James Setouchi

2024.10.12

 

  黒住真・福田惠子『日本の祭祀とその心を知る』ぺりかん社 2021年12月

 

1 『日本の祭祀とその心を知る』: 少子高齢化で地域社会が消滅或いは衰退する。その中で「地域おこし」「地域活性化」をいかにするか。「祭り」に注目する言説もある。では、そもそも「祭り」とは何ぞや? 現代社会においてどれほど有効であるのか? この問いを持って本書を手に取った。「将来地方公務員になって地域再生・創成に貢献したいんです」という方々にもお薦め。本書「はじめに」には、「日本における祭祀が成り立った世界観やその基礎を知る」「そこに含まれた人生や関係の内実をいくつかとらえる」「明治維新以降の近代になると、そこからいくつかの問題がはっきり生まれる」「それを知りながら、今後どうあったらいいのか、現代的な課題も考えたい」とある(4頁)。

 

2 目次: はじめに/カミさらに神とは/祭りと祀る/心と言葉/習合と信ずる軌跡/天と地と人/道徳と人間/死とは何か、生とは何か/絆をめぐって/女性とジェンダー/人間の対立と宗教/和のかたちと日本/おわりに

 

3 コメント: 大学1年生レベルのゼミのテキストを想定して作られていると思う。「祭祀」の現代的意義という観点から再編集した日本倫理思想史の入門書の側面も持つ。伊藤仁斎や荻生徂徠、横井小楠、柳田国男らの名前は繰り返し出てくる。はじめから通読しなくとも、個々の章を独立に取り上げて討論できる。章ごとに討論テーマ例が挙げてある。例えば「神輿や山車の経験はあるか」「あなたの地域にはどんな祭りがあるか」「祭りを見に地方に行ったことは」「あなたにとってクリスマスとはただのイベントか、宗教的行事か」「ハロウィンは祭りだと思うか」など。高校「倫理」や「公共」の副読本にもできるかもしれない。いくつか内容を紹介し、コメントを付したい。

 

(1)     第11章「和のかたちと日本」

 『論語』には「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」とある(195頁)。スサノヲはアマテラスによりうまく「和」に回収され懐柔される(201頁)。聖徳太子は「和を以て貴しとし」と言った(206頁)。怨霊をまつるのが「御霊会(ごりょうえ)」(209頁)。中世仏教には「怨親平等」思想により敵味方共に供養する伝統があった(210頁)。が戦国期の統一権力以来所属集団の支配者を神として祀る習慣が祖先崇拝となって展開してきた。古代以来の、敵でさえ祀るという…習慣が次第に減衰してくる(210頁)。<死んだ敵を祀らない>習慣が信長から始まり現在に至る、と新井白石は言う(212頁)。異質なものを排除するのではなく取り入れる「和」こそが調和だ、と荻生徂徠は強調した(213頁)。昭和12年の「国体の本義」は国家中心の「和」で「帰一」「全体」の「和」だ(215頁)。元来の「和」は天人相関・活物としての調和を見いだす言葉だ(216頁)。新渡戸稲造の地方(じかた)学も注目されている(217頁)。

 

→現代社会において敵・味方を分断する傾向があるとして、それを越える道は「和して同ぜず」であろう。非業の死を遂げた者へのいたわりと鎮魂慰霊の感覚が、古代以来中世くらいまでは普通にあったが、戦国期あたりから死んだ敵を祀らなくなっていく。味方だけを祀るようになる。(帝国日本が作った靖国神社も味方しか祀らない。敵と見なされた会津や西郷は祀られなかった。御所に大砲を撃ち込んだ久坂玄瑞は祀っているのに。)親鸞は『歎異抄』によれば「父母の孝養のために念仏をしたことはない」と言う。その意味は、弥陀仏の救いに預かっているので、追善供養などする必要が無い、ということであろうが、うがった見方をすると、新興武士集団が先祖祭りで一族の団結を固めては戦争をしていることへの批判とも取れる。先祖祭りが実際いつからどの程度あったか、はこの本では明示していないが、武家には多くあり得たとは予測できる。それでも中世には、非業の死を遂げた敵についても鎮魂慰霊したということだろう。戦国期の統一権力以降それは衰退し、秀吉は豊国大明神、家康は日光東照宮の権現様となった。島原の乱で殺戮された数万と言われるキリシタンたちは葬って貰えなかった。幕末の彰義隊の遺骸も放置され野犬やカラスに食われた。これは感覚として受け入れがたいものがあるのだが、どうか? 竹山道雄『ビルマの竪琴』にはイギリス人が日本兵を葬ってくれる、という記述がある。

 

