James Setouchi

2024.10.12 

 

『奇跡のプレイボール 元兵士たちの日米野球』 大社充(おおこそみつる)著 金の星社 2009年12月

 

 ノンフィクション。つまり小説ではなく、事実の記録。子供向けの本。

 

 2007年12月、アメリカと日本の、もと第2次世界大戦の兵士であって今はスーパーシニアのおじいさんたち(ほぼ80歳)が、ハワイに集まって親善野球をした。そのプロジェクトのはじまりからの一部始終の記録。

 

 著者は、NPO法人グローバルキャンパス理事長で、町おこしやスポーツ振興に活躍している人。(本書の著者紹介による。)

 

 きっかけは、アメリカの球団からの申し出(オファー)だった。フロリダにKids & Kubs という野球チームがある。メンバーの全員が退役軍人で、平均年齢は80歳。入団資格が75歳以上というからすごい。

 

 「おれたちは日本人が憎くて戦ったわけじゃない。戦争は終わったが、決着がついたとは思っていない。ついては野球で決着をつけたいのだが、どうだろうか?」

 

 この申し出を受け、テレビ映像制作の石田彰一氏とNPO法人グローバルキャンパスの大社充氏(著者)が動く。

 

 もと日本兵で今も野球が好きなスーパーシニアを募集(ぼしゅう)しチームを作る。球場を探し試合の舞台を整える。スポンサーを探す。マスコミにも連絡を取る。

 

 球場はハワイに決まった。日米の中間点にあり、パールハーバー(真珠湾=日米開戦の地)があるからだ。選手はあちこちから集まってきた。野球界のビッグネームの協力もあった。戦争ゆかりの地(日本兵墓地のあるマキキの丘、アメリカ人戦没者が眠るパンチボウルの国立墓地、パールハーバー)の訪問や交流パーティーも日程に組み入れた。

 

 こうして、スーパーシニアたちの親善野球は始まった。過去の戦争体験を乗り越えて、ほぼ80歳のおじいさんたちは野球にうち興(きょう)じる。

 

 実は、この本の半分は戦争の話だ。日本から参加した選手たちは、空襲(くうしゅう)で友人が死んだ、松山の航空隊から(くれ)に行き水際特攻隊「伏龍(ふくりゅう)」の訓練をした、予科練(よかれん)にいた、15歳で少年兵となり朝鮮半島で終戦になった、特攻隊に志願し満州(まんしゅう)で終戦を迎えた、ゼロ戦のパイロットだった、トラック諸島飢えを経験した、などの経験を持つ。アメリカから参加した選手たちも、そのころ海軍でトラック諸島の近くにいた、ゼロ戦に攻撃された、特攻で空母が沈み漂流した、フィリピンで日本人捕虜(ほりょ)を人道的に扱(あつか)うよう命令した、などなどの経験を持つ。世話をしてくれたハワイの日系人ホカマ(外間)氏の父親もMIS(Military Intelligence Service)(日系アメリカ人で、通訳や情報収集を任務とした)で、日本と戦った・・・

 

 皆でパンチボウルの兵士たちの墓参りをした時、巨大な虹(にじ)がかかった。「それはまるで、ここに集まった選手たちに対する戦没者たちからのメッセージであるかのようでした。」(p.130)と著者は記す。

 

 戦時に捕虜として虐待(ぎゃくたい)された経験を想えば参加できないと参加を拒否したアメリカの選手もいた、パールハーバーでは戦争(歴史)の解釈にギャップを覚えた日本の選手もいた、などの事実も著者は書き込みながら、全体としてはこの交流で相互理解・和解が深まった、という事例を多く報告している。この本が、戦争について深く勉強し直すきっかけになればよいのではないかと思う。

 

 

