James Setouchi
2024.10.19
有島武郎(ありしまたけお)『ドモ又の死』『酒狂』『骨』『親子』
1 有島武郎(ありしまたけお)(1878~1923)
東京生まれ。父は薩摩系の高級官僚、実業家。学習院に学び皇太子(のちの大正天皇)のご学友に選ばれる。新渡戸稲造をしたい札幌農学校に学ぶ。内村鑑三に学ぶ。札幌独立教会に所属。明治36年(1903年)アメリカ留学、大学院で経済学、歴史を専攻。内村にならい精神病院の看護夫などをした。エマソン、ホイットマン、ツルゲーネフ、イブセン、トルストイ、クロポトキンなどの著作を読む。ロンドン経由で帰国。札幌農学校(当時は東北帝大農科大学)の英語教師となる。日曜学校長になり、また社会主義研究会を開く。札幌独立教会を離れる。武者小路実篤、志賀直哉らとともに学習院系の『白樺』同人となり作品や評論を発表。実弟の有島生馬・里見弴(さとみとん)も『白樺』派。妻・安子が肺結核で死去。作家的地位が高まる。トルストイにならい大正11年北海道の有島農場の解放を宣言。大正12年、軽井沢で編集者でもある人妻波多野秋子と心中死。享年45。作品は『かんかん虫』『宣言』『惜しみなく愛は奪う』『カインの末裔(まつえい)』『生まれ出づる悩み』『或る女』『宣言一つ』『星座』『ドモ又の死』『骨』『親子』など。(集英社日本文学全集の巻末解説などを参考にした。)
*今回の四作は作者晩年のもの。私はほぼ初めて読んだ。
2 『ドモ又の死』大正11年10月発表、作者44歳
若い芸術家(画家)たちの物語。それなりに自負はあるが金にならない。一計を案じ、悪徳画商たちに絵を高く売りつけようとする。モデルでみんなのアイドルのとも子が選んだ一人を、天才なのに悲劇的に夭逝した、という芝居をするのだ。選ばれたその一人は、しかし死んだ兄の弟になりすまし、とも子と結婚し、かつ兄の画業を受け継ぐべく画家になる、という構想だ。とも子は誰を選ぶだろうか?・・・とも子が選んだのは、決して目立つ存在ではない、ドモ又だった。・・着想は面白い。芸術家も資本の論理に付き合わざるを得ないのか? という問いが問われている。ユーモア小説? いや、戯曲、喜劇である。
3 『酒狂』大正12年1月発表、作者44歳。
Bという男との関係を描く。Bはアルコール依存症(または中毒)だ。3年前には米国風の紳士然として現われたBだったが、この3年ですっかり生活が壊れた。ブラック・リストに載り、社会的地位を失い、妻子に逃げられ、酒浸りとなった。Bは自らのあり方を「欺瞞」だと言う。欺瞞だと自分で言う自分がまた欺瞞だと言う。人は何のために生まれた。神も仏もない。責任などというものも重すぎる。対して「私」はそこまで徹底して落ちてはいない。「私」は踏みとどまっている。それは健全性か不徹底さかわからない。「私」は自分自身に対して憐れみと嫌悪との情が一緒に澱んでいた。Bが酔っ払って酒や湯漬けをせがむので「私」は腹が立った。「私」は非常に不快な気分になったが、彼を追い返した後、淋しい気分になった。Bは山川(山川均か?)から「無政府主義者」だと言われた。Bには難しいことはわからない。
この飲んだくれのBのモデルは田所篤三郎だと言われている(後述)。有島は零落した田所にアンビバレントな気持ちを抱いていたのか。作中の「私」のBに対する気持ちはアンビバレントだ。
モデルの田所がどのような人物だったか、私は知らない。作中のBは飲んだくれでしかも強いなまりの方言で語るので、社会主義や無政府主義の書物を読む米国紳士風の人物とはかなりな落差がある。
実際に社会主義者または無政府主義者たちが、金持ちの有島の所に(悪く言えば)たかりに来ていた、と誰かが言っていた。本当だろうか。
4 『骨』大正12年4月発表、作者45歳
一読して、よくわからなかった。これは一体何の話なのか?
