日本橋にある)の尾原家に嫁ぐ。藤吉という男児がある。藤吉は新吉と似ている。とすると、藤吉の父親は?

藤吉:小園の子。父親は尾原ということになっているが? 祖母の園と浦賀に住む。浦賀のおじいさん(船大工)を慕っている。立派な海軍の士官になることを願っている。母の薦める歌舞伎役者の養子の話をいやがる。。中学から一高に進むが、母の薦める医者になることをいやがり、文科に進む。やがて自死。

みわ(園江):桑原家の下女。老主人の子(みその)を生む。「園江」と改名。

片野の主人:小田原の町役場の質素な吏員。江戸っ子が好き。園と話があった。

英介:片野の長男。数学にすぐれ中学を飛び級で卒業、海軍兵学校に無試験で入る。小園と相愛あったが、河部町長の横やりでみそのと結婚することに。学校を放擲しアメリカへ。(長男が新吉。)

貞介:片野の次男。青白い秀才。本郷の大学で医科の優等生。

新吉:英介とみそのとの子。

河部町長:「雷音(ライオン)」「先生」「お父様」と呼ばれている。

 

(コメント)

 人間関係がややこしい。もう少しわかりやすく説明した方がいい。名前が似ているのは意図的にやっているのだろう。 

 新吉にとって藤吉は感じの良い先輩だが、藤吉は誰が父親かだけは疑ってかかっている。ここが藤吉の泣き所だ。藤吉は新吉のために軍艦の絵を描いてくれる。・・だがラスト、藤吉は自殺未遂をする。新吉への遺書には、遺書と日記を焼いてほしいとあった。

 みわ(園江)みそのが悪人で新吉が苦しむのかと思っていたら、小園に振り回されて藤吉が自死してしまう。藤吉は父が誰か分からず悩んでいた。「君はお父さんがあるんだから、羨ましいよ・・僕のほんとうのお父さんは、どこの誰なのか僕は知らない」と藤吉は言っていた。

 新吉と藤吉がよく似ていること、英介と小園が相思相愛だったことから、藤吉は英介と小園の子(もしかしたら片野老人と小園の子?)ではないか、と読者に気付かせる仕掛けになっている。父がアメリカに行って悩む新吉よりも、藤吉の方が悩みが深かった、藤吉は父が誰かわからず、母にも反発している、ということか。

 この話は、牧野信一特有の、父親が渡米して不在、母親がうるさい、という家族の事情の、さらに大きな背景のようなものを、3代前くらいから、大きく描いている。牧野は本作発表の約3ヶ月後に自死してしまうが、そうでなければ、一族の長い歴史にまつわるロマンを描いていたかも知れない。

 

*牧野信一(明治29年生まれ)は、梶井基次郎(明治34年生まれ)と5歳違いだ。小説を発表した時期はかなり重なる。だが、作風が随分違う。

 また、昭和初年度になると、戦争が近くなる(というよりも、昭和10年=1935年の時点では、すでに上海や満州では戦闘・戦争が始まっている)。この目で逆算して見ると、『鬼涙村』の閉鎖的な村の気質(誰かの扇動で一人をリンチにする)の上に日本軍国主義は乗っかっていたのだろうと思える。また、各作品には家の没落、家財の売却、若者が仕事がない、などの状況が描き込まれている。貧富の差や貧困が戦争を生むのだ。(おや、現代と同じような・・?)さらに『淡雪』で藤吉は海軍に入る気でいる。新吉も軍艦がカッコイイと思っている。時代の風潮で宣伝していったに違いない。あれが税金を多大に食う殺傷兵器で、結局多くの将兵を載せたまま太平洋に沈み、日本はいずれ沢山の人が死んで焼け野原になるだろうということは、気付いていない。芥川の自死は昭和2年(1927年)だ。彼は「ぼんやりした不安」を語っている。直接の死因は病気に分類されても、例えばうつ病を構成した原因が時代社会(貧困、将来の見込みのなさ、暴力賛美の風潮など)にある、ということは、明らかに、ある。牧野(昭和11年自死)の場合はどうだろうか・・・

 

 

(彼の作品の評価からいくつか)

・「宇野浩二は、母親が信一を見殺しにしたと言わんばかりの書き方をしている。坂口安吾は、牧野の文学は自殺と一心同体の文学だった、と言った」と平野謙の解説(集英社日本文学全集)にある。

・水石鉄二という人は、「奇天烈な幻想小説として、唯一無二の地位にいるかと思われる」と牧野信一を評価している。(どこかのサイトにあった。)

・「知的幻想趣味と徹底した快楽主義的生活との交錯によって、独自のボヘミヤニズムを生みだし・・」と福武文庫カバーにある。

・「二人(梶井基次郎や中島敦)のストイックな生き方と作品形成に比べると、ヴァガボンド的要素に富み、私小説の系統ながら、独自の幻想とどす黒いユーモアに溢れ、文章も他二人に比べれば破格」と三島由紀夫は言った。(wikiを見た。)

 

 

(参考)小田原の作家

 

北村透谷1868~1894 小田原の没落士族の子孫。早稻田(英文)に学ぶ。明治浪漫派。『文学界』を作る。島崎藤村の先輩。また、日清戦争よりも前に日本平和会を組織、雑誌『平和』を主宰。もとは自由民権運動に参加、三多摩で活動していた。色川大吉の研究がすぐれている。劇詩『蓬莱曲』、評論『人生に相渉るとは何の謂ぞ』『内部生命論』『明治文学管見』など。その妻・北村美那について門井慶喜という人が『夫を亡くして』という小説を朝日新聞に連載している(令和6年11月~)。

 

牧野信一1896~1936 小田原の没落士族の子孫。早稻田(英文)に学ぶ。私小説的作風と言われる。上記参照。

 

尾崎一雄1899~1983 小田原の神主の子孫。早稻田(国文)に学ぶ。私小説の大家。『虫のいろいろ』『もぐら横丁』『まぼろしの記』『あの日この日』など。

 

なお、北原白秋、坂口安吾、三好達治なども小田原に住んだことがある。