James Setouchi

2024.11.6

 

 藤原正彦『国家と教養』新潮新書 2018年12月

 

1 藤原正彦 1943年(昭和18年)旧満州生まれ。数学者、理学博士、お茶の水女子大学名誉教授。東大理学部卒、修士課程を経てハーバードやケンブリッジでも学ぶ。著書『若き数学者のアメリカ』『遥かなるケンブリッジ』『祖国とは国語』『論理と情緒』『国家の品格』など。父親は新田次郎(『アラスカ物語』など)、母親は藤原てい(『流れる星は生きている』など)。『流れる星は生きている』は敗戦で旧満州から朝鮮半島を南下して徒歩で逃げる話だが、その時若い母親と共に歩いて逃げた子供がこの藤原正彦である。

 

2 内容紹介 大略以下のように著者は述べる。

第1章 教養はなぜ必要なのか:グローバル化と称して90年代半ば以降実はアメリカのための改革が次々と為されている(郵政民営化、医療制度改革、労働者派遣法改革など)。日本は狙い撃ちされ「国柄」という国家最高の価値を失いつつある。なぜ多くの人は気づかないのか。適切な情報選択ができないからだ。多くの情報から人は有意義な情報を選択する。その際教養とそこから生まれる見識が大きく働く。従来の教養概念を人類史を通して概観し、新たな教養について述べたい。

 

第2章 教養はどうやって守られてきたか:古代エジプトのアレキサンドリアの図書館からビザンティン帝国、イスラム世界、ルネサンス、近代西洋世界と、教養の歴史を概観する。

 

第3章 教養はなぜ衰退したのか:第2次大戦後教養は世界中で衰微してきた。その理由は(1)科学技術や生産手段の進歩を人間性の進歩と勘違いしてうぬぼれと傲慢に陥ったからだ。(2)世界がアメリカ化したからだ。アメリカ人は功利性・改良や発明・金銭などを重視し、伝統・知性・教養を忌避した。(3)グローバリズムの結果だ。金融資本主義という錬金術に漬かったのだ。利害得失とは別の価値観を重んずる人々を増やさないといけない。

 

第4章 教養とヨーロッパ:ドイツ教養主義はフンボルトを代表に、大衆と遊離した実生活と没交渉のエリート大学生を生んだ。教養市民層と大衆は乖離し、教養市民層はヒットラー出現のお膳立てをしてしまった。対してイギリスは階級社会であるがジェントリーたちは大衆を見下さなかった。イギリス人にはバランス感覚とユーモアがある。ドイツの教養市民層はなぜ大戦を押しとどめえなかったのか。(1)教養市民層が国民のごく少数に過ぎなかった(2)教養が古典と哲学に偏り政治や実生活から隔離していた(3)バランス感覚が欠如していた。

 

第5章 教養と日本:新渡戸稲造にとって武士道は自明のものだったが、一高での教育は武士道的儒教的な修養から古今東西の文化にできるだけ広く触れる教養に舵を切った。大衆は講談倶楽部、少年は立川文庫を読んだ。大衆と教養層とは乖離していった。戦争の時代になってもエリートは教養主義だった。戦後も1960年代までは教養主義が残ったが、戦後の教養層がバブルを作り破裂させ新自由主義を推し進め長期デフレへと国をミスリードしてきた。旧制高校的な教養とは、西洋文化への跪拝に過ぎなかった。日本人としての形から切り離された教養は根なし草であり国難に当たって何の力も発揮できない。

 

第6章 国家と教養:ドイツでも日本でも大戦に対して教養は抑止力とならなかった。では、これからの教養とは何か。少数エリートの独占物やネット情報の集合体ではない。情緒(美的、宗教的情緒など)や形(日本人としての形。弱者に対する涙など)と一体となった現実対応の知識であるべきだ。実体験だけでは足りないので読書が必要だ。民主主義国家では一人一人が十分な教養を持つべきだ。これからの教養は、(1)哲学や古典などの人文教養、(2)政治、経済などの社会教養、(3)統計学を含む科学教養、(4)大衆文芸などの大衆文化教養(情緒あふれる唱歌、童謡なども)、を四本柱とすべきだ。本屋が半減したのは悲しい。読書は国防ともなる。本を読むということは人間として生きることなのだ。

 

3 少し批判:藤原正彦は、本を読め、情緒を豊かにせよ、国語をしっかり身に付けよ、と言ってくれるので国語や図書館の先生や出版社・本屋さんにとってありがたい存在だ。いや、そんなことじゃない。国民全体にとってありがたい存在だ。但し、この本にもいくつか注文をつけておきたい。

 

3章:①アメリカは功利的な俗物だらけのように書いているが、アメリカ人にも立派な(精神的な価値を重視する)人はいる。新島襄や内村鑑三はアマースト大学のJ.H.シーリー教授の影響を受けた。

 

4章:①イギリスに対して無条件に賛美しているが、イギリスこそインドやアフリカなど植民地に対してひどいことをしてきた歴史がある。

②衆愚に陥るべきではないのはもちろんだが、民主主義より身分制の方が良いかのような言い方があるのはいかがなものか。

 

5章:①乃木殉死をめぐる漱石『こころ』の解釈は私とは異なる。

②日本の教養層が軍国主義化の歯止めにならなかったことを批判するが、立川文庫と講談倶楽部を読んだ大衆が軍国主義に熱狂したことに言及していない。

③軍国主義に陥ったのは貧富の格差や軍産官学複合体のせいでもあるはず。

 

6章:日本人の「形」のようなものを安易に言うが、事はそう簡単ではない。明治や昭和に「これが日本だ」として語られたものは実はその当時にこれが日本として語られ示されたものに過ぎない。日本人はむしろ古来大陸などから様々なものを吸収しながら変化し成長してきた。

 

 これらの注文は付けておきたいが、全体としては、教養とは何か? 現代の大衆社会はこれでいいのか? を考えるきっかけにはなる。

 

 近年のアメリカならず世界中における新自由主義(一部の金持ちが金儲けのために廉恥心もなく暴利を貪る)・反知性主義(権力を批判する大学・マスコミ・言論人を弾圧する。その際民衆を煽る)・暴力への傾斜の流れ(国家・軍隊による国民への暴力、民衆による民衆への暴力)に対して著者は危機感を抱いているだろう。その問題意識は共有する。権力・「武」を持つ者ほど道徳心を持ち自己抑制的であるべきなのだが。

 

 なお、教養については、新渡戸稲造『修養』、ヒルティー『幸福論』、立花隆『脳を鍛える』『東大生はバカになったか』、竹内洋『教養主義の没落』、吉見俊哉『人文学部「廃止」の衝撃』、アキ・ロバーツ『アメリカの大学の裏側』、隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』、五神真『大学の未来地図』なども参照。                 2019.7  2025.8.23追記