James Setouchi
2024.11.9
梶井基次郎『檸檬』
1 梶井基次郎
1901(明治34)年大阪市生まれ。北野中学校、旧制三高、東京帝大文学部英文科に学ぶ。雑誌『青空』を創刊した。肺の病に苦しみながら創作を発表。伊豆の湯ヶ島に転地療養に行ったことも。1932(昭和7)年大阪市で没。享年31。代表作『檸檬』は高校教科書の定番教材。他に『城のある町にて』『Kの昇天』『冬の日』『冬の蠅』『愛撫』『闇の絵巻』『交尾』『のんきな患者』など。(集英社日本文学全集の年譜を参照した。)
2 『檸檬(れもん)』
梶井はこれを大正12年(1923)秋に京都の旧制三高在学中に書き始めた。13年(1924年)4月に東京帝大文学部英文科に入学し東京の本郷3丁目に下宿。10月脱稿、12月に中目黒に移転。14年(1925年)同人雑誌『青空』創刊号に発表。書いてある内容は、京都の旧制三高時代(「あのころ」)である。
(あらすじ)
語り手「私」は京都に住む旧制三高の学生。当時旧制高校に進む人は少なく、数少ない知的エリートの卵だ。実際「私」は丸善という洋書や高価な舶来品を扱う店に出入りする。但し「私」は病で苦しみ、借金もあり、「不安の塊」に苦しみ、学校にも行かず、京都の裏町を歩いたりしている。「私」はどこか遠くの町に逃避したい。「私」の好きなものは「みすぼらしくて美しいもの」。壊れかけの裏町の風情、子供の遊ぶ花火やおはじき。駄菓子屋、乾物屋、夜の景色。ある果物屋で檸檬を買う。「私」は元気になった気がして久しぶりに丸善に入ってみた。だがまた憂鬱が立て込めてくる。「私」は絵画の本をめくるが憂鬱は払えない・・「私」はふと思いついて、絵画集を何冊も積み上げて空想の城を作り、その上にさきほどの檸檬を置いてみた。あの檸檬が爆弾で、丸善が大爆発をするのだったらどんなに面白いだろうと「私」は思う。そして「私」は京極通りを下っていく。そこには活動写真の看板画が奇体な趣で街を飾っている。
(コメント)
以上があらすじだ。
これは一体何の話だろうか? 病や生活の乱れや借金から来る不安の塊に苦しむ男。かつてエリートの卵だったが今はドロップアウトしている。彼は妄想癖があり、丸善というセレブと知的エリートの集まる店を、空想上の檸檬爆弾でこっぱみじんに吹き飛ばしたら痛快だろう、と思う。そして京極通りを下っていく。
ここに込められたものは。
語り手「私」は不安や憂鬱に耐えながら想像力の力で何かを成し遂げることの喜びを得た。素敵な檸檬を上に乗せれば完成だ。いや、それが爆弾で全部吹き飛ぶのだったら面白い。「私」はちょっとしたいたずら心を持ち自分一人の内心の満足で喜んでいる。いや、「私」は知的エリートの世界を捨てて京極の俗悪な大衆の世界に入っていく。「私」は爆弾でテロを行うアナキストか何かだ。セレブと知的エリートの集まる丸善をこっぱみじんにしてやろう。それらは「私」を抑圧してきたものの代表だ。「私」は実際にそれをするわけではないが想像上でそれを行う「私」は「私」の過去を縛ってきたエリートの世界を破壊する。。いや、それ以上に、大きなカタストロフィーへの予感、黙示録的な終末と新しい世界の出現への願望がある・・・?
最後の一文はなぜあるのだろうか? (この一文は原案『瀬山の話』にはない。)京極通りは繁華街だ。京都は南下することを「下る」と言い北上することを「上る」と言う。京極通りを下がっていったのだから、南下した。つまり北の丸善や三高・京大と反対方向へ、俗悪な下町の方へと移動した、と読める。周囲にあるのは活動写真(映画)の看板画で、これを「奇体な」と言ってのける。或る人がこれを、与えられた既成の美では満足できない(丸善の画集の美にも満足できない)から、自分の美を作るのだ、と決意した、と解釈していた。そうかもしれない。だが、俗悪な(従来の自分の美意識からしてみれば「奇体な」)世界へとどんどん入っていくイメージかもしれない。その世界に対して「私」はまだなじんではいない、違和感がある、しかし「私」はともかくも三高・丸善的なセレブの美の世界から一刻も早く遁走し、新しい別の世界へと参入する。(「知恵袋」で誰かが京極はもともと魔界だった、と書いていた。それも面白い。)(実は京極通りを南下したその先には京都駅があり、鉄道を通って東京がある、とも言える。)
梶井は当初これを京都で着想していたが、東京で書きあげた。関東大震災(1923年=大正12年)よりもあとに梶井は東京に移動した。京都での堕落していた古い生活を捨て、東京(しかも震災後の新しい東京)で新しい生活を始めよう、という気持ちを梶井は持っていたに違いない。東京で新生活をスタートした梶井にとって、本作は、古い京都生活との決別の辞でもあるのだろう。
中2病の妄想の類いと読むこともできる。シュールで面白い、と読む人もある。