James Setouchi

2024.10.6

 

堀田善衛『方丈記私記』

 

1        堀田善衛(ほったよしえ)(1918~1998)

 富山県生まれ。石川県の中学校を経て慶應義塾大学法学部政治学科予科に進学。法学部政治学科に進むが文学部フランス文学科に転科。ボードレール、マラルメ、ランボーなどを愛読。卒業後は国際文化振興会、軍令部臨時欧州戦争情報調査局、東部第48連隊などに勤めるが、昭和20年3月国際文化振興会から中国に派遣された。6月中国国民党宣伝部に徴用された。昭和22年1月帰国。世界日報社に勤務(翌年社は解散した)。上海滞在時から小説を書き始め、戦後発表していった。代表作『祖国喪失』『歯車』『広場の孤独』(芥川賞)『断層』『時間』『インドで考えたこと』『黄塵』『海鳴りの底から』『風景異色』『方丈記私記』など。「いちばん遅くやってきた戦後派」などと言われる。各種国際会議を飛び回る、国際派でもある。(集英社日本文学全集巻末の小田切進作成の年譜他を参考にした。)

 

2 『方丈記私記』1971(昭和46)年筑摩書房より刊行。私は筑摩ちくま文庫で読んだ。

 

 堀田善衛による、鴨長明『方丈記』に対する読解(解釈)である。大変面白く、勉強になる。

『方丈記』の記述にある、京の大火、および、時代の大きな変遷と、堀田善衛自身が経験した、昭和20年3月の東京大空襲、および、時代の大きな変遷とを、重ね合わせて捉えている。

・『方丈記』著者で鴨長明の人物像を、当時の宮廷人らと対照して捉えている。

・『方丈記』および同時代の後鳥羽上皇や藤原定家ら宮廷人のありかたと、昭和20年敗戦前の日本の指導者のありかたとを、重ね合わせて捉えている。

・引いては、日本文化論、日本人論に至っている。親鸞にも言及する

九条兼実、後鳥羽上皇、藤原定家、西行らの「王朝一家」の「本歌取り」式宮廷文化は、人民の現実を無視したものだった。これに対し、地下人であった鴨長明は、大災厄のおける民の苦しみを直視し、「王朝一家」の構成する「世」に背いた。親鸞聖人も、流罪になり「王朝一家」と決別し民衆の中に入っていった。

・『方丈記』および鴨長明の人物像の捉え方として、どこまで正鵠を得ているかを、私は知らない。だが、非常に面白く、考えさせる本であることは間違いない。

 

3 いくつかのポイント

(1)『方丈記』の大火の記述と、昭和20年3月の東京大空襲(下町が焼けた)とを重ね合わせる。鴨長明は自分で出かけていって火事や焼け跡を見てリアルに描写したに違いない。当時は衆徒蜂起などが多発。社会の全階級に転形期が訪れてきた。長明の観察眼は社会の次元からすでに政治へと質的変化を来している。

 

(2)堀田善衛は下町に出かけて焼け野原を見た。長明は火事の跡を実際に見に行ったろうが、九条兼実や藤原定家ら宮廷人には一般人民など見えていなかった。昭19年の近衛文麿の上表文にも、一般国民や職業軍人を敵視する見方がある

 

(3)昭和20年3月18日、堀田善衛は焼け野原の深川に行った。天皇陛下と近臣が視察に来た。焼け出された住民は陛下に対し土下座をし涙を流し「陛下、私たちの努力が足りませんでした・・まことに申しわけないことでございます、命を捧げまして・・」と呟いていた。堀田善衛はおどろいてしまった。陛下に最敬礼をする高官や軍人たちの儀式の内奥にあるのは、生ではなく死だ。日本の長きにわたる思想的な蓄積の中に、生ではなくて死が人間の中軸に居座るような具合にさせてきたものがあるはずだ。その無限にやさしい優情というものは、一体どこから出てきたのか。政治はそれに乗っかってよいのか? 日本の一切が焼け落ちて平べったくなっても、体制は維持されるだろう・・・いわば無常観の政治化とでも言うべきものがそこにある

