James Setouchi

2024.10.12

 

 『オン・ザ・ライン』朽木 祥(くつきしょう)小学館 2011年7月

 

 

 テニスにうちこむ(しかし活字中毒でもある)「俺」日高 侃(ひだか かん)の高校の青春を描く。

 

1 登場人物(ネタばれが含まれています!)

俺(日高 侃):名門の元高(もとこう)生。元高は伝統校で文武両道をモットーにしている高校。「俺」はテニスに打ち込む。同時に、活字中毒でもある。父親はいない。

羽鳥 貴之(はとり たかゆき):「俺」の親友。「俺」をテニス部に誘った。テニスも強いし、「正々堂々としていて、潔くて、ウルトラフェアなやつ」。「俺」は貴之にはかなわない。貴之には梓(あずさ)さんという素敵な彼女がいる。「俺」は嫉妬する・・・

滝口 昴太郎(たきぐち けんたろう):テニス部の仲間。

西 亮介(にし りょうすけ):テニス部の仲間

永井 小百合:テニス部の、美しい少女。体育会系。たくさんの崇拝者を持つ。

小川 梓(おがわ あずさ):貴之の彼女。芸術を愛好する。文化系。

ミドリ:同じクラスの女子。

楠木:サッカー部の友人。

 

アカギ:テニス部顧問。元高OB。インタハイ優勝・デビスカップ出場と元高テニス部最盛期のOB。

ソラタ:サッカー部顧問。生物教師。元高OB。サッカー部最盛期のOB。東大出身。

セツコ先生:女子テニス部顧問。元高OB。インタハイ出場。

タカイ:国語の先生。「俺」に文芸部に勧誘し、正宗白鳥や本居宣長(もとおおりのりなが)を薦めてくれる。

 

貴之の母親:実はキーパーソンだが、略。

貴之の父親:仕事人間。一年の半分は海外出張。

 

母さん:「俺」の母親。

親父:「俺」の父親。ある事情で家出し、別居している。

祖父:「俺」の父方の祖父。瀬戸内海の島に住んでいる。本当は賢いのだが、認知症が進んでいる。

カラス坊:島の子ども。身寄りがなく、島の人に育ててもらっている。

 

2 コメント

 「俺」はテニスに打ち込み、ライバルで親友の貴之、憧れの少女たちが出てくる。そして事件は起こる・・

 

 ここまでは、最近よくあるストーリーだ。その先が面白かった。「俺」は困り果て、そこに親父が出現し、「俺」は瀬戸内海の島へ。そこでカラス坊たちと出会い、やがて・・ここから先は書かないので自分で読んでください。

 

 元高は名門高校で、かつて栄光を経験した(古き良き時代を知っている)教師たちが出てくる。どこかの高校にありそうで、面白い。テニス少年だが活字中毒でもあるというキャラクター設定は珍しい。なぜそうしたのだろうか?

 

 世間によくある三流学園ノベルでは、しばしば、元気で活動している人たちが主人公で、学校を休んでいる人の苦しみは描かれない。イージーすぎる設定で、無責任だと言える。これに対し、この小説は、学校を休んでいる「俺」(主人公)の日々が描かれ、そこからどう立ちあがるかが中心テーマの一つだ。この挑戦は、よい。

 

 だらだらした先輩たちを追い出して「勝てる」テニス部を作る。この点はおかしい。部活動の在り方として疑問だ。先輩たちにもそれぞれの事情があったはずだが、描いていない。また、テニスが好きで楽しくて勝ちに行く。そこでは社会正義や人間としての愛はほとんど問われていない。貴之の母親のキャラクターも深くは描かれない。これらの点はイージーすぎると感じた。所詮は「児童文学」なのであった。

 

 随所に、八木重吉イェーツ大江健三郎などの名がちりばめられている。カトリックのにおいもある。

 

 また、絵葉書の解説が何枚もある。これらを書き込んだ意図が分かればもっと深く理解できるかもしれないが、今のところ分からない。想像だが、作者の朽木祥氏は本来テニス系ではなく文学・宗教に強い人なのだが、若者向けにテニス少年を主人公にしてみたのではないか?                  H24.8.7

 

 

補足

 インタハイと国体(国スポ)少年の部と、大学ならインカレと国体(国スポ)大人の部と、どうして2回あるのだろうか? その種目の(ここならテニスの)選手権も含めれば、大きな大会が年に3回。そのための地区予選や冠カップ(何とか杯など)なども含めれば、年がら年中大会をしている。それにうかうかと乗って大会で勝つことばかり目指しているのを、「勝利至上主義」と私は呼ぶ。

 

 「私は勝利至上主義ではない」と言いたいかもしれないが、『論語』も『聖書』も漱石もドストエフスキーもスタンダールも読まず、『平家物語』も『方丈記』も『徒然草』も新渡戸稲造『武士道』も内村鑑三『代表的日本人』も通読したことすらなく、毎日2時間の英語の勉強すらしないで、年中大会で勝った負けたと騒いでいる人たちを、「勝利至上主義に絡め取られた人びと」と呼ぶ。愚民化政策にうかうかと乗せられているのだ・・・挙げ句に待つのは「経済的徴兵制」かもしれないのに・・

 

 適切な運動による体位体格の向上はいいし健康・体力の増進もいい。好きなスポーツで楽しんでもいい。居場所と仲間ができれば本当に嬉しい。ただし、高校生や大学生が年中大会ばかりしてろくに勉強も読書もしていないのを私は嘆いているのだ。学力・文化力が国力、いや人類力の基盤だ。

 (日本、で区切って考えても、日本は資源がないのだから「勉強」するしかないはずなのだが・・韓国や中国の若者はものすごく「勉強」しているよ・・何を?)

