2024.10.14

James Setouchi

 

 鎌田茂雄『こころの達人』NHK出版1993年

 

1 著者 鎌田茂雄

 1927年生まれ。陸軍幼年学校、士官学校を経て、駒澤大学仏教学部、東京大学博士課程修了。東大東文研、愛知学院大教授。東大名誉教授。文学博士。著書『中国仏教史』『朝鮮仏教史』『仏教聖地・五台山』『沢庵を語る』『大黄河・仏陀の道』『華厳経・維摩経』『韓国古寺巡礼』『禅とはなにか』『般若心経講話』『五輪書』などなど。(本の著者紹介から)

 

2 『こころの達人』:1993年出版。

 入門書。66歳の著者が一般向けにわかりやすく書いた書。一遍、宮本武蔵、白隠、世阿弥、霊仙、沢庵、千利休、山岡鉄舟を取り上げている。

 

 鎌田茂雄氏は碩学(せきがく)であり、東大の大先生である。かつ60才になっても一修行者として合気道の練習に励んでおられる、非常に謙虚な方である(と私は思う)。ゆえに私ごときが軽々にコメントできない。が今回は頑張ってやってみる。途中で素朴な疑問を入れる。

 

 上記8人を取り上げ紹介する本だが、全体として、禅宗(臨済禅と曹洞禅)にひきつけて説明している。一遍上人のみ他力本願だが、「捨て果てて」孤絶の生涯を生きた、という点で、宮本武蔵以下の人物と共通点が多い、と鎌田氏は考えているようだ。但し一遍は多くの人に慕われた、と鎌田氏は記す。

 

→当初、偉人を並べて、自分の視角(ここでは禅や孤絶)で共通点がある、と記されても、偉人ではない自分には関係ないのではないか、とまず疑問を持った。但し読み進めると、偉人ではない自分にも共通する点がいくつかある、それは人間に普遍的な何かかもしれない、とは考えるようになった。

 

 私見だが、偉人と同じような人生を生きていると思えることが励みになる、とするのは、実は禅宗の特徴かも知れない。釈尊、達磨大師、六祖慧能、・・・臨済義元・・・永平道元・・などスーパーエリートの幻が眼前に現われる。自分もまた同様に(「殺仏殺祖」と言いながら)彼らの生き様を継承して坐禅をしている・・と。どこかでエリート主義がついてまわるような気がするのだが、どうか。他の宗派にも「先人にまねぶ」点では同様のところはあろうが、例えば他力浄土門では、万人が煩悩具足であり、阿弥陀如来の下に一列平等であるから、先輩もまた凡人に過ぎない。エリート意識の違いかしら。

 

 私の知人で「ウチは臨済宗で、臨済宗は上級武士に多いのだ」と威張っている人がいたが、そんなことで威張っても仕方がない。そんなことを言うのなら、浄土真宗の親鸞は貴族の藤原氏の子孫だし、曹洞宗の道元に至っては摂関家の子孫だ。当時は武士などは貴族に使われる下っ端の用心棒のような存在だ。でもそんなことはどうでもいいのであって、仏の目には公家も武家も庶民もないはず。お釈迦様が泣いているよ・・

 

 さて、本書でいくつか紹介しておきたいところだけ記そう。

 

(1)  第5章 霊仙

 この霊仙という僧について、私は知らなかった。本書に従い簡単に紹介すると、興福寺で法相宗・唯識を学んだが、唐に留学、語学が堪能で、長安で『大乗本生心地観経』を梵語から漢語に翻訳する、という国家プロジェクトの中心となって活躍した。高徳の僧の官名「内供奉十禅師」の一人に任ぜられ、大唐帝国のために薬師道場で『薬師経』を読み密教の修法を行った。が、排仏論が興り、保護してくれた憲宗皇帝は暗殺され、零仙は長安を去ることに。北方の五台山に行き、そこで長く暮らした。評判が日本に伝わり天皇から褒美を賜るが、やがて霊仙は毒殺された。唐に渡って二十年以上が経っていた。