 

(4)福原遷都の時長明は28歳だった。敗戦のとき堀田善衛は27歳だった。『方丈記』では京の死者4万2300余とある。仁和寺の隆興法印が死者の額に阿字を書いていったと言う。死者の頭数を数え続けた恐るべき人間行為の果てに隆興法印は何を見たか。末世、いわば黙示録的な認識を持ったであろう。大地震も同様。しかし千載和歌集には兵乱、群盗、天変地異の影はない。「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人はみな浮雲の思ひをなせり」と長明は記す。戦時日本の終末は近づいているが、新たなる日本についての映像がうまく見えてこない歴史というものがあるからこその不安の感、を堀田も持ったし、長明も持った。福原遷都について九条兼実の『玉葉』は有職故実家としての記述にとどまる。若き定家も「紅旗征戎吾事ニ非ズ」(こうきせいじゅうわがことにあらず=おれの知ったことか)と言い放った。西行も木曽義仲の戦死に対し冷やかし歌のようなものを残した。こういう「朝廷一家」のエゴイズムに、千載集や新古今集の美は寄りかかっているご都合主義、便宜主義であって、政治の責任などと全く無関係な体制が当時すでに完成している

 

(5)定家、兼実らは、表面公家的矜持を失わぬための平静さをとりつくろっていた。不変の伝統を守る公家の権威といった意識があっただろう。(村山修一による。)対して、鴨長明は、動くものの感が捉えられている。プラハの春がソビエトの戦車に踏みにじられたとき、人々は「浮雲の思ひ」にあった。歴史の大転換の只中に置かれた人々の心の持ち方は、古今東西を通じてそう変わるものではない。だからこそ古典は生きた人間のための古典として生きうる。長明は晩年鎌倉へ行き源実朝と会ったが、広義の意味で政治に関心があっただろう。が、鎌倉もまた崩落しつつある(頼朝亡きあとの混乱)。歴史の全的崩落の認識が長明にはあった彼の無常観の実体(前提)は、政治への関心と歴史の感覚だ(注1)。定家たち「朝廷一家」が「芸」の共同体の美学の抽象化に努めていたとき、長明は「私」に帰って散文を書いた。若き日の長明の和歌は内的衝迫がほとばしる。仲間と禁断の秘曲を演奏してしまいスキャンダルにもなる。彼は貴族社会では身分も低く、社会的にはみ出た人だった。

 

(6)若き長明は千載集に一首載って喜んだ。が師匠の俊恵法師の隠者風の流儀から離れ、宮廷風・定家風の「幽玄」体に移っていく。俊成女や宮内卿の歌は、長明に言わせれば、過去の書物の中からひねり出している歌であって、現実世界には何の関わりもない定家は300年前の言葉で詠めと言う。本歌取り文化だ。長明は十年以上努力して幽玄体の歌を身につけ、46歳でしかも地下人なのに和歌所寄人になる。彼は権威ある人を引っかけ欺くほどの才があった。同時にそれを「但(ただ)あはれ無益の事かな」と感じていた。今の歌は「習ひがたくして、よく心得つれば、詠みやすし」と言う。才のある長明にとって古語をマスターすればたやすくできてしまう。「無益だ」、こういう長明は当時の人びとにとって厭な存在だったろう。

 

(7)神官の地位を争って敗れたが、生活には困ったろう。当時は少ない地位をめぐり貴族、神官、僧たちが近親者を蹴落とす時代だった。神官がそういうことをしている間に、法然、親鸞、日蓮などの民間宗教が人々の心の襞に食い入った。親鸞は流罪になって「主上臣下、法にそむき義に違し、いかりをなしうらみをむすぶ」として「朝廷一家」に絶縁し、民衆を知った。長明は50歳で大原に隠栖する。大原にこもり理性を立ててみると思想が帰ってくる。だが長明は人間の住居と関わって記述する。大空襲のあとの大災厄についての堀田善衛の受け取り方は、悔しいが、ついに長明流のそれを出ない。人災・大災厄を招いた責任者を人民がリコールする政治的自由・思想的自由のない長い長い歴史とそれは並び立つ。こういう万貫の盤石を持ち上げて投げ捨てる者は、親鸞以外にはなかなかに見いだしがたい。