(あらすじ)
勃凸(ぼつとつ)という男がいる。学校が理解できず中学を中退。家でぶらぶらしていて親父に追い出された。勃凸は母親の骨をいつも身につけて持っている。勃凸は「おんつぁん」という不思議なおじさんと知り合い、仲良くなる。おんつぁんも社会でバリバリやれる人ではなくどこか不器用な人。彼らは不思議な心の交流を持っている。
これだけだと、現代の能力・成果至上主義の世界からはみ出した心優しく純な心の人々、あるいは不良の話、とも解釈できる。
だが、どうやら反体制的な仲間がいて彼らは官憲から狙われている。おっつぁんの貸本屋は刑事たちに急襲された。おんつぁんは全てを捨て九州に去る。「私」と勃凸が親しくなったのはそれからだ。彼は「ぼっちゃんとっつあん」で「勃凸」だ。対して語り手「私」は「とっつあんぼっちゃん」で「凸勃」と呼ばれる。
おんつぁんが九州で失敗し資産を全て失って東京に戻る。おんつぁんの工面で勃凸は自動車学校に入ることになった。勃凸は大森に下宿する。神楽坂でお別れ会をする。おんつぁんは「虚無の世界」「絶望的な眼の色」をしている。勃凸はいつも持っていた母親の骨をなくす。おんつぁんは泣く。
(コメント)
これは一体何の話なのか?
おんつぁんのモデルは田所篤三郎という人で社会主義者だと言う。(「てくてく牛込神楽坂」の長田幹彦の『文豪の素顔』「骨 有島武郎①」による。)
以下の資料にはこうある。
「札幌新川端の古本屋創建社の主人田所篤三郎は無政府主義に共鳴し、若者を集めて社会問題の放談会を開いていた。この放談会は十一年九月二十日に解散させられ、メンバーは逮捕された。田所は甲号特別要視察人に編入された。有島武郎の『酒狂』のモデルは田所だという。田所について北海道庁警察部は、内務省警保局に次のように報告している。
北海道札幌在住田所篤三郎ハ客年三月居住地に創建社ナル書籍店を開業シ主トシテ思想問題に関スル書籍ノ販売貸本ヲ為シタリシカ同店ニ出入スル者ヲ物色シテ会員二十名ヲ得更ニ社友五百名ヲ得タリ
a右田所ハ創建社及同志宅ニ於テ屢々同志ノ会合ヲ催シ共産主義ノ論議討究ヲ為シタリシカ同志ヲ工場職工タラシメ同盟罷業ヲ決行センコトヲ論議シタル形跡アリ
b田所ハ東京山川均一派ノ共産主義者ト脈絡アル形跡アリシカ山川ノ「前衛社」ノ主唱ニ係ル露西亜飢饉救済運動ニ参加シ鉄道局苗穂工場ヲ中心トシテ募集セル事実アリ
c田所ハ客年八月ヨリ九月ニ至リ「革命歌」其ノ他ノ不穏印刷物ヲ秘密出版シ同志ニ頒布セルヲ以テ之ヲ検挙セリ
(内務省警保局 最近ニ於ケル社会思想団体ノ状況 大12・1調)」
無政府主義、共産主義のいずれかこれではわからないが、官憲が踏み込んだことはわかる。
勃凸のモデルは十文字仁という人だと言う。作品の舞台は東京だが、モデルは札幌の人のようだ。(2007.09.10 Monday「有島武郎と貸本屋(札幌古書組合 広報記事3)」から。)
「藤公」「仏家の出なるI」という人物も出てくる。芸者たち(三味線も弾けない)も。
私はこれらのことがらについてよく知らない。
札幌の田所の貸本屋が警察に急襲されたのは大正11年9月22日。有島はこのことを踏まえて本作を書いたのかも知れない。社会主義または無政府主義、共産主義? の人々との交流が有島にあり、どこかで人間的には共感・同情しているように見えるが、社会思想的にはどうかは本作ではわからない。官憲の弾圧を恐れ何かを敢えて隠しているのかもしれない。本作のテキストだけでモデルの予備知識なしでは、おんつぁんがどこまで政治的人間か、本作がどこまで政治的著作か、は分かりにくく、解釈が分かれそうだ。
ラストでおんつぁんが泣くのは、全てを失い、かつ親しい勃凸との別れを悲しんで泣く、また、天涯孤独な勃凸の身の上を思って泣く、というところだろうか。
なお有島没(大正12年6月)後大正12年(1923年)9月1日に関東大震災があり、その混乱時に甘粕大尉が無政府主義者・大杉栄夫妻を虐殺したことは有名だ。当時は思想・信条・言論の自由が無く、弾圧されていたのだ。
5 『親子』大正12年5月発表、作者45歳
