James Setouchi

2024.10.12

 

『路上のストライカー』マイケル・ウィリアムズ 岩波書店 2013 1700円+税

〝Now is the Time for Running〟 Michael Williams

 

1 内容紹介

・主人公デオは南アフリカのジンバブエの少年。サッカーが好きだ。ある日大統領の兵士を称する兵士が村にやってきて家族を虐殺する。デオは障がいのある兄イノセントと国境まで逃亡し、国境を越え、盗賊と野獣から逃げ、南アフリカ共和国に暮らす難民となる。だが、難民は差別された。低賃金労働者としての暮らし、難民キャンプでの暮らし、ストリートでの暮らし。

 

 ある日暴徒に襲われ兄イノセントは虐殺されてしまう。すべてを失ったデオ。しかし、偶然ストリート・サッカーのチームに入り、活躍を始める。おりしもWカップの南アフリカ大会の時である。デオの所属する南アフリカ共和国チームは、難民・出身地を問わず心を一つにして活躍する。

 

→サッカーの話でもあるが、それだけではない。ジンバブエのハイパーインフレ、南アフリカ共和国における貧富の差、難民に対する排斥などなど、極めて困難な社会問題を盛りだくさんに盛り込んだ作品だった。それを乗り越えてデオは生きる。十代向けの作品のはずだが、読み応えのある一冊。

 

2 作者紹介 マイケル・ウィリアムズ

・南アフリカ、ケープタウン生まれ。劇作家、小説家。ケープタウン・オペラの総合監督を務める。大学生の頃からラジオ劇を書き始め、25 歳で最初の小説を出版する。アフリカの神話をもとにしたオペラ作品を手掛けるなど、幅広い活動で知られる。『Crocodile Burning』(1994年発表)も高い評価を受けた。(岩波書店の本のカバーの作者紹介から)

 

3 付言

 サッカーのサミュエル・エトー(1981~)はカメルーンの貧しいストリートの出身だが努力して世界有数のストライカーになった。彼は貧しい子供たちのために財団を作りサッカー教室を作った(NHKスペシャル「サミュエル・エトー アフリカを背負う男」)。ブラジルのペレやマラドーナも少年時代貧しかったことが知られている。貧しいストリートでも、ボール一つ、たった一人からでもリフティングはできる。二人いればパスができる。神戸の震災後の廃墟で子供たちがサッカーボール一個で活力を取り戻した話は有名だ。本書の主人公・デオも、社会のひずみの最下層で生きる中でストリートサッカーに出会って行く。

 

 何がスポーツか? 人間に活力を取り戻すのがスポーツだと定義すれば、このようなストリート・サッカーこそ真にスポーツと呼べる。競技団体と大会を作り予算を投入してスタジアムを整備しユニフォームを揃え全国中継で有名になってカネを稼ぐために幼少期からアスリート一筋のエリート教育を受け最後は潰れてしまう・・なんてのは、真にスポーツとは言えない、となる。スポーツの原義は「気晴らし」。フランス語やラテン語でどうぞ。

 

 もう一つ。日本の蹴鞠はサッカーの淵源とは言えないようだ。蹴鞠は相手の取れる球を蹴り出す。サッカーのゴールはキーパーの取れない球を蹴り込む。サッカーとラグビーとアメリカン・フットボールの起源は一つだが、近現代に入って分化していった。その歴史は各所で語られているのでここでは略。中村敏雄『オフサイドはなぜ反則か』、鈴木秀人『変貌する英国パブリック・スクール』がよい。永井洋一『スポーツは「良い子」を育てるか』は、地域の少年サッカーの指導者が書いた本で、有益。勝てばいいのではない、とよくわかる。ではどういうサッカーをするべきか、のヒントになる。

 

 そこで、こんなことを言う人がいたら、どうですか?