(スポーツ関係。フィクションも含む。)『スポーツとは何か』(玉木正之)、『近代スポーツの誕生』(松井良明)、『オフサイドはなぜ反則か』(中村敏雄)、『変貌する英国パブリック・スクール スポーツ教育から見た現在』(鈴木秀人)、『日本のスポーツはあぶない』(佐保豊)、『スポーツは体にわるい』(加藤邦彦)、『アマチュアスポーツも金次第』(生島淳)、『文武両道、日本になし』(キーナート)、『スポーツは「良い子」を育てるか』(永井洋一)、『路上のストライカー』(マイケル・ウィリアムズ)、『延長18回終わらず』(田沢拓也)、『強うなるんじゃ!』(蔦文也)、『巨人軍に葬られた男たち』(織田淳太郎)、『海を越えた挑戦者たち』『和をもって日本となす』(R・ホワイティング)、『「東洋の魔女」論』(新雅文)、『相撲の歴史』(新田一郎)、『力道山の真実』(大下英治)、『わが柔道』(木村政彦)、『アントニオ猪木自伝』(猪木寛至)、『大山倍達正伝』(小島・塚本)、『武産合気』(高橋英雄)、『氣の威力』(藤平光一)、『秘伝少林寺拳法』(宗道臣)、『オリンピックに奪われた命 円谷幸吉、三十年目の新証言』(橋本克彦)、『タスキメシ』(額賀澪)、『オン・ザ・ライン』(朽木祥)、『がんばっていきまっしょい』(敷村良子)、『オリンポスの果実』(田中英光)、『敗れざる者たち』(沢木耕太郎)、『古代オリンピック』(桜井・橋場他)、『オリンピックは金まみれ 長野五輪の裏側』(江沢正雄)、『オリンピックと商業主義』(小川勝)、『学問としてのオリンピック』(橋場弦他)  

 

 

付言

 世界では野球よりもクリケットが盛んだ。

 

 日本に野球が入ってきたのは明治の初めで、開成学校でやった、正岡子規がやったなどと言われるが、これについては多くの人が書いているので略。

 

 アメリカのスポーツだが、帝大(東大)(一高)では、体格の違うアメリカ人と試合をするために、ものすごく練習したという。それで今も東大野球部は練習時間が長い、と21世紀初め頃に聞いたが、のち桑田(巨人OB)が東大野球部のコーチになって変わったかどうか。

 

 東大野球部は弱いのになぜ六大学リーグに入っているのか? と素朴な疑問を持つ方も多いようだが、そもそも話が違う。六大学リーグがさきにあるのであって、あくまでも大学生の親睦としての野球リーグだ。そこで歴史の最も古い名門が東大野球部なのだ。強い弱いはあとからできたもので、本当は勝ち数などはニの次なのだ。勝利至上主義・プロ養成の下請けに大学野球がなってしまっている現状が、歪みなのだ。勝ってプロに進むのが当然と考える視聴者も、実は歪みの中にあって、気付かないのだ。親、子、孫と歪みが続いて、本来のあるべき姿を見失っているから、「東大はなぜ弱いのに?」という上記の問いになるのだ。弱くてもいいのだ、健全なスポーツであれば。(ご存じだと思うが、大越健介アナウンサーは東大野球部の投手だった。ああいう気骨ある人が育つのだから、東大野球部はいい部なのだ。・・野球部だけで育ったわけではないが。)

 

 最初は道具もないから素手でやったとか。「痛い」と言ってもいけなかったとか。何しろエリートのやるスポーツだから。(他のボートその他のスポーツはイギリスから入ってきた。やはりエリート主義だ。)エリート意識でなされるスポーツは、全国の旧制高校や旧制中学に伝播した。大英帝国の帝国主義的身体観に、日本の「武士道」のようなものが合体して、奇妙な精神主義的なスポーツ(?)が普及していった。これは戦後の日本の運動部も流れ込んでいて、今は批判にさらされている。丸刈りでない野球部も増えてきた。(丸刈りの是非とは?)

 

 野球は、夢中になりすぎ、勉強がおろそかになる。貧しい中で親がカネを出して旧制中学・高校に進学させたのは、学力をつけて上級学校に進学して「いい暮らし」をしてもらうためだったのに、ウチの子は野球にばかりうつつをぬかして、困っています、と、社会問題になった。野球害毒論キャンペーンを朝日新聞が(あの朝日新聞が!)張った。野球害毒論を述べた人は多い。乃木希典(のぎまれすけ。陸軍大将)、新渡戸稲造(にとべいなぞう。野球は隠し球など卑怯な行いがあり、武士道に反する、と述べた)、嘉納治五郎(かのうじごろう。講道館柔道)や、教育行政・教育界の重鎮たちが、野球批判を繰り広げた。