 

→鎌田氏は大陸仏教の専門家なので、本章は鎌田氏の専門が生かされている章と言える。霊仙については、鎌田氏が五台山に調査に行くなどしたが、墓所は不明のままだそうだ。

 

 かつて少年時代に井上靖『天平の甍』を読んだとき、留学僧が唐に行ってみると、何十年も写経のみに携わる学僧が何人もいる、というくだりに、「努力して世俗的に報われる人もあればそうでない人もあるのだな」と感じた覚えがある。今は少し感じ方が違う。努力して世俗的に報われようが報われまいがどちらでもいいのである。写経や翻訳を何十年もかけて行うのは、仏典を伝えるという、それ自体偉大な仕事である。また、能力があって向いている人にしかできない。その人はその人なりに生かされて生きたのだからそれでいい。今はそう感じる。鎌田氏は明言していないがそう言いたかったのではないか。

 

 但し、唐王朝の人びとが、排仏論により皇帝を毒殺したり、反対派を排除したり、あるいは霊仙を毒殺したりするのは、これはやってはいけないことだ。当時の排仏が明治の廃仏毀釈とどう同じか違うかは知らない。大唐帝国は諸民族が行き交い、仏教、キリスト教、ソロアスター教なども共存できる、インタナショナルな雰囲気のいい社会かと思えば、ことはそう簡単ではなかったようだ。

 

(2)  第6章 沢庵

 沢庵は織豊政権期から江戸初期の臨済宗の僧。鎌田氏によれば、「名誉や出世にこだわらず、金にも物にも執着せぬ生き方をした人であり、現代の日本人の生き方の対極にある。その覚悟から学ぶべきだ。沢庵は名誉を求めず権力に媚びなかった。大徳寺の住持になるが幕府を批判して出羽(秋田)に流された(紫衣事件)。当然、平気だった。質素な生活を貫いた。三代将軍家光に気に入られたが、最後は「自分には弟子はいない。紫衣や画像を掲げるな。禅師号を受けるな。位牌を祀るな。火葬にせず、人に分からぬように野外に埋めよ。石塔を建てるな。年忌を営むな」と言い残した。「虚飾を排し、真実の道を求め続けて生きた」人だ。

 

→沢庵という人は、宮本武蔵の小説やドラマに出てくる。伝説化されている人だが、実像はどうだったのか。鎌田氏は、沢庵を「権力に屈しない強さと、名声や金銭に対して無心無欲に真の自由を生き抜く」人だった、と描く。大変結構だ。今ならミニマリストか。但し信仰を有するミニマリスト。確かに、衣食住にコストをかければその分「心」が消耗する。それらのほとんどは、要らないものだ。沢庵の言うとおりだ。ただし、托鉢したということは、他の人が生産業に携わってくれているから、その中から施して貰えるわけだ。ここが乞食(こつじき)の托鉢、無所有の生き方の、ちょっと考えさせるところだ。これへの考察は、鎌田氏は書いておられない。

 

(3)  第8章 山岡鉄舟

 山岡鉄舟は、勝海舟よりも先に西郷隆盛の所に乗り込んで江戸無血開城を決めてきた傑物だ。剣術の修行を行い、かつ禅の修行を行った。東京の谷中(やなか)の全生庵を作り、越中の国泰寺を修復し、白隠に国師号を追賜するプロジェクトを推進し、多くの禅者と交わるなど、仏教を中興した恩人だ。死に方も立派だった。

 

→鎌田氏は第6章で、「沢庵は自分に禅師号を授けるな」と言った、虚飾を排し死後の名声も排した、立派だった、と言っているが、鉄舟は白隠に国師号を贈ってしまった。白隠も沢庵も同じだと思うのだが、国師号を贈るなど、白隠や沢庵が聞いたら「要らぬ」と言いそうだ。鎌田氏はそこはどう考えているのだろうか。山岡鉄舟は明治の廃仏毀釈に対抗して仏教復興を図るために、あえてこの行為に出たのか。

