James Setouchi
2024.10.20
佐藤優『私のマルクス』文春文庫
1 『私のマルクス』
2006年8月から2007年9月にかけて『文藝春秋』に掲載。2007年12月単行本。2010年11月文庫。自伝を語りつつ、マルクス主義、キリスト教などとの関わりを語る。彼自身はキリスト教徒(母親の関係でプロテスタント)。ここでは浦和高校・同志社大学時代の、高度な本を読み深く思索し対話する姿に注目する。
佐藤優は1960(昭和35)年生まれ。1975(昭和50)年埼玉県立浦和高校に入学。そこは埼玉県屈指の名門・進学校。高校1年の夏にハンガリ-・ソ連などを一人旅(8ペほか)。高校では生徒会に出入りし文芸部に入部した。また新聞部員とも仲良くなった。その周囲には、新左翼系の雑誌『前進』『解放』『世界革命』『解放』などがあった(42ペ)(注1)。文芸部の人の影響で純文学、SF小説、歴史書、哲学書などを乱読した(83ペ)。高校2年の倫理社会の授業は面白かった。先生はカトリックのクリスチャンだった。東大文学部で金子武蔵に倫理学を学んだ方でもあった。(85~86ペ)母親や伯父が沖縄出身だったので沖縄問題にも関心を持った(90~91ペ)。社会主義協会派(注2)の勉強会に出かけ『資本論』読解の手ほどきを受けた(95ペ)。高3の倫理社会の授業で神学者ラインホルド・ニーバー(注3)の『光の子と闇の子』に出会い引きつけられた(103ペ)。神の問題と沖縄の問題を考えるため、琉球大学、東京神学大学、同志社大神学部などを検討した結果、同志社大神学部に進学することにした(108ペ)。
同志社大神学部は、会衆派というプロテスタントの会派に属する(124ペ)が、学生たちは「同志社ブント」と呼ばれ、全国では下火の筈の学園紛争の雰囲気が残っていた(123ペ)。新歓コンパでマルクスやルカーチ(注4)をめぐりいきなり院生とやりあう(126ペ)。大学の緒方純雄教授の組織神学の授業には影響を受けた(129ペ)。1979(昭和54)年12月、日本基督教会で洗礼を受ける(169ペ)。大学2年から神学部の学生運動に積極的に関与(175ペ)。宇野弘蔵(注5)『経済原論』の勉強会などもした(190ペ)。バルト神学(注6)から、チェコのフロマートカ(注7)の神学に関心が移っていった(207ペ)。廣松渉(注8)も読んだが違和感を感じた(223ペ)。札幌大学から来た渡邉雅司先生との対話(ドストエフスキーやピーサレフ(注9)、フロマートカをめぐる)も面白いが、略(238~268ペ)。大学3年でフロマートカ『人間への形成途上における福音』『昨日と明日の間の神学』に出会う(279ペ)。大学4年、フロマートカで卒論を書く(308ペ以下)。また、大学院に合格(324ペ)。1983(昭和58)年から院生となる。院には2年間在籍(357ペ)。1984(昭和59)年秋、外務省専門職員採用試験に合格(352ペ)。修士論文もフロマートカで書いた(354ペ)。翌年春、京都の下宿を引き払い、外交官としての次のステップに進んでいく(356ぺ)。
注1 当時は学生運動・左翼運動は全国的には衰退していた。浦和高校のケースは珍しいと言える。新左翼とは、1960年代以降既成のマルクス主義・社会主義運動を批判して新しい左翼運動の創造をめざす運動。(コトバンク他)
注2 社会主義協会派:当時の社会党の派閥の一つ。その中に向坂(さきさか)派と太田派があった。新左翼の解放派とは別。(95~96ペ)
注3 ニーバー(1892~1971):米国の神学者。
注4 ルカーチ(1885~1971):ハンガリーの哲学者・文明史家。ハンガリー動乱ではソ連と対立。(コトバンク他)
注5 宇野弘蔵(1897~1977):経済学者。労働力商品化を軸として資本主義の内在的論理を掴もうとする。(190ペ)
注6 バルト:カール・バルト(1886~1968)。スイスの神学者。反ナチ闘争を行った。(コトバンク)
注7 フロマートカ(1889~1969):チェコの神学者。
注8 廣松渉(ひろまつわたる)(1933~1994):東大教授。『存在と意味』など。当時ブームだった。
注9 ピーサレフ(1840~1868):ロシアの批評家。
2 佐藤優(さとう まさる)1960~ 外交官、著述業。
3 コメント:1970年代当時日本は大衆消費社会化していたが、佐藤氏のように本を読み思索し対話する高校生もいた。R5.6.8