 

(8)長明は京都南郊の日野の山に組み立て式で移動式の妙な家を持った。日野法界寺から徒歩20分くらいの所か。(『徒然草』の兼好法師は「食、衣、住、医」を重視した。兼好は現実人で「金よりも鉄」と言い、「文武両道」など観念的なことを言わない。)長明は「医」は言わない。丈夫な人だったのだろう。

 

(9)日野の方丈の庵。西方極楽浄土に向かい、夏は死者の国から来るホトトギスを聞く。他方、念仏や読経もいい加減に済ます。琵琶を弾いて楽しむ。これを堀田善衛は「ザマミロといった調子が、たしかにある」と言う。かつては琵琶の秘曲を弾いてスキャンダルに巻き込まれた。今は自由に弾ける。ザマミロ。念仏専念の教えが隆盛していたが、長明はそれとは違った。(冨倉徳次郎によれば若き日の長明に子があった。)他の人の手をなやますのは罪業だ、何でも自分でやる、「夫(それ)、三界は只(ただ)心ひとつなり。」堀田善衛によれば、この孤老の生活は楽では無かったはず。狂人かと見間違う眼をしていただろう。彼は近辺の山を歩き回る。

 

(10)長明は「世」を捨てた。仏道もまた「世」であった。長明の「私」の背後にある異様な弁証法は、朝廷一家の閉鎖文化、現実遮断文化、伝統志向による文化の範囲を完全に突き抜けている。京の様子を聞くと身分の高い連中も次々と死んでいった。身の程知らずな欲望など持たず、あくせく走り回らず、ただ静かにあることが楽しみだ。芸術官僚どもの心の狭さと世情一般に対する無視能力にも呆れ果てた。三界はただ心一つだ。西行は出家しても貴族だ。対して長明は地下人で、もはや乞食だ。当時の貴族社会は、伝統憧憬による現実離脱があった。それが日本人に心的習性を与え、現代にまで累を及ぼしている。(中野孝次が解析している。)定家は現代の言葉を拒否して300年前の言葉で詠めと言った。1945年にも空襲・飢餓・死体ゴロゴロの中で「神州不滅」「皇国ナントヤラ」とばかばかしい話ばかりが印刷されていた。危機の時代にあって目を見開いて生者の現実を直視し未来の展望に思いをこらすべき時に、神話に頼り、みやびやかで光栄ある伝統のことを言い出すとは、犯罪に近かった。天皇制の存続の根源は、本歌取り思想、生者の現実を無視し、政治のもたらした災厄を人民は眼をパチクリさせられながら無理矢理に呑み下さされ、しかもなお伝統憧憬に吸い込まれたいという、我々の文化の根本にあるものに根付いている。この本歌取り文化は、俳諧、連歌、茶、能、花道、剣道、柔道という閉鎖的文化集団を作った。閉鎖的な権威主義は批評をも拒否し、新たな創造を拒否する。本歌取り文化としての「日本」は、恐るべき程に深く根強い。存続だけが自己目的と化したものを、どう処理するか。実朝は宮廷文化に降伏した。堀田善衛は、本歌取り宮廷美学の美は認める、しかし長明と共にかかる「世」を出て行く

 

 「三界は心一つだ、とは言ったが、その心が答えをしない。ただ、舌に頼んで、弥陀の方で求めないことと同じように、私自身もまた何の求めるところも願うところもない念仏を二度三度唱えただけ」(注2)と長明は書く。堀田善衛によれば長明には仏教も又どうでもよいものになってしまっている。彼の、ひらきなおった、ザマミロ、ふてくされ、は、実はそうではなく、捨てられたこの「世」に対する長明一流の、優しい挨拶だ。一方の極に長明がおり、他方の極に親鸞(みずから罰せられて「世」に出て衆生救済そのものと化した人)(注3)がいる。

