James Setouchi

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内田 樹 『修業論』 光文社新書 2013年

 

1 著者 内田 樹(たつる)

 1950年生まれ。東大文学部仏文科卒。都立大博士課程を経て神戸女学院大学文学部教授。武道と哲学のための学塾「凱風館」を開設。代表作『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『他者と死者』『寝ながら学べる構造主義』『死と身体』『街場のメディア論』『先生はえらい』『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など。

合気道七段。

 

2 『修行論』

 四つのパートから成る。「あとがき」によれば、

(1)   「修業論―合気道私見」・・・『合気道探求』に連載したもの

(2)   「身体と瞑想」・・・仏教系の『サンガジャパン』に寄稿したもの

(3)   現代における信仰と修行・・・キリスト教系の『福音と世界』に寄稿したもの

(4)   武道家としての坂本龍馬・・・司馬遼太郎を偲ぶ「菜の花忌」でのシンポジウムの草稿

と、それぞれに発表した場所がちがうが、おおむね合気道を中心とする武道・武術の修行をめぐり、フランス現代思想や宗教の言葉を用いながら論じたもの。

(1)では、武道・武術の稽古を通じて、「トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する」能力、「実践的な意味での生き延びる力」を開発する、とする。そこでは因果関係の中に身を置かず、敵を作らず、強化型アスリートのやり方とは全く違ったやり方で、学び、変化し続ける、と著者は述べる。

(2)では、額縁を見落とした者は世界のすべてを見落とす可能性がある、先人が工夫したあらゆる心身の技法は生きる知恵と力を高めるためのものである、適切に生きようとするならそのつど世界認識に最適な額縁を選択することができなければならない、など述べる。さらに、二人の人間が相対して合気道を行うとき、相手と自分を含むキマイラ的・複素的身体を持って動いている、自己利益の追求を最優先し、勝負を争い、強弱に拘るのでは、いざというときに有害である、自分が相手を制するのではない、などと述べる。

(3)フランスのユダヤ人哲学者のレヴィナスの哲学と、合気道の修業とは、ともに人間の生身の身体感覚の上に構築された体系であり、本質的に同一であることを述べる。

(4)司馬遼太郎は修業によって人間は変わる、ということを信じていないか、言いたくないかだろう、それは、軍隊における非合理的で過酷な身体訓練、無数のあきらかに無意味なことをさせられた経験から、合理的なことを好み、不合理なことを憎むようになったのではないか、と著者は述べる。坂本龍馬は武道の修業で危機を生き延びる力を身につけたに違いない、戦国時代の武士がもし今の世に生きていたら、最先端の科学(医学、情報工学、軍事科学など)の研究をしていたはずだ、との知見も著者は披露する。

 

3 コメント

 著者が合気道の修業をこよなく愛していることはよくわかった。近現代の競技スポーツの、自分が中心になって特定の記録を伸ばすためにトレーニングするやりかたとは全く違う修業、それは身体と意識のレベルが上の段階に上がっていく修業であり、勝ちも負けもなく敵もいない、というのもよくわかった。能の稽古も同様だ、と筆者は述べている。二点挙げよう。(1)茶道や礼法でも同じではないか、と私は感じた。なぜそこに殺傷能力の要素が入り込まなければならないのか? さらには、曹洞宗などの座禅の修業で心身脱落するのとどうかと私は感じた。殺傷能力の訓練など本当は要らないのではないか? (2)カルト宗教でとにかく師匠の言うとおり修業しなさい、としているのとどうか。思考停止してロボットのようになり反社会的な行為に及ぶカルト宗教がある。それとどこで一線を引いているのか? を主たる疑問として読み進めたが、この本では展開していなかった。

 

 

読んでみよう→菅野覚明『武士道の逆襲』、本郷和人『なぜ武士は生まれたのか』、新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『代表的日本人』、小池嘉明『葉隠』、相良亨『武士道』『武士の思想』、『今昔物語集』『平家物語』『五輪書』『葉隠』『甲陽軍鑑』『三河物語』『軍人勅諭』『国体の本義』『終戦の詔勅』『堕落論』『武産合気』『修業論』

                                              

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