James Setouchi
2024.10.31
埴谷雄高(はにや ゆたか)『死霊』全9章のうち7~9章 (まだ途中)
1 埴谷雄高(はにや ゆたか)(1909~1997)
父の仕事の関係で台湾に生まれる。13歳で東京の目白中学2年に編入。結核になる。日大予科に入りマルクス主義に影響され演劇活動に没頭。学校は出席不良で除籍。農民闘争社に入り、さらに日本共産党(当時非合法政党)に入り、地下活動を行う。昭和7年22歳の時検挙される。獄中でカントやドストエフスキーを読む。出所後平野謙・荒正人らと同人雑誌『構想』を出す。戦時中は反ナチの書やドストエフスキー研究の書を翻訳したりした。戦後、平野謙、荒正人らと『近代文学』創刊。『死霊』を書き始める。ドストエフスキー論などの文学論、政治評論、エッセイなど多数。第一次戦後派で、かつスターリニズム批判の先駆者と言われる。(各種年譜を参照した。)
2 『死霊』
戦後の作品で、未完の小説だが、今ある形では全部で9章からなる。そのうち7~9章。全12章の予定だったといわれる。私は、まだよくわかっていない。
(簡単なあらすじ)
7章。矢場誘拐犯が首猛夫ではないかと人々は疑う。首は、自分と矢場は三輪の異母兄弟だ、と発言し人々を驚愕させる。首は人々と離れ秘密のアジトで、何と、小説冒頭で矢場を誘い出したあの少女(実は首の異父妹)と会い、地下室へ。地下室には矢場がいた。黙狂だった矢場が初めて口を開く。
矢場は言う。最後の最後の審判では食われたものが食ったものを弾劾する、だが、食物連鎖の最上部には人間がいて、最基底部には植物性プランクトンがいる。イエスに食われた魚がイエスを弾劾する、イエス以来異端殺し・党派殺しも正当化された、イエスのせいで貧しい人と娼婦はそのままにとどめ置かれた、母親は自分の子は助けるが他人の子は助けない、その差の深さをイエスは知らない、イエスは天国へ入れる者と入れない者とを差別する者だ、生の悲哀の連鎖を支える大いなる存在の悲哀についてイエスは知らない、イエスよ自覚し震撼し過誤の人類史を正してくれ。食物連鎖で一方的に食われるだけの草木の代表であるチーチカ豆がシャカを弾劾する、シャカは生からの離脱しか言わず生の日常のいとなみの呵責ない吟味を果たさなかった、草木こそあらゆる生の万物の尺度だ、出家と在家を区別した結果「指導者」と「大衆」という区別を残すことになった、シャカは「解脱」の出発点に立ったがそれを「正覚」と思い込み他にも説いた結果「悟りの誤謬史」を惹き起こした。餓死した母親の胎内の胎児が父親を弾劾する、「子供づくり」こそ「原罪」だ、食物連鎖だけが問題ではない。すると一つの影が言う、生物殺しの「食」も子供づくりの「性」もともに「原罪」だ、精子は受精前に数億の兄弟を殺している、別のイエスや別のシャカが生まれた可能性もある、ある精神病者が言った、「私とは何か」を問わず「何が私か」を問え、そうすれば「巨大な俺自身」たる「存在」に直面することになる、俺は「夢の中の俺自身を捕獲し摑まえ離さぬ唯一の自己による自分自身の捕獲装置」を作った、排除と取りこみの転変を人は「進化」と呼ぶが俺自身の思索の自己展開にほかならぬ、俺が俺自身と向き合い語り合うと「絶対出現」即ち凄まじい夢想の最高飛躍に直面することになる、「内界からの自己創造」たる新しい自分がついに創りあげられることになる。・・だが、そのとき俺の息は止まった。精神科医はこれを「自らの身体から発電した電流による故意の感電死の自殺」と記した。
魚類の卵の総集合体が小さな単細胞を呼び出す。原始の単細胞は言う、俺は貪食細胞や生殖細胞と異なり「存在の苦悩」や「生の悲哀」とは無縁だ、俺は虚膜細胞とでも呼ぶべきものだ、少数派は暗い地底にとどまったが、多数派は大宇宙旅行を行い膨張宇宙となった、光こそ連鎖悪の諸源の発足点だ。