 

 なお谷中の全生庵には一度だけ行った。紀野一義氏(日蓮系)が道元のテキストの講義をしておられた。参加者が多数おられて、盛況だった。

 

 鎌田氏は小倉鉄樹の名を出している。小倉は山岡の弟子を自認。(小倉の描く山岡像がどこまで正確か、知らない。)小倉は山岡に学び、さらに神道禊教(みそぎきょう)の呼吸法を取り入れた道場を開いた。そこで学んだ学生が東大ボート部に思想を持ち込んだ。ボート競技はもともとテムズ川でオックスフォードとケンブリッジが伝統の一戦をする、それを日本に移入して、隅田川で東大と一橋大が対決する形にした、本来イギリスのスポーツなのだが、ここに武士道・禅宗・神道をミックスしたような思想が合体し、日本独自の体育会系(東大は「運動会」と言う)の精神主義が誕生した。これは形を変えて、旧制高校、旧制中学、戦後の大学や高校の、ボート部、応援団、空手部などなどに継承されている。小倉鉄樹を継承する一九会の禊(みそぎ)修行の「垂示」は次の通り。

 

 「吾が是の美曾岐(みそぎ)は生死脱得の修行なれば、勇猛心を奮起し、

喪身失命を避けず、一声一声正(まさ)に吐血の思をなして喝破すベし

苟(いやしく)も左顧右眄(さこうべん)徒(いたずら)に嬌音(きょうおん)を弄(ろう)して

他の清衆の修行を妨ぐること勿(な)かれ  至嘱々々

             

 おや、ウチの応援団や空手部や漕艇部も同様の文言を使っているぞ、とお感じになる方も多いのではないか。

 

(4)  その他 一言ずつ。

 一遍上人は「捨て聖」だ。でも妻も子も捨てるのはどうかな。(一遍上人がどういう事情で妻子を捨てたのか、おそらく分かっていないのではないか? 親鸞聖人は妻子と暮らした。)踊り念仏は当時救いにはなったろう。(鎌田氏は、音声を口から出す、身体で踊る、これは頭で観念だけで考えるのではなく、身体を使うことだ、と注目する。鎌田氏自身身体を用いた合気道の修業を続けている。)今ならストリート・ダンス(BTS)やよさこいソーランですか。でも社会システムの不正義(搾取システム)を放置して踊ってばかりいるのはどうかな。阿波の殿様蜂須賀侯が今に残せし阿波踊りは、結局封建システムを温存するために機能した。リオのカーニバルはどうかな。幕末の「ええじゃないか」は社会秩序を転覆するエネルギーを持ったが、新しい社会秩序を構築する展望を持っていなかった。一遍上人は踊りながら哀しい目をしておられる、と誰かが(多分梅原猛)言っておられた。そうかもしれない・・・

 (参考:『一遍上人語録』。今村翔吾『海を破る者』もどうぞ。)

 

 宮本武蔵は孤絶・独行の人だった、と鎌田氏は描く。私は人殺しは嫌いだ。坂口安吾『青春論』では、若き武蔵の創意工夫を称揚する。なるほどと思ったが、所詮人殺しなので、やっぱりいやだ。それに較べれば、一遍上人のグループ(時宗)は、戦争で死んだ人を敵味方の区別なく供養したという。天童荒太『青嵐の旅人』は幕末に敵味方の区別なく負傷者に衣料行為を行った人物を主人公とする。その志や、善し。武蔵は所詮、人殺しだ。つまらぬことに人生を賭けたものだ。  (参考:坂口安吾『青春論』、菅井靖雄『一冊で読む剣豪宮本武蔵』、宮本武蔵『五輪書』)

 