有島はこの年の6月に亡くなったので、前作『骨』と同様死の直前の作品と言っていい。波多野秋子との関係でその夫・波多野春房に糾弾されている時期だろう。
だが本作は明治40年留学から帰国直後の北海道の農場視察の出来事を題材にして書かれた(集英社日本文学全集の瀬沼茂樹の解説による。)
本作中の父親は貧乏士族から身を起こした強烈な人格で、官吏を経て実業界の監査役をしてきた。農場経営の利害打算に厳しい。(その割に筆算が不得手。)子はそれに反発しているが父から見ると子は未熟者だ。父は商人と取引するが、嘘のある商人たち(ここでは矢部、計算がうまい)に負けるわけにはいかない。人間社会には嘘は付きものだが、その中でもできるだけ嘘をしないようにするのが徳というものだ。今の世の中でまず嘘のないのは「その義にあらざれば一介も受けず、その義にあらざれば一介も与えず」(孟子)という生き方の他にはない。これが父の言い分だ。
子は今まで父の考え方に閉口してきた。子から見ると小作人の暮らしはよくなっておらず、農場経営は成功しているとは言い難い。着実正直な農場監督(商人ではない)の努力にも同情的だ。子から見れば地主も商人と同じだ。嘘については、子は己れ自身への厳しい反求自省がある。父にはこれらの視点は理解できない。
が、子は今日は父の話を聞き、「よし、やり抜くぞ」という決意を持つ。血のつながりからのみ来ると思われる「不思議な感激」、「淋しい感激」に涙が出る。父の老いた後ろ姿を見送りながら立ち上がる。夜は深まる。大きな北海道の自然の姿が遠く眼の前に広がっていた。
このラストシーンは印象的だが、従来解釈が分かれてきたそうだ。
子は、父親の必死の話を聞き、感ずる所あって、自分も父のように農場経営を頑張り抜こう、という決意を持ったのか。いや、「血のつながりからのみ来る」感激とあるので、それはない。血縁ではない人格と理想においては父と子は断絶している。では、父とは違うやり方でやり抜こう、と決意したのか。何を? 有島の農場解放(小作人たちに渡してしまう)の宣言は大正11年7月なので、「その義にあらざれば一介も受けず」と土地を手放すことを「やりぬく」決意だと解釈すべきか。波多野春房との関係で執筆当時(大正12年5月以前)苦しんでいたと仮定すれば、内容を十分書き切る心理的余裕がなかったのか。
ここで描かれる父と子の相克は、往時の有島の父と有島の相克を反映しているだろう。(有島の父親は大正5年没。)同時に、大正12年執筆当時の商人たち(その代表は実業家・波多野春房だろう)と有島の理想主義的生き方との相克が投影されてもいるだろう。(同上瀬沼茂樹にヒントを得た。)今は波多野春房ら商人たちの悪知恵に脅かされている、だがそれには負けるまい、とここで宣言した、とも解釈できる。(宣言しても、結果的には死に追い詰められてしまったのではあるが・・)
父親は商人と対決したが、小作の苦しみは見えなかった。
子は父と対立し小作の苦しみを何とかしたいと思った。だがそれは商人に与(くみ)することではなかった。地主も商人も幾分人の便利を計って利益を取っていることに変わりはない。そうではない第三の道を子は模索し「やりぬくぞ」と考えた。
そういうことだろうか?
なお、波多野秋子・春房については、『星座』の補足項目を御覧ください。
補足
漱石『それから』(明治42年)も父子の相克を描く。父親は代助に「お前は熱誠が足りない」と説諭するが、代助は、父親の言い分に矛盾を感じている。「誠は天の道なり」と言うが、「人の道にあらず」と付け加えたい気分だ。代助は三千代との「愛」を貫く挙に出る。
有島『親子』(大正12年)も父子の相克を描く。父親は子に「人間社会、特に商人に嘘はつきものだが、嘘の中でもできるだけ嘘をせんようにと心がけるのが徳というものだ」と説諭する。従来子は父に反発してきた。今は父の持つ何かに感銘を受けつつ、「よし、やり抜くぞ」と決意する。何を? 父の方向とは異なり、有島の考える理想の社会建設へと歩を進めようとしたのかもしれない。(あくまで素人の感想です。)