魚類の卵の総集合体は、光を生み出した無限の空間と永劫の時間を呼び出す。「違うぞ!」という声が聞こえる。
(ここで矢場は話を切る。首が眠りに落ち夢を見る。矢場は再び語る。)
声がする。《無出現の思索者》である俺が《満たされざる魂》をもって自己弾劾しながら踏み出し続けているから、この宇宙と存在のあらゆる事物が出現した、俺の思索ははじめに《のっぺらぼう宇宙》を創った、そこから始まり「真空宇宙」「収縮宇宙」「蒸発宇宙」「盲人宇宙」「無重力宇宙」(《負の負の宇宙》)を創った。「亡霊宇宙」はその一つだ。《負の宇宙》と並び《正の宇宙》も創った、すなわち「砂宇宙」「存在宇宙」(「重力宇宙」の一つの部門)を創った、「存在宇宙」では満たされず「亡霊宇宙」に期待したが亡者共は「自由」を使いこなせず「存在宇宙」に引きずられ弾劾ばかりしている、だがその俺に対し「虚無よりの創造の仕方のまったく新しい変革のかたち」を求めて弾劾する一冊の書物《虚の宇宙》がある。すべて出現したものは、或る何物かに向かって、必ず変革されねばならぬ。「亡霊宇宙」には「絶対沈黙者」があり、彼らを<xi>と名づけよう。これまでの全宇宙史は誤謬の宇宙史にほかならぬ。俺は<xi>と虚膜細胞とともに新しい宇宙創造へ向かおう。「満たされざる魂」は無限大の自由だけはついに捨て去り得ない。俺は虚とともにおり、虚はおれとともにいる。「虚」はお前たちの全てに渡りそれらと「とも」につねにいる。「時空」を俺は取り除く。「時空」の封印を開くべく、俺は黙っているのだ。」
矢場徹吾はこのように語った。首猛夫は白熱光に打たれ戦慄する。首は地上に出る。首の異父妹(小説冒頭で矢場を誘いに来た謎の少女)とその夫が迎える。幻想的な月光を首は浴びる。
8章。津田安寿子、黒川建吉、「神様」らが運河の近くの印刷工場の李奉洋を訪ねる。安寿子は黒川に三輪与志の思索について問いただす。黒川は虚体と寓話「無限大の道」を語る。彼らは尾木恒子を訪ねる。尾木恒子は、姉の尾木節子と三輪高志の過去を語る。三輪高志は、仲間だった「一角犀」と恋人の尾木節子とを接近させ心中に追い込んだのだ。三輪高志は、真の革命者は子供を持ってはならない、と考えていた。尾木恒子との会話の中で津田安寿子は、三輪与志や黒川の言うことがわかった、と感じた。空中に尾木節子(今は亡き、かつての三輪高志の恋人)の顔が出現する。印刷工場の李が「永劫の自己革命なしに、永劫に革命はない」というパンフレットを渡す。
9章。津田邸。安寿子の18歳の誕生会。首猛夫の口舌に安寿子は振り回されない。安寿子は三輪与志に直接質問をぶつける。三輪与志は「私」こそが自然の罠だと語る。そこに岸博士が割りこみ、透明なガラス玉が重力で落下する実験を示して、《虚体者》の三輪与志は《虚体》を自己創出できないし安寿子に伝えることもできない、と示す。
すると、津田老人の客である黒服の男が語り始める。重力を持たないものもある、夢がそうだ、黒服の男の傍らにいて沈黙している青服の男は、はじめのはじめの単細胞だ、彼は兄弟殺しも全生物殺しもいさぎよしとしないためそこにとどまっている。
津田安寿子も黒服の男に質問する。黒服の男は言う、青服の男は虚体以前の何かだ、彼は無限大自体でもある。津田安寿子は青服の男にも質問する。青服の男は語る、黒服は単細胞にすでになっているが、自分は「ない」ものだ、昨夜お友達と話したとき安寿子はすでに新しい入口へ踏み込んだ、だからこの青服がここに現われた、「虚在」と「ない」は異なっている、生の領域における「ある」と「ない」を超えきったところの「虚体」を青服は渇望している、一種激越な無限運動の動きをも青服は眺め続けている・・・
などと会話は続き、未完。
(登場人物)(ネタバレします!)
