James Setouchi

2024.11.6

 

 武田信子『やりすぎ教育』ポプラ新書208 2021年5月

 

1      著者 武田信子臨床心理士。元武蔵大学人文学部教授。東大院を経てトロント大、アムステルダム自由大学大学院で客員教授、東大非常勤講師などを歴任。著書『社会で子どもを育てる』など。(中野信子とは別人。)

 

2 内容の紹介以下に目次・小見出しを示す。ぜひ本書を読んでみてほしい。

 

はじめにー人間に点数がつけられている

 

第1章 「成功をめざす教育」の限界:親が教育熱心になる理由/出来ない先生になりたくない/「いい人生を生きたい」子どもたち/他者より抜きん出るために/経済的価値の高い人間とは/組織のトータル・コンピンテンシーへ/成果を上げればよい教育か/必要な智力は同じではない/公教育は「共に生きる力」のために/競争は子どもを幸せにするか?/過度な期待に苦しむ現代家族/低年齢化は先行投資の証し?/被認知能力も獲得させるものに/さらに管理に向かう大人たち

 

第2章 不適切な日本の養育・教育:不登校、引きこもりは教育が不適切だから/国連からも指摘される日本の教育の問題点/どこからが虐待なのか/教育熱心と教育虐待、そして教育の剥奪/将来への生活不安と大人の責任の呪縛/生涯発達の観点の不在/個人に記する能力観/即戦力社会の弊害/子どもの人権に対する無知/停滞や失敗を無駄と考える価値観/女性差別と代理戦争/時代の変化についていけない学校教育/臨床心理士や精神医学による問題提起の不在/社会構造へのアプローチの必要性の認識不足/人は生涯を通して学び続ける

 

第3章 子どもの育ちと基本的信頼感:一人の子どもを育てるには一つの村が必要/よりよい仕上がりをめざして/コントロール、ハラスメント、見当違いの子育て/乳幼児期に土台が作られる/乳児期1年の成長を考える/本能的な欲求が持つたくましさ/信頼感の獲得が大切/不足や過剰に耐えるために生まれた遊び/大人の対応が自己効力感を作る/子どもは全身で世界とつながる/毎日子どもにどう接しているか

 

第4章 遊べない子どもが増えている:国際的に注目される遊び研究/剥奪される「遊ぶ権利」/子どもも大人も遊びを知らない/遊びの創造者から遊びの消費者へ/遊び体験でも経済格差が進む/フリーな居場所を地域に作る/ICT危機とのつきあい方/遊びに集中できる環境を/有機的で広がりのある生活の場/安全・安心なコミュニティを

 

第5章 社会で「やりすぎ教育」を予防する:大人になることが不安/商品化の究極の形/子育てに正解も不正解もない/赤ちゃん100人、どう育てますか/人生のルートは人それぞれ/教育と経済活性化/格差社会の幸せとは/市民と教育の関わり/教育は自分の子どものことだけではない/日本の教育施策立案の問題点/「よい子」より「人の尊厳を尊重できる子」に/マルトリートメントの予防、具体的なアクション/人材の育成/受験、生涯学習、「学び」の社会システムを変革する/「今を犠牲にしない」人生100年時代に

 

おわりに

 

3 少しコメント

 指摘はどれも正鵠(せいこく)を射ていると感じた。自分も「やりすぎ教育」に何らか参加している一人だと思うと心が痛かった。教育学部に行く人は必ず読むべきだし、現代日本の全ての大人(親も教師もそうでない人も)読むべき本だと感じた。親と教師だけの問題ではなく日本社会全体の問題だからだ。

 

 アマゾンの評価に「自分が子どもたちになしている行為は、社会の幸せが増える方向に向かっているか? また、社会全体のシステムとして、大人が子どもたちになす行為が、未来の社会づくりにつながっていくか? そういう「問い」を自らに立てる一助になると思います。「自分はしっかりした教育を行っている」という自負のある方ほど、読んでほしいと思います。」とあった。その通りであろう。惜しむらくは、具体的な政策提案がいくつかはあるが少ないこと。だが、「やりすぎ教育はだめだ」「子どもを商品化するな」という主張は一貫している。(大人を商品化することもいけない。)

 

