James Setouchi

2024.11.6

 

吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』集英社新書、2016年2月

 

1 吉見俊哉 1957(昭和32)年~。

 東京大学大学院情報学環教授。社会学、都市論、メディア論、文化研究を主な専攻としつつ、日本におけるカルチュラル・スタディーズの中心的な役割を果たす。主な著書に『都市のドラマトゥルギーー東京・盛り場の社会史』『「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史』『大学とは何か』『夢の原子力』など。(新書の著者紹介による。)

 

2 目次

第一章 「文系学部廃止」という衝撃

第二章 文系は、役に立つ

第三章 二一世紀の宮本武蔵

第四章 人生で三回、大学に入る

終章  普遍性・有用性・遊戯性

あとがき

 

3 コメント

「理系は役に立つが文系は役に立たない」というのは本当か? どう考えるか? 本書では、それは誤りだ、とする。「理系も役に立つが、文系は別の次元で役に立つ、両者は、役に立つ次元が違う」と本書は言う。

 

 文部科学省が「文系学部廃止」を「通知」し、全国に衝撃を与え、海外メディアや産業界からも批判が殺到したが、これは事実誤認に基づく。文部科学省は「文系学部廃止」を「通知」などしていない。メディアの事実誤認であり、事実誤認に基づく騒動であった(1-1)。だが、「通知」批判の前提にある事こそが問題だ。「理系はもうかるが文系はもうからない」ひいては「理系は役に立つが文系は役に立たない」といった思い込みが人々の中にあることが、実は根本の問題なのだ。戦争中には理系重視路線を組んだ。戦時の研究予算体制は現在にも引き継がれている。法人化以降、「競争的資金」を獲得しやすい理系とそうではない文系の格差はますます拡大した。一般社会に「理系は役に立つが文系は役に立たない」という通念が蔓延してきた。(1-2~1-5)

 

 だが、実は、文系は、役に立つ。「役には立たないが、価値はある」のではない。文系は、役に立つ。理系と文系の「役に立つ」は違う。概して理系の学問は、与えられた目的に対して最も「役に立つ」ものを作る、目的遂行型の知であるが、文系の学問は、長期的に変化する多元的な価値の尺度を視野に入れる、価値創造的な知であって、短期的には役に立たないように見えても、長い目で見れば、役に立つのである。(2-1~2-2)

 

(ここで私はわかりやすい例を出そう。理系の工学は新幹線を作る。それは素晴らしい技術だ。だが、文系の学問は、新幹線を作ってどうなるのか? それは人間の幸福とどう関係するだろうか? から問う。この問いをなくしてはすべての技術は空しい。新幹線、という穏当な例を示したが、この例が、戦艦大和、原発、核兵器、生物兵器、生命操作技術であったりする場合は、どうか? 「儲かるから作る」「国策だから作る」では済まないのである。)

 

 ここで吉見俊哉氏は、「教養」概念を整理して示してくれる。「リベラル・アーツ」は元来中世の大学教育における自由七科(文法学・修辞学・論理学・代数学・幾何学・天文学・音楽)を指す。これは言わば文系3、理系3、芸術系1だ。「教養」は、ドイツ国民国家の成立と連動している。「文化」は自然から理性に向かう歴史的プロセスを指示し、それが個人の発達プロセス、人格の陶冶としても理解されたのが「教養」だ(p.82)。さらに、戦後の新制大学で展開された「一般教育科目」(東大駒場では「一般教養科目」)は、旧制高校のエリート教育にあったドイツ型「教養主義」とは異なり、異なる専門分野を総合する力を目指す。これは民主主義社会に対応したアメリカのカレッジ教育の理念を導入したもので、それを推進したのは東大総長・南原繁だ(p.87-p.89)。最近では「共通教育」「コンピテンス」という概念が隆盛であるが、知の中身よりも活用・処理の技能に傾斜し、核となるべき「教養」の内実が空洞化しているという懸念もある(p.95)。

 

 吉見氏はさらに、高校を出た二十歳頃、仕事をしている三十代、定年時の六十歳と、人生で三回大学に入ることを提案する。大学への入学者は、25歳以上の人がどんどん入るのが世界の常識だが、日本はこの比率が極めて低い(4-3)。社会的価値の多元化、複雑化、流動化の中では、文系(人文社会系)の学問が役に立つ(4-5)。

 

 最後に、「役に立つ」こととは別に遊戯性としての学びの地平に言及する(終章)。

 

この本は有益で、物事をすっきり整理して見せてくれた。一読を薦める。                        

                                (H28.6)