首猛夫:かつて非合法活動を行い、刑務所にいた。いまは出所し、饒舌を生かして多くの人を意のままに操ろうと策謀を繰り返す。悪魔論にも詳しい。非合法組織の一員。ヴェルホビンスキーやスタヴローギンのような破壊者? 各所に出没して奇妙な談論で相手を煙に巻く。実は三輪高志、与志と異父兄弟。矢場徹吾も同様。「黙狂」の矢場徹吾を精神病院から連れだしアジトに監禁(保護?)、矢場の長い長い話を聞く。異父妹とその夫が仲間。
矢場徹吾:旧制高校から突如として失踪。非合法活動に従事し地下で印刷を3年間していた。失語症になり精神病院にいたが、首に連れ去られる。首を相手に始めて口を開き思索を語る。
黒川建吉:旧制高校の図書館に起居していた読書家。今は奥まった狭い部屋(実は節子と「一角犀」が心中した部屋!)に住み他と交わらず読書と思索にふける。蝙蝠が友人。三輪与志の思索について津田安寿子に解説する。
三輪与志:本作の中心的な人物。寡黙で、「自己は自己である」と言い切れない何かを抱え、深刻なテーマについて思索している。夜散歩する癖がある。「俺が・・俺である」とは言えない、と「自同律の不快」を語り、「存在の革命」を志向している。許嫁が津田安寿子。
三輪高志:与志の兄。かつて首らと非合法活動(政治・社会の革命を志向)をしていた。仲間をスパイとして殺害、その後恋人の尾木節子を組織の一員「一角犀」と心中させていた。かつて組織では「単独派」と呼ばれた。真の革命者は子供を持たない、という思想を持っている。今は病臥している。
三輪の母:高志・与志の母親。大人しい。
三輪広志:三輪兄弟の父。もと政治家。故人。女性関係がだらしなかった。
三輪の祖母:高志・与志の祖母。高志を溺愛。
スパイ:非合法組織の一員。上部による腐敗を憎み、警察のスパイとなり、露見して処刑される。
「一角犀」:非合法組織の一員。スパイの発言に感化されるがスパイ処刑の実行犯となる。高志の恋人だった尾木節子と心中。
夢魔:5章で三輪高志に現われる不思議な存在。「意識=存在」について語る。
津田安寿子:三輪与志の婚約者。18歳。美しい女性。三輪与志を理解しようと努力。黒川建吉、印刷工場の李奉洋、尾木恒子らに会って話を聞く。8章で三輪や黒川の話が分かり始める。空中に尾木節子の幻を見る。9章で誕生会(18歳)をする。
津田老人:津田安寿子の祖父。
津田康造:津田安寿子の父親。もと警視総監。かつて首や高志を逮捕、訊問した。
津田夫人:津田康造の妻、安寿子の母。軽薄で、首猛夫の口車に乗せられ振り回される。9章では首を批判。
尾木恒子:三輪高志のかつての恋人・尾木節子の妹。運河の近くの迷宮のような下町に住み保母をしている。子供への愛のある人。津田安寿子に、「姉は高志のたくらみで、「一角犀」なる男との心中に追いやられた、しかし三輪与志は赤ん坊を抱く心を持っている」と語る。
尾木節子:三輪高志のかつての恋人。高志に子供を拒まれ、「一角犀」と心中した。8章で夜月光の中で津田安寿子の前に現われる。
岸博士:精神科医。患者の作業療法に取り組む。「神様」や矢場徹吾はその患者。常識的で健全な科学の立場を取る。9章の誕生会ではガラス球を用いて《虚体》論を否定。
神様:岸博士の患者。少女。「神様」と呼ばれている。
ねんね:神様の姉。下町で売春をしている。
鋳掛屋:黒川建吉の友人。朝鮮人。姓は李。
李奉洋:下町の印刷工場の朝鮮人。たった一人で彼独自の運動のパンフレットを作っている。鋳掛屋の李とは別人。
黒服の男:津田老人の知人。実は単細胞生物。3章にも登場していた。
青服の男:同上。沈黙している。実は単細胞以前の「ない」ものにして無限大。3章にも登場していた。
(コメント)
7章冒頭で、首と矢場が三輪の異母兄弟だと明かされる。
