James Setouchi

2024.10.20

 

並木浩一・奥泉光『旧約聖書がわかる本 <対話>でひもとくその世界』

                         河出新書2022年9月

 

1        並木浩一1935年生まれ。国際基督教大学名誉教授。元・日本旧約学会会長。著書『並木浩一著作集』『ヨブ記注解』『ヘブライズムの人間感覚』など。

 

奥泉光1956年生まれ。近畿大学文芸学部教授。作家。作品に『ノヴァーリスの引用』『石の来歴』『神器』『東京自叙伝』『雪の階』など。並木浩一に国際基督教で学んだ。

    (河出新書のブック・カバーの著者紹介ほかから)

 

2『旧約聖書がわかる本 <対話>でひもとくその世界』

 並木・奥泉両氏の対話による旧約聖書入門書。辞書的で表面的な解説ではなく、深い聖書理解に基づく解説であり、現代日本社会をも照射する。平易な文体でありながら、ユダヤ教・旧約聖書の信仰の深い部分を理解させてくれ、読者に生き方を問い励ましてくれる、極めて有益な本だ。この本では、旧約聖書を、対話的なテクストである、とする。「対話の思想を人類の叡智として持ちきたった点にこそ、その意義は求められる」(20頁)など。「対話性」というのは、「完結できない世界をお互いに認めること」(20頁)である。対話の条件は、「他者を支配できないと覚悟すること」(21頁)である。

 

 内容からいくつか紹介しよう。

 

・「太古」と「過去」を区別する。「太古」とは現在の制度を宿命として受け入れるための「神話」だが、「過去」とは「現在を批判するために再構成された経験」(31~32頁)だ。旧約冒頭の「初めに」は「過去を再構成する作業の、はじまり」だ(33頁)。

 

・旧約聖書は、エジプトやメソポタミアの王権イデオロギーを批判する。「王は神に似せられてつくられた」のではなく、旧約では「神はただの人をつくったのだ、ただの人が神に似ているのだ」とする。(33頁)

 

・王国時代の神殿礼拝は祭りの日に行われたが、捕囚民は祭りとの関係を絶って、礼拝日を周期的に定めたのではないか。それが「安息日」になったのでは。それはバビロニア捕囚の地で始まったと推測できる。(66頁)安息日には支配し合い殺し合うことをやめ、被造物が相互に存在を認め合おうということだ。(98頁)

 

・コーランはムハンマド(最高の予言者)が神の言葉をそのまま取り次ぐから、対話性がない。旧約は、複雑で多面性があり、対話性がある。(71頁)

 

・エジプトや中国は勤務貴族で王に対する自立度が低い。イスラエルには世襲貴族がいて自分の荘園を持ち、王に対して自立した知識人だった。王権から自立した知識人の政治批判の伝統が旧約の独自性を生み出したと言える。(74頁)

 

・「ユダヤ」とはペルシアの属州の名。捕囚からの帰還民がかつての南ユダ王国の領域に住んで律法を受容したからユダヤ人と言う。(74頁)

 

・モーセ十戒の一つ「汝、我が顔の前に何物をも神とすべからず」は、「人間に神との人格的な応答関係に入ることを促している」。(80頁)また「被造物を神格化しないことによって、人間世界や世界の力から解放されるという面」もある。(84頁)

 

・ダビデのゴリアテに対する勝ち方は非英雄的だ。「結局、英雄礼賛を否定している。」(107頁)

 

・ノアの後、人間は他の動物を殺して食べてもよいことになったが、肉食の問題は、「人間がこの世界での犠牲をどう受け止めるかという問題を提起している」。「創造者は被造世界に対する人間の管理義務とセットにして、被造世界の支配を許可している。」(123頁)

 

・バベル後、神は人間の言葉を互いに通じないようにさせた。これは対話をせよということだ。「単一の言語」は、単一の思考、単一の思想で民を支配することにつながる。軍隊の言語は単一だった。(130頁)

 

・モーセ不在の時、アロンが金を集めて炉に投げ込んだら金の仔牛が出てきた。アロンが「つくった」のではなく自然にそう「なった」とアロンはモーゼの前で弁解し自己責任を回避しようとした。(139頁)

 

アモスは「金持ちによる農民たちの債務奴隷化」「金貸しの父と息子が借金を背負う農民の娘を性的な欲望の対象にする」(166頁)時代にいた。神ヤハウェは「個人の倫理感覚をも問う」(167頁)。アモスは「人間的な感覚の麻痺」を問題にする。「倫理感覚が麻痺すると、宗教的な感覚も倒錯を起こす。これは国家の滅亡に価する。」(167頁)「ヤハウェは社会正義をなおざりにして祭りに熱を入れることを退ける。(169頁)「祭りには捧げ物と陶酔が付きもの」で、「祭りが政治に結びつくと、祀るものの権威が増大する。」(170頁)大和朝廷やペルシアはそうだった。が、ユダヤ教では、人びとをまとめる力を発揮したのは、祭りではなく、律法だった。ユダヤ教の「礼拝は、本質を言えば、祭祀を必要としない。」(171頁)