 曰く、「日本の心は『和』の心だ。聖徳太子以来『和をもって貴しとなす』。蹴鞠も相手に取りやすい球を出してあげるものだ。羽子板も相手に取りやすく打ってあげるのだ。相手を出し抜き裏をかき叩きのめし打ち倒し排除するのは日本人の『和』の心とは言えない。だからサッカーでもテニスや卓球やバスケでも野球でも卑怯なトリックプレーをして相手の裏をかき相手の弱点を突き、自分だけが勝ち上がっていく、などというのは、伝統的な日本人の『和』の精神に即したものではない。西洋の「夷狄(いてき)」(!)から入った野蛮な風習であるから、そんな野蛮なスポーツは直ちにやめるべきである。」と。

 「そう言えば合気道に試合や勝ち負けはない。踊り念仏には試合や勝ち負けはない。武術で勝ち負けを言うのは野蛮な武士たちだ。卑怯な手を使ってでも勝ちに行く。噛みついてでも勝つのだ。(源義経が出っ歯だと書かれているのは、いざとなれば噛みついてでも勝つ力が強かったというわけで強さの強調だった、と誰かが解釈しておられた。)歌合にも勝ち負けはあるが、現存最古の歌合は885年で、しかも歌集の選歌のために行ったものだ。以降次第に歌合で貴族が勝ち負けを競うようになったが、それはすでに日本人の『和』の心から逸脱・堕落したものだ。平安末に源三位頼政が俊恵に教わってでも歌合で勝つことにこだわった(『無名抄』)のは、武士も貴族的な心得があった美談のように語られがちだが、見方を変えれば美談でも何でもなく、野蛮な武士のメンタリティに貴族世界も汚染されているという、ブラックな話としても読めるのだ。まことに「世も末」だったのだ。・・さて明治以降に西洋のスポーツと出会ってから、紳士のスポーツの振りをして実際には植民地の人を支配するために心身を鍛え上げるという、帝国主義的な世界観のスポーツが流行していった。これが文化事業にも浸透して『勝つための吹奏楽』『勝つための俳句』『勝つための書道』などが蔓延してしまっている。私たちは日本人の伝統の心を失って野卑な外国の価値観に乗っ取られてしまっているのだ・・・」

 などと言う人がいたら、どうですか?・・・

 

 

(アフリカ関連)ムルアカ『中国が喰いモノにするアフリカを日本が救う』(アフリカと中国と日本)、勝俣誠『新・現代アフリカ入門 人々が変える大陸』(2013年現在の政治経済)、中村安希『インパラの朝』(旅行記、アフリカ全般)、マイケル・ウィリアムズ『路上のストライカー』(小説、ジンバブエと南アフリカ)、ナポリ&ネルソン『ワンガリ・マータイさんとケニアの木々』(絵本、ケニア)、曽野綾子『哀歌』(小説、ルワンダ)、宮本正興・松田素二『新書アフリカ史』(歴史)、山崎豊子『沈まぬ太陽』(小説)

 

(スポーツ論)(スポーツ関係。フィクションも含む。)『スポーツとは何か』(玉木正之)、『近代スポーツの誕生』(松井良明)、『オフサイドはなぜ反則か』(中村敏雄)『変貌する英国パブリック・スクール スポーツ教育から見た現在』(鈴木秀人)、『日本のスポーツはあぶない』(佐保豊)、『スポーツは体にわるい』(加藤邦彦)、『アマチュアスポーツも金次第』(生島淳)、『文武両道、日本になし』(キーナート)、『スポーツは「良い子」を育てるか』(永井洋一)『路上のストライカー』(マイケル・ウィリアムズ)、『延長18回終わらず』(田沢拓也)、『強うなるんじゃ!』(蔦文也)、『巨人軍に葬られた男たち』(織田淳太郎)、『海を越えた挑戦者たち』『和をもって日本となす』(R・ホワイティング)、『偏差値70からの甲子園』(松永多佳倫)、『殴られて野球はうまくなる!?』(元永知宏)、『「東洋の魔女」論』(新雅文)、『相撲の歴史』(新田一郎)、『力道山の真実』(大下英治)、『わが柔道』(木村政彦)、『アントニオ猪木自伝』(猪木寛至)、『大山倍達正伝』(小島・塚本)、『武産合気』(高橋英雄)、『氣の威力』(藤平光一)、『秘伝少林寺拳法』(宗道臣)、『オリンピックに奪われた命 円谷幸吉、三十年目の新証言』(橋本克彦)、『タスキメシ』(額賀澪)、『オン・ザ・ライン』(朽木祥)、『がんばっていきまっしょい』(敷村良子)、『オリンポスの果実』(田中英光)、『敗れざる者たち』(沢木耕太郎)、『古代オリンピック』(桜井・橋場他)、『オリンピックと商業主義』『東京オリンピック』(小川勝)、『学問としてのオリンピック』(橋場弦他)