 

 対して、野球を擁護する側は、心身を鍛練してイザというときにお国のためになれる、という帝国主義・軍国主義のイデオロギーに沿ったかたちで野球を擁護した。

 

 朝日新聞が、野球人気に目を付け、中等学校野球大会(今の高校野球甲子園大会の前身)の主宰者になり、一挙に野球ブームを拡大した。

 

 戦時中は一時潰されたが、戦後再開し、今日に至る。そのいい面も悪い面もあるのは皆様ご承知の通り。朝日は主催者なので、根底からは批判できないかもしれない。例えば「なくしてしまえ」とか。

 

 (なぜ東京に巨人、広島にカープを作り戦後いち早く野球ブームを引き起こしたのか? 東京大空襲と原爆の被害から目をそらさせ、アメリカはいい国(社会)だ、と示し、フェアプレイの精神を日本人に教えるためだった、とするうがった見方がある。)

 

 元永知宏『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社+α文庫)は、ドミニカ共和国のプロ野球選手養成システムを紹介し、日本の、学校教育(高校や大学)の中でプロを養成していくシステムには無理がある、と批判する。参考になる。面白いのでお薦め。

 

 オータニさんはすごいので私も思わず皆の尻馬に乗って騒いでしまったが、本当は無責任に騒いではならない。選手を商品として消費するシステムにうかうかと乗せられてはならないのだ。イッペイさんは、金まみれになった商業スポーツの犠牲になった一人とも言える。伊良部はどうなったか。王や長島の陰でレギュラーになれなかった幻の一塁手や三塁手の人生をどう考えればよろしいか。高校野球の名門チームは部員が何十人もいるが、レギュラー以外はどうなるのか。またレギュラーでもプロになれる人は一握りだが、他のひとはどうなるのか? 若者を商品として使い捨てるべきではない。

 

 キャッチボールの時「いいぞ」「うまいなあ」と声を掛け合ってやる。相手の正面に取れやすい球を投げてやる。受け止めるときも正面で受け止めてやる。相手の失敗をカバーし合う。こういうのは素晴らしいと思う。同じやり方が日常生活で生きるなら、真正面からコミュニケーションし弱い人を助けるいい隣人が育つことになる。私の友人にもそういう人がいる。野球で育ったのか、野球とは別の問題なのか。

 

 投手と打者が対決するとき、相手の裏をかいて直球かと思わせて変化球を投げる。ヒッティングに見せかけてバントをする。交代したばかりのちょっと下手そうな野手のところを狙って打つ。これらは作戦のうちだと思うかも知れないが、同じやり方を日常生活に持ち込むようになれば、卑怯者を育てていることになる。ボール球なのにキャッチャーが「入った!」と叫び打者がつられてバットを振り三振になる。キャッチャーは打者のことを「あいつ、すぐつられるぞ。とろくさいな」と笑っている。そういう、嘘つきで弱い者いじめをする人間を野球は育てるのだったら、野球なんかやめてしまったらいい。その暇に『論語』でも読んだらどうですか? 監督やコーチの目の届かないところで暴力が行われる。いや、監督やコーチの暴力的体質を正直に真似しているのだ。部員や監督の不祥事や不勉強をチームぐるみで隠蔽し、嘘をつく若者を育てる。部員一人一人は本来純情善良な人間でも、勝利至上主義のシステムの中で価値観が歪んでいく。

 

 どう考えればよろしいのか? 

 

 私が子供の頃、級友が私を誘ってくれて、ライトで8番で何の役にも立たなかったけれど、友だちになってくれたのは嬉しかった。ああいうのはよかった。のち彼らは運動能力を買われてすごい高校に進学し野球に励んだはずだが、その後どうしただろうか・・・               2024.10.13

 

 

 元永知宏『殴られて野球はうまくなる!?』講談社+α文庫

 田澤拓也『延長十八回終わらず』文藝春秋

 松永多佳倫『偏差値70からの甲子園』竹書房

 蔦文也『強ようなるんじゃ』

 織田淳太郎『巨人軍に葬られた男たち』新潮文庫

 ロバート・ホワイティング『海を越えた挑戦者たち』角川文庫

 大社充『奇跡のプレイボール 元兵士たちの日米野球』金の星社