 過度の受験勉強のプレッシャーや過度のスポーツの勝利主義のプレッシャーでいじめをする(ブラック部活の上級生から下級生への暴力が絶えないのはそのため)、競争や結果至上主義を正しいことだと思い込む(価値観が歪む)、ヘトヘトに疲れて生きる気力を喪失する、親や教師の期待する水準が高すぎてついて行けず苦しむ、その苦しみを結局他の人をたたく(いじめと差別、排除)ことで憂さ晴らしする、金をかけた方が有利だとばかりに親が習い事に金をかけすぎる、さらに子どもは追い詰められて悪循環に陥る、といった例が最近多い。セレブなところほどそうなのか? そこから排除された者は「負け組」感を強くする。本人や親や日本の将来にとっていいことではない。

 

 困ったことに、学校は「成果」を出してアピールするために、「よくできる」子に沢山のプロジェクトを課す。各種大会(運動部だけではない。文化系各種コンクールや学習発表会なども)、ハイレベル大学受験。果ては、「できる」生徒を教師同士で(教科や部活動で)奪い合う。(これを教科エゴ、部活エゴと言う。)まじめで先生の受けのいい子は一人で四つも五つも抱え込むことになり、パニックになり、潰れてしまうことも。20人が目に見える成果を出せばHPでPRできる。数人潰れてもそこは知らん顔をする。潰れた人数はHPに載せない。こうして、法的に詐欺ではないが道徳的には詐欺的な手法で学校を(塾も?)PRし、生徒を集める。それは、教育基本法の原則に即していないやりかただ。・・どこの悪徳会社ですか? 子どもを商品化するな、とはこのことだ。市場経済が学校教育の中にまで浸透し人間を食い荒らす。教師も親もそれに加担している。健全な良識を持つ親は、そういう学校の本末転倒のつまらない成果主義を警戒し警告を発するべきだろう。犠牲になるのは子どもですぞ・・・

 

  高度成長期頃の写真を見ると、道や広場に子どもたちがあふれて遊んでいる。オバケのQ太郎と正太郎君は空き地で遊んでいた。鬼ごっこというのは互いに役割を交換(ロールプレイイング)し合いながら行う、人間関係を大事にする遊びだ。数字には還元されない大事な者があると子どもたちはそこで学んだ、と言われる。

 その後遊びと出会いの場だった「道」は単なる通路としての「道路」になり危険、ただの空き地や広場は無くなり、子どもたちも習い事で忙しくなった。「人生ゲーム」というのがあったが人生の価値を金儲けで測定する価値観を子どもたちに刷り込んだ。ドラえもんとのび太君は自宅でなければ異空間で遊んでいる印象がある。家でテレビゲームの類いをするのは異空間での一人遊びだ。「時間空間仲間」という三つの「間」がなくなった、としきりに言われた。(80年代~90年代?)。

 今は町は空き地ばかりだが、子どもたちがそもそもいない。まれに子供がいても習い事(塾や英会話やスポーツや・・)に行っている。一人っ子に多大の期待がかかっている。塾や学校やスポーツクラブでパフォーマンスが重視され目に見える数字の成果ばかりがひとり歩きする。「全国大会出場」の垂れ幕やHPでのPR。愚かしいことだ。垂れ幕や宣伝の多い塾や学校ほどそこで子どもたちのじっくりした育ちが損なわれているかもしれないと気付くべきだ。

 

 (少子化については、団塊ジュニア世代が結婚して子育てしやすいような政策を取るべきだったのだがそれをしていなかった結果だろう。今から何ができるか? )

 

(教育・学ぶこと)灰谷健次郎『林先生に伝えたいこと』『わたしの出会った子どもたち』、武田信子『やりすぎ教育』、辰野弘宣『学校はストレスの檻か』、藤田英典『教育改革』、竹内洋『教養主義の没落』、諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?』、福田誠治『競争やめたら学力世界一』、広瀬俊雄『ウィーンの自由な教育』、青砥恭『ドキュメント高校中退』、内田樹『下流志向』『街場の大学論』、磯部潮『不登校を乗り越える』、借金玉『発達障害サバイバルガイド』、ひろじい『37歳 中卒東大生』、柳川範之『独学という道もある』、広中平祐『生きること 学ぶこと』、岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』、宮本延春『オール1の落ちこぼれ、教師になる』、大平光代『だから、あなたも、生き抜いて』、中日新聞本社『清輝君がのこしてくれたもの』、福沢諭吉『福翁自伝』、シュリーマン『古代への情熱』、ベンジャミン・フランクリン『フランクリン自伝』などなど。