「黙狂」の矢場徹吾がついに口を開く。文庫本で7章は225ページあるが、そのほとんどが矢場の独白。首の口舌は相手を幻惑させるためだとして除外するにしても、これまで語られてきた、三輪高志の思索、黒川建吉が解説する三輪与志の思索、7章で示される矢場徹吾の思索は、どれも近いところを狙っているが、厳密にどう違うかは、きちんと整理してみないとわからない。壮大な妄想に過ぎないとも見えるし、触発されるものがあって面白いとも言える。
イエス論は、作者なりのキリスト教への異議申し立てなのかも知れないが、私には不満足だった。本作の矢場はキリスト教を人間だけの救済しか見ていないとするが、キリスト教では被造物も救済されるとの文言はある。また、矢場はイエスも精子と卵子の結合でできたとするが、キリスト教信仰の文脈では、それは間違いだ。神がみずから肉体を持って地上に降りてきて最も悲惨な死を死に、復活して天にあがった、というロジックに、救済(福音)があるが、この神によって救済される、という信仰(福音)の喜びの根本が、矢場の説明にはない。宗教信仰については、あまり理解せず外からけちをつけることはいくらでもできる。
シャカについては、菩薩行についての言及が全くない。初期仏教について作者は知見があってこれについて書いているのかもしれない。シャカは生からの離脱は言ったが生の日常の吟味ができていない、と矢場は言う。どう考えるか。仏教思想は膨大な内容を持つ。埴谷の手には負えていないのではないか。
「序」で予告されているマハーヴィラ(ヴァルダマーナ)についての明確な言及は、これまでのところ、無かった。埴谷雄高のキリスト教や仏教に対する理解は十分だとは思えないが、これらに対する埴谷なりの思索の展開については、付き合う意義はあるだろう。
宇宙創成論などは壮大な途方もない妄説とも言えるが、否応なく私たちの属性である「食物連鎖」と「性」について忌避し、そうではない世界を考えようとしているのはわかる。私も潔癖で感受性の強かった十代の頃は考えた。宮沢賢治『よだかの星』も他の生き物を殺して食べることへの嫌悪を描く。また宮沢賢治(だけでなく釈尊も法然も道元も日蓮たちも)は性的に潔癖で、独身で子を持たない。(親鸞は妻帯して子孫を持った。)矢場の言説も反生命主義・反出生主義の言説に近いが、作品では《虚》の世界をてこに全く新しい宇宙が創成できるかもしれない、と妄想している。そこでどうなるかはわからない。《虚》と言えば列子だが・・?
津田安寿子が尾木恒子との対話で、何かが分かった、と言い始めるが、何が分かったのか、私にはよく分からなかった。今は亡き尾木節子の顔が中空に浮かぶシーンは幻想的だ。亡霊・死霊というより、聖なる霊であって津田安寿子を見守るように見えたが、どうか。
9章で最終的な答案が開陳されるのかと思えば、黒服の男と青服の男とが、再び似た内容の議論を始め、黒川建吉も参入する。難しいので、読者にわかるように何度も同じ議論を繰り返してくれているのか、それともそれらは少ずつ違っていて、その違いこそが大事なのか、は今のところ読めていない。
作品は中途で終わり、未完だ。津田安寿子が首に惑わされず、黒川や尾木恒子や三輪与志や青服から直接話を聞こうとする姿勢は、爽やかで心地よい。これは安寿子が三輪与志に向かっていく恋愛小説でもある。だが三輪与志はまだおおむね黙っており、思索内容は依然不明のままだ。黒川によれば、三輪はかわいそうな人物だ、自分が自分であることに違和感を持ち、「自同律の不快」を語る。その最たる感覚と思想の持ち主で向こう側に突き抜けてしまっているから可哀想だ、と黒川は言うのだろうか。だが三輪与志の思索はまとまった形ではいまだ示されていない。未完の作品なので、この先に作者は展開するつもりだったのかもしれない。
存在の真の事実は、人間の知覚・認識の正しく及ぶところではないので、正解は語り得ない。だから黙すべきというのではない。形而上学を欲する人は多い。それが宗教であっても。複数の言説の思索の運動の中で救われる、ということもあるのかもしれない。知的ゲームであって、旧制高校クラスのエリート(または知的スノッブ)にはよいが、現代の一般の人には無理だ、と言えば言える。