James Setouchi
2024,11,6
「ほんとうの教育者はと問われて」朝日選書 1975年
1968年から1970年に朝日新聞に連載したものの単行本化。各界の人それぞれが、自分にとって思い出に残る素晴らしい先生についてのコメントを記している。どのコメントもなるほどと思わせる。
だが、出色のコメントは、渡辺一夫のものである。渡辺一夫は、フランス文学者。東大教授。フランスのユマニスム研究の第一人者で、大江健三郎の師匠に当たる。
渡辺一夫は言う。この連載では、それぞれに素晴らしい先生との出会いが語られている。どの先生も素晴らしいが、その先生と出会って学んだ生徒の側に学ぶ意志があることに気付くべきだ。実は、生徒の側に学ぶ意志がなければ、いかに素晴らしい先生が現れようとどうにもならない。その意味で、「ほんとうの教育者」「あるべき教育者」の像を問う前に、「ほんとうの生徒」「あるべき生徒」「あるべき学びの姿勢」をこそ問うべきではないか? (大意)
確かに、教わる側に学ぶ意志がなければ、いかに偉大な教師が教えに来ても、何にもならない。ソクラテスや孔子が教えに来ても、どうにもならない。これは真理を突いている。逆に、学ぶ意志さえあれば、どこからでも学べる。
もちろん、教師は無責任であっていいのではない。教師も厳しい自己省察と研鑽(けんさん)が常に必要である。学ぶ意欲の乏しい・気力の失せた子どもたちの心にいかに火をつけ、生きて学ぶ意欲を再生させるか? それが教師の力量であり人格であることに変わりはない。学ぶ意志のない者に、「学べ」と説教するのではなく、本人も知らぬ間に学ぶ意欲を持っていた、ということができれば、優れた教師・学校だということになるのだろうか。私もできていないことがたくさんあり恥ずかしい限りだ。だが、他方、学ぶ側に強い意志さえあれば、教師の出来不出来に関わらず、学んでいける、というのも、一方の真実だ。
孔子は誰に学んで孔子になったのか? 孔子の前には孔子はいない。孔子はどこからでも、あらゆる場所、あらゆる機会をとらえて学び続けて、孔子になったのだ。「孔子に常師なし(孔子には、誰それ先生に教わった、といった決まった先生はいない)」とは有名な言葉だ。孔子にあったのは、無類の好学心、向上心である。「十室の邑(ゆう)、必ず忠信、丘(孔子自身のこと)が如(ごと)き者あらん。丘の学を好むに如(し)かざるなり。(どんな田舎の村にも誠実な人はいる。ただ、彼らは、学問を好む気持ちが私ほど強くないのだ。)」(「論語」)
「あの先生はよく世話をしてくれた」「あの先生には感謝している」と言う人は、逆に「ほかの先生は世話をしてくれなかった」と言うかもしれない。学びとは(あるいは、教育とは、授業料を支払ったからその対価として確実に等価交換されるべきサービスであるのか? これには内田樹らが批判を加えている。
学ぶ側としては、さしあたって自分に出来ることは何か? から始めることができる。今たまたま与えられている環境のいい面を生かし、大いに学んでおくことだ。(世界には学校も本も鉛筆もない場所が沢山ある。)大切なのは、今与えられた環境の中で、なんとか本人が自ら学ぼうとする姿勢である。そう言えば、どこかの学校の校歌にも「自治向上」という言葉があった。
あなたは、どう考えるか?
(教育・学ぶこと)灰谷健次郎『林先生に伝えたいこと』『わたしの出会った子どもたち』、辰野弘宣『学校はストレスの檻か』、藤田英典『教育改革』、竹内洋『教養主義の没落』、諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?』、福田誠治『競争やめたら学力世界一』、広瀬俊雄『ウィーンの自由な教育』、青砥恭『ドキュメント高校中退』、内田樹『下流志向』、瀬川松子『亡国の中学受験』、磯部潮『不登校を乗り越える』、ひろじい『37歳 中卒東大生』、柳川範之『独学という道もある』、広中平祐『生きること 学ぶこと』、岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』、宮本延春『オール1の落ちこぼれ、教師になる』、大平光代『だから、あなたも、生き抜いて』、中日新聞本社『清輝君がのこしてくれたもの』、福沢諭吉『福翁自伝』、シュリーマン『古代への情熱』、ベンジャミン・フランクリン『フランクリン自伝』などなど。