 

 念のため言っておくが、体位体格の向上、健康や体力の増進と運動能力・競技力とは、落ち着いて考えてみると、別のものです。私が勝手に言うのではない。『スポーツは体にわるい』(加藤邦彦)という本もあります。東大の理学部の先生が書いておられる。(もう絶版かも。再版してほしい。)まして、生命力と運動競技能力とは、全然別のものです。沖田総司は剣術の達人でしたが病弱で血を吐いて死にました。陸上で食事を削り体重を落とし生命力を削りながらタイムを上げる、非人間的な話をよく聞きます。そんなのは間違っています。←私が勝手に言っているのではない。東大病院の能勢さやか先生が言っておられる。悩んでいる人はそこを訪れてみて下さい。ここの陸上選手は純な気持ちを持った人が多いと私は感じているのだが、システムの中で記録を、タイムを、戦績を上げなきゃいけない、というプレッシャーを作り出して若者を潰してしまうことがけしからん、と言っているのです。適度な陸上を通じて生命力が強化され自信が付き人をも幸せにできるのなら構いません。だが、大会の記録を気にしている人は・・? そこへと中高生や大学生を駆り立てる指導者たちは・・? メダルメダルと騒ぐマスコミは・・? そのマスコミで騒ぐ観客のあなたは・・? ・・・誰が円谷幸吉(つぶらやこうきち)(1964年の東京五輪の銅メダリスト、極めて真面目な好青年)を殺したのですか!?   

 

 テニスの歴史やあり方も研究してみましょう。19世紀末にウィンブルドンでショップが始めたのが最初(前史はあるが)で、案外早く日本にも伝わりました。田舎でも大正時代にはもうプレイしていたとか。平成天皇陛下が皇太子でいらした時軽井沢で「テニスコートの恋」をなさったので、テニスは上品なイメージがつきまといますね。『巨人の星』でも金持ちの花形満の家にテニス・コートがあった。『めぞん一刻』でもハンサムな三鷹さんはテニスのコーチです。実際にはテニスのハイレベルな試合は大変体力を使う、過酷なものです。私の知っているテニス選手(全国でまあまあ)は、非常に勝ち気な人です。テニスを通じて平成天皇陛下や美智子皇后陛下のような優しく上品なお人柄になってくれればいいのですが、どうもそうではなく、闘志剥き出しで弱い人の気持ちが分からず他を力で抑圧する・・人になっているとすれば・・・? それはテニスという種目それ自体のせいではなく、勝ちに行くシステムの弊害(その人自身もシステムの被害者)、と言うべきなのでしょうか?           

                              R6.10.12

 

(スポーツ論)(スポーツ関係。フィクションも含む。)『スポーツとは何か』(玉木正之)、『近代スポーツの誕生』(松井良明)、『オフサイドはなぜ反則か』(中村敏雄)、『変貌する英国パブリック・スクール スポーツ教育から見た現在』(鈴木秀人)、『日本のスポーツはあぶない』(佐保豊)、『スポーツは体にわるい』(加藤邦彦)、『アマチュアスポーツも金次第』(生島淳)、『文武両道、日本になし』(キーナート)、『スポーツは「良い子」を育てるか』(永井洋一)、『路上のストライカー』(マイケル・ウィリアムズ)、『延長18回終わらず』(田沢拓也)、『強うなるんじゃ!』(蔦文也)、『巨人軍に葬られた男たち』(織田淳太郎)、『海を越えた挑戦者たち』『和をもって日本となす』(R・ホワイティング)、『偏差値70からの甲子園』(松永多佳倫)、『殴られて野球はうまくなる!?』(元永知宏)、『「東洋の魔女」論』(新雅文)、『相撲の歴史』(新田一郎)、『力道山の真実』(大下英治)、『わが柔道』(木村政彦)、『アントニオ猪木自伝』(猪木寛至)、『大山倍達正伝』(小島・塚本)、『武産合気』(高橋英雄)、『氣の威力』(藤平光一)、『秘伝少林寺拳法』(宗道臣)、『オリンピックに奪われた命 円谷幸吉、三十年目の新証言』(橋本克彦)、『タスキメシ』(額賀澪)、『オン・ザ・ライン』(朽木祥)、『がんばっていきまっしょい』(敷村良子)、『オリンポスの果実』(田中英光)、『敗れざる者たち』(沢木耕太郎)、『古代オリンピック』(桜井・橋場他)、『オリンピックと商業主義』『東京オリンピック』(小川勝)、『学問としてのオリンピック』(橋場弦他)