 

(11)末尾に、五木寛之と堀田善衛の対談がついている。

 

注1:小林秀雄の鴨長明に対する評価は低い。が、堀田善衛の鴨長明に対する評価は、このように高い。

 

注2:『方丈記』のここの本文の解釈は学者によって分かれている。ここでは堀田善衛の解釈をざっと記した。私見では、長明の仏教思想は、『発心集』も合わせ読まなければわからない。但し研究者によれば、『発心集』には長明の友人で専修念仏の禅寂(法然の弟子)の手が入っているかも知れない。長明は大きく言って天台系の浄土門の流れの中にいて、専従念仏にも近い場所にいたのではなかろうか。

 

注3:親鸞という人が本当に「世」に出て衆生救済そのものと化したかどうかも、諸説ありそうだ。和讃が漢語が多く観念的だ、親鸞は書物のある常陸に暮らした、親鸞が接したのは民衆のリーダーたちだったのでは、などと言う人もある。

 

4 補足

・やはり堀田善衛は賢く、しかも国際的な知性のある人だ。日本文化を扱って、日本の中にだけいる人ではなく、外から眺める視点を持っている。この本は文庫本でお安く、ためになるので、お薦めです。

 

・定家たち「本歌取り文化」についての指摘は面白い。「本歌取り文化」は、先人の書物の中に歌の手本を探す。閉鎖的な共同体の中で行う。庶民・民衆に開かれない。時代社会の危機に対して無関心だ。これを否定したのが長明と親鸞だ。

 

 堀田善衛の書いていないところを考えてみよう。

 

「本歌取り文化」を全否定したのは正岡子規(古今集以来を否定)、根岸短歌会の伊藤左千夫(「牛飼ひが歌つくるとき世の中の新しき歌大いに起こる」と詠んだ)。昭和浪曼派は? 恐らく堀田善衛はそれを「本歌取り文化」として意識しているであろう。

 

 俳句は? 堀田善衛と同様の問題意識を桑原武夫が「第二芸術」で展開している。歳時記をまず買ってきてその中から適当な季語を探している。季節の情緒の中に全てを溶かし込んで、戦争責任を問うことなどは亡失している、という意味では、俳句も明々白々に「本歌取り文化」だ。子規は俳句で新しい挑戦をしようとしたが写生を押し出したため問題意識が弱い。彼は日清戦争で何を見、何を考えたか。虚子は花鳥諷詠に回帰した。昨今でも、自分たちの結社に理解できない新しい問題意識を読み込んだ途端「あんなものは俳句ではない」と言い捨てる様は、見ていて痛いほどだ。但し17音とハードルが低いので庶民の(市井の)文化になりやすい。新聞の地方面に載っている多種多様な俳句らしきものは(川柳もだが)案外面白い。あれでいいと言えばいいとも言える。但し問題意識は乏しい、いや、ほとんどない、いや、全く書き込めない、17音では。いたしかたない。

 

 書道や山水画は師匠の手本の通りに書く。(独自の世界を開いた篠田桃紅は「あれは書道ではない」と言われ排除された。)問題意識や生活実感を捨象しているので、明らかに「本歌取り文化」。かつ、お道具の値段が非常に高価で、昇段試験受験料や免許料も高額で、一部の金持ちの遊びに成り下がっている。

 

 お茶も同じ。売茶翁は市井で茶を売ったのですごいが、その後煎茶道という格式が高くお金のかかるものになってしまっているとすれば? 何でも創業者は時代状況と格闘して創意工夫したかも知れないが、何代目か後からは権威化・形骸化して「本歌取り文化」になるのかも。千利休を私はよく知らないが、代々の家元になると結局「本歌取り」文化になるのでは。お茶なんかペットボトルで呑めばいい。

 