 白隠は、坐禅だけではだめで、「内観」を行ったという。内観を白隠に教えたのは、白幽仙人という隠者だ。これらは史実なのだろうか? 知らない。呼吸法やイメージ法によって健康になる、ということはありうるだろう。

 なお、「健康」という言葉は明治以降の翻訳語で、明治以前は「養生」と言った。「健康」の定義はWHOも苦労しているが、明治帝国以降では「帝国のための」「高度成長のための」「医療費削減のための」健康増進、という文脈で使われることが多い。「養生」はそうではない。「養生」という概念を提出することで、西洋近代の身心二元論に基づく「健康」概念や、明治帝国主義以来の政治的文脈で利用された「健康」概念を、相対化することができうr。

 

 世阿弥は、曹洞禅に近い考えを持っていた、という方向で鎌田氏は描く。私はよく知らないのだが、世阿弥の芸についての考え方は、あくまでも芸についてのものであって、人生(生き方)そのものにストレートに当てはめてはいけないのではないか。晩年佐渡に流されたが、そこでは静かに暮らした、とある。ここはいい。「げにや罪なくて、配所の月を見る事は、古人の望みなるものを、・・」か。なるほど。

 

 千利休は、禅宗の茶室の影響から出発して、それを越えていった、と鎌田氏は書く。でも一遍や沢庵のように振り切ってはいない。血族に遺産を残そうとした。煩悩の多い一般人と同じだ。さて、私は思うのだが、お茶はペットボトルで飲んだらいい、と現代社会に千利休がいたら言うのでは? 高価な茶道具に和服、細かい礼儀作法、自称セレブなクラスのマダムの皆様が、膝を折りたたんで「お茶」をなさっても構いませんが、それに囚われることもない、と利休精神を応用していけばなるのでは? 膝が痛いのですから、せめてイスくらい使われてはいかがですか? 

 時に、煎茶道の売茶翁(ばいさおう)はどうですか? 布施を貰って高位の僧として茶を喫して上から目線で法話を説くのではなく、市中で茶を売ってそこで法話をした、と言われています。論点は①茶を売って自活した(人に生計を頼らなかった、今ならキッチンカーあるいは喫茶店経営? そこで売り上げ至上主義に堕落しない節度というか見極めが要りそうですね。)②宗門の権威に守られた立場ではなく市中で町の人と同じ立場にあってそこから仏教の問答をした(ソクラテスのようですね)。キッチンカーでドリンクを売りながら金儲け主義に陥らず仏教の問答をした、というところでしょうか? 黄檗宗は今どう捉えておられるのでしょうか・・?

 (参考:森下典子『日日是好日』、岡倉天心『茶の本』、栄西『喫茶養生記』)

 

 

読んでみよう→菅野覚明『武士道の逆襲』『本当の武士道とは何か』、本郷和人『なぜ武士は生まれたのか』、新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『代表的日本人』、小池嘉明『葉隠』、相良亨『武士道』『武士の思想』、『今昔物語集』『平家物語』『五輪書』『葉隠』『甲陽軍鑑』『三河物語』『軍人勅諭』『国体の本義』『終戦の詔勅』、坂口安吾『堕落論』、植芝盛平『武産合気』、内田樹『修行論』   

 

*鎌田氏のこの本は1993年に出ている。日本がまだ金満大国の名残をとどめている頃だ。その時には、金満ニッポンを批判し「こころの豊かさ」を説くのは、カウンターとしての意義もあったろう。では、金満大国ではなくやや貧しくなってきた(世界の最貧国ではないが、今の社会で実際に困っている人が結構いる)状況において、どのようなアプローチがよいだろうか?

 

・空也(くうや)・・市の聖(いちのひじり)。市井への隠遁。

・鴨長明(平安末)『方丈記』『発心集』・・平安末の大混乱を経験。出家ののち、大原(京都の北)、日野(京都の南)へと隠棲。

・親鸞(鎌倉はじめ)・・既成仏教に弾圧され流罪となり「非僧非俗」、晩年京都に戻り市井(しせい)への隠遁。但し『教行信証』をいつ書いたか?