 

・南ユダ王国をバビロニアが圧迫したとき、ハナンヤは安易にバビロニア背くことを説いたが、エレミヤは冷徹な国政政治を見据えてハナンヤを批判した。彼はリアリストだ。(173頁)

 

第二イザヤで「苦難の僕」として描かれる人物は、起源を辿れば、捕囚時代の終わりにバビロニアがペルシアによって滅ぼされることを見通して、人々を力づけた指導者だったのでは。かの預言者はこういう死に方をした、と後代に脚色されたのでは。(183頁)

 

・「神の決定は宿命のように貫徹するわけではない。いつでも説得を受けて考え直すことがありうる存在として神はある。」(208頁)

 

アブラハムがイサクを燔祭に捧げる話は、ユダヤ教では、絶体絶命の状況においても神は絶対に救い出す、という読み方がなされる。(218頁)

 

・土は大地母神という神格を帯びているので、旧約では土ではなく「塵」から人をつくった、とする。(231頁)

 

・蛇の女への誘惑は想像力に働きかけるものだった。女は想像力を働かせた。これは人類史における想像力の働きの始まりを描いているシーンだ。木の実を食べる前に、人間は自主的に判断をする存在になっていた。(245頁)

 

・カインは嫉妬してアベルを殺害する。その際カインは言葉をかけずいきなり殺す。「暴力は言葉を排除する。」「日本軍隊を想像すれば分かります。」(259頁)

 

・ヨブはユダヤ教団の中にはいるが主流に対して距離を取ったアウトサイダーだったろう。職業は旅をしながら商業をする人だったのでは。(296~297頁)

 

義人ヨブはひたすら平伏して神に許して貰った、と読む人もあるが、そうではなく、「塵灰としての主体性を回復して終わっている」のではないか。(423頁)

 

・ヨブの友人たちは応報思想による(335頁)。彼らの神義論は、「神を弁明する神義論」だ。神はこれを退ける。「ヨブの神義論は神を問う、神の正しさを問う神義論」だ。(424頁)ヨブの問いに神は答えない。だが、神が少しでも答えたら、「人間に起こったことに神はすべて責任を取らなくてはいけなくなる。そうしたら人間の主体性はなくなる。」(428頁)「形の上では神はヨブの問いを無視している。しかしそのことによって人間の自由を守った。」(429頁)「苦難という問題についての合理的な説明はできないということでもある。」(429頁)

 

3 コメント

 面白くて一気に読んだ。是非御すすめしたい。旧約聖書について全く知らない人は、倫理や世界史の用語集、資料集などを片手に読むといいかもしれない。ヨブ記については、並木氏の読みは厳しい。それは直ちに人間の主体的な自由を要求する読み方だ。私たち自身のあり方が厳しく問われる読み方だ。なお、東洋(儒学)にも体制を批判し自由な主体を主張する思想はある。                                     

                                 R5.1.10

 

(十代で読める哲学・倫理学、諸思想)プラトン『饗宴(シンポジオン)』、並木・奥泉『旧約聖書が分かる本』、マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』、『新約聖書』、デカルト『方法序説』、カント『永遠平和のために』、ショーペンハウエル『読書について』、ラッセル『幸福論』、サルトル『実存主義はヒューマニズムである』、ヤスパース『哲学入門』、サンデル『これからの「正義」の話をしよう』、三木清『人生論ノート』、和辻哲郎『人間の学としての倫理学』、古在由重『思想とは何か』、今道友信『愛について』、藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』、内田樹『寝ながら学べる構造主義』、千葉雅也『現代思想入門』、岩田靖夫『いま哲学とは何か』、加藤尚武『戦争倫理学』、森岡正博『生命観を問いなおす』、岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』などなど。なお、哲学・倫理学は西洋だけではなく東洋にもある。日本にもある。仏典や儒学等のテキストを上に加えたい。『スッタ・ニパータ』、『大パリニッバーナ経』、『正しい白蓮の教え(妙法蓮華経)』、『仏説阿弥陀経』、懐奘『正法眼蔵随聞記』、唯円『歎異抄』、『孟子』、伊藤仁斎『童子問』、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』、相良亨『誠実と日本人』、菅野覚明『武士道の逆襲』などはいかがですか。