 柔道は相手に応じて創意工夫してやる営みだ、と言えるだろうか? だが、閉鎖的な集団でやっていて(前田光世木村政彦は海外に行ったが)異種格闘技戦に出るのは邪道だとすれば、柔道も「本歌取り文化」ではある。海外の諸民族の独特な技が入ってきたとき、「あれは柔道ではない」とどこまで言いうるか。いや、ワザ以前に、そもそも社会問題・政治問題を捉える問題意識自体が柔道からは生まれない。剣道も同じ。

 

 相撲も合気道も同じ。相撲はテッポウとシコの反復稽古で大事なものが身につく、と言われる。横綱・曙は引退後映画スター(「テルマエ・ロマエ」にローマの格闘士として出演)になったが、現役でやってはいけない。(合気道のスティーブン・セガールは大映画スターだが、合気道の世界では許容されている、むしろ広告塔だ。相撲界と何が違うか?)昔有名な大関で読書好きの方がおられたが、親方から「関取は本なんか読まなくていい」と言われたとか。社会問題も何もないですな。・・衆院選で横綱が候補者の応援に駆けつける・・としたら・・? ・・「中立」とは何か?

 

 ここで、「型」の反復練習こそ大事だ、という反論が出そうだ。「型」の反復練習をしてこそ神髄が学べる、と。内田樹なら、何と言うであろうか? その神髄に達してこそ、千変万化する事象に対応できる、それを学ぶためにこそ型を反復練習している、合気道の型は深い、試合の勝ち負けではない、と言いそうだ。あの動きは、禊(みそぎ)の修行だと植芝盛平がどこかで言っていた。も同様。一種の形而上学だが、是か非か。時代が変わっても変わらないものがあることに安心立命を感じる、ということは、確かにある。では、道元が「先師古仏」の世界に仏家の「家常」を見たのはどうか? 

 

 堀田善衛は親鸞を特筆するが、浄土門の祖師以来の念仏を信じて山中にこもっていてはダメで、山を下りて「朝廷一家」「本歌取り文化」と決別し民衆と共にいたからエライ、と堀田善衛は考えているのだろう。が、

①民衆と共に本当にいたかどうかは議論の余地がある、

②山中にこもり市井にこもり(五木寛之が対談で言っている)そこに救いがあるということもあっていいのでは? という問いが残る。加古の教信浅原才一は庶民そのもの。長明は里山に閑居した。親鸞は・・・? 

吉本隆明の親鸞像(『最後の親鸞』)はどうか。宗門からも「自立」し、しかし気がつくと大衆消費文化(商業主義、資本主義)に絡め取られるとすれば? 西部邁(すすむ)はJAPAN.COM.を否定するにあたって「伝統」を持ち出す。浅薄な「伝統」ではない。教養の分厚い厚みが要る。すると、どうしても「読書人」になり、大衆から遊離することに・・さてさて・・? 

一遍上人は踊り念仏で民衆と共に踊った。今はダンスばやりだ。カマラ・ハリスもトランプも踊っていた。どう考えるか?

 

 堀田善衛は、鎌倉新仏教の祖師について、親鸞については称揚するが、法然、一遍、栄西、道元、日蓮については詳しい言及がない。法然はまだ貴族だというのだろうか。だが法然も流罪になり地方の遊女と接した。一遍については上述。栄西は鎌倉権力に接近したということか。その後禅宗(臨済宗だけかどうか知らない)は室町幕府にも接近、結局権威化していく。道元は福井の雪の中で貧乏しながら坐禅したが、民と共にはいなかった、ということか。煩悩(ぼんのう)多き衆生(しゅじょう)を上から目線で見下ろしている間は、所詮エリート主義と言われても仕方がない。一休、沢庵、良寛などは特別なのか。日蓮はどうか。日蓮は下層民の出身であることをむしろ強調している。日蓮も流罪になった。堀田善衛は法然と一遍と日蓮については言及してもよかったと私は思う。但し日蓮系の思想は、戦前~戦中は、国柱会(田中智学)や血盟団(井上日召)や「死のう団」や石原莞爾(陸軍)ら国家主義者を生んでもいるので、扱うのを避けたのだろうか。