・兼好法師(鎌倉末)・・『徒然草』。鎌倉時代は平安末に較べれば安定した社会だったろう。鎌倉時代が終わり南北朝時代に突入するわけだが、その争乱についての言及が『徒然草』にはない。

・中野孝次『清貧の思想』(1992=バブルの頃):バブルの頃にあえて清貧の知恵を言った。

・五木寛之『下山の思想』(2011=平成23):高度成長・経済大国は終わった。では・・・

 

 

(補足)少し脱線するが、少年向けの柔道の教本に、著者が「自分は日本一、世界一になりたいと思って柔道の練習に励んできた」と書いておられた。彼は実際世界チャンピオンになった。「若者もぜひこうした目標思を持って励んでもらいたい。」とも。

 

 ・・そこで私は思うのだが、どうして柔道で(剣道でもサッカーでも何でもいいのですが)毎日何時間もかけて日本一や世界一にならなきゃならないのか? そこがそもそもわからない。「目標を持って」と言うが、その目標なるものがどうして立ち現れてくるのか? が分からないのだ。若くてエネルギーが余って、喧嘩をしたり弱い者いじめをしたり女の子をひどい目に遭わせたりするくらいなら、スポーツでもやってください、と言うのならわかる。「精力善用」と嘉納治五郎先生は言われた。が、そうでなければ・・?

 

 同じく毎日何時間もかけるのなら、私なら勉強した方がいいし、世界文学や日本文学を読んだ方がいい。聖書もお経も論語もまだまだ学びようが不十分だ。もともっと勉強しなければ・・・柔道(や剣道やサッカーなどなど)に費やす時間がもったいないのである。

 

 それでも自分は武道やスポーツの世界チャンピオンになりたい! と思い込んでしまうのは、どこかでスイッチが入ったのだろう。先祖伝来の恨み(悲願)かもしれないし、生育歴において多少成功体験があって賞賛され、それでやっていくとできてしまうのでますます加速してしまった、マスコミも取り上げる・・・ということかしら。つまり世の風潮に左右されているのだ。今なら各種大会やマスコミのPR。

 

 もちろん人は人なので、醤油のイッキ飲みの世界チャンピオンになりたい人がいてもいい・・・かどうかはちょとわからないね。TVゲームの世界チャンピオンならどうですか。若い子はOKと言うかも知れないが年配の人は危惧しするだろう。では、柔道やスポーツの世界チャンピオンはどうか? これを肯定する人が多いのは、やはり、前述の通り、学校やマスコミでそれを賞賛する仕組みがあるからだろう。(先祖伝来謎の武術の継承者の家柄で、世に認められてこなかった、といった事情があればまた格別だろうが。)

 

 私の場合勉強は視野が広がる、いろんなことがわかる、できるようになる、さらに奥深い世界が開けてくるのが楽しく、面白い。日本文学や世界文学も、作者が深くものを考えている人であれば、読み込むに価する。漱石やドストエフスキーはその代表例。聖書や仏典や儒学の聖典は言うまでもない。人間のありかた、あるべきあり方を探ることができる。古来多くの人が人間いかに生きるべきかを模索してこれらを読んできた。手近なところでは、渋沢栄一を見よ。大塩平八郎(中斎)を見よ。伊藤仁斎、中江藤樹を見よ。いかにして相手を投げ押さえつけるか、など、(警察官や自衛隊の人ならいるだろうが、)一般の人には要らないと言えば要らないのである。ドリブルの仕方もスライダーの打ち方も試合に限って役に立つので、その狭い競技会場を出れば役に立たない。そんな練習をしている暇があれば、聖書や論語や仏典の一節でも深めたい(その時間は全く惜しくない、むしろ人生に有益である)と思うのだが・・・? R6.10.18