(2) 第1章「カミさらに神とは」

 津田左右吉の「神道」概念の整理を援用しつつ、カミの意味を考察する。

(ア)雷鳴、稲妻、竜巻、熊、鷲、巨木、岩など自然物。そこから霊異を引き起こす抽象的・根源的存在としてのカミを想定し、磐座(いわくら)や樹木を依代(よりしろ)として祀った。奈良の大神(おおみわ)神社には磐座群がある。

(イ)カミ祀りと前方後円墳の祭祀との形式上の類似性から考えると、弥生時代後期には死者をカミとして祀っていたのではないか。その結果カミのイメージが人の姿となっていったのではないか。水野正好によると、前方後円墳は、後円墳に死亡した前の王(首長)を葬り、次に全方部で新しい王(首長)になったことを宣言する儀式を行ったのではないか。

(ウ)これらに密教を援用して思想的解釈を与え、両部神道や伊勢神道が出現。また、吉田神道では神は心といい、神が人間に内在していると考えた。吉川神道は儒教的な考えを付加。山崎闇斎の垂加神道は神=理と考えた。

 

→私見だが、(ア)(イ)に注目したい。自然の圧倒的な脅威と恩沢に霊異・神秘を感じ神として崇拝する感覚は、よくわかる。恐らく世界中にある感覚だろう。そこから、その向こうにある抽象的・根源的存在としてのカミを想定するのもよくわかる。問題はここからで、抽象的・根源的存在であるカミへの崇敬が、どうして支配者を拝むことになるのか? 死者すべてを鎮魂慰霊するために拝むのならわかるが、支配者を皆が拝むのは、権力関係(抑圧関係、支配・被支配関係)の結果であり再生産であって、支配者(いいリーダーならともかく)によって抑圧され滅ぼされた人々は浮かばれないのではないか? むしろ抽象的・根源的存在であるカミへの忠実な信仰により、現状の権力者(抑圧者、理不尽な支配者)を批判する道もあるはずではないか? 現に古代ユダヤ教の預言者たちは、きわめて厳しい口調で権力者・支配者たちを批判した。だが、日本ではその方面は深化・発展せず、支配者たちの権力構造を追認しことほぐ祭りを長年やってきた、ということになるのだろうか? では、権力が交代するときはどうなるのか?

 

(3)     第2章「祭りと祀る」

 「マツル」とは来訪する神をもてなし敬い、神と交流すること。「祀り」は神を尊ぶ働き、「祭り」は神との好ましい儀式という意味合いが強いか(25頁)。宮家準(みやけひとし)によれば祭りの構造はA斎戒(コモル、ケガレ=気枯れからケ=気の充電へ)、B祭儀(神と人間の交歓、神意を受け取る占い、競技)、C祝祭(神輿と山車の巡行)。この巡行の起源は、「都に入ってしまった御霊である疫神を神輿と山車に迎えて、他界との境で御霊会を行い疫神を慰撫し、都の外へ退散させる儀式」(37~40頁)。仏教の花祭りにも「稚児行列などがあり、神輿と山車の巡行と趣が似ている」(40頁)。天神祭は菅原道真の霊を慰めるもの。八坂神社の祇園御霊会は恨みを残して死んだ人の祟りを鎮めるため。日本の祭りには御霊信仰が深く関わっている(42頁)。

 

→ここでは神輿と山車の違いは触れていない。また、山車にも京都や高山風の雅やかなものと、岸和田風の荒々しいものとがある。西条には太鼓台がある。山車のない地域は多い。どうして地域によって違うのか? 少子高齢化・過疎化で担い手がいなくなったとき、核心部分は疫神を退散させることだとしたら、どういう運営の仕方があるか? のヒントになるかもしれない。

 

(4)あとがき」:「現代人は、人間中心の現世利益的な世界観のなかに生きている」「今一度、この人間中心の世界観を改め、天地が調和して生きる世界に目を向ける時と状況がまさに今後なのではないか」(福田惠子)(242頁)

 

4 著者:黒住真:1950~。東大文学部に学び、東大教養学部教授、名誉教授。/福田惠子:1957~。東京外大に学び、拓殖大学教授。/もう一人、山本栄美子という人も関わっている、と「あとがき」にある。

 

5 少し補足。

(1)30頁『仁王教』『金光明教』は、『仁王経』『金光明経』の誤植。

(2)77頁3~4行目は文意がやや通りにくいが、「縄文期の循環・再生の祭祀から、弥生期に天を意識した祭祀へと変わっていった」という含意。

(3)168頁の法然上人と『無量寿経釈』第35願への言及は、「法然上人が差別を拡大した」と読めてしまうが、それは著者の真意ではない。

 以上(1)~(3)は著者の福田惠子氏に確認した。

 

 法然上人については、『阿弥陀経』に善男子・善女人と併称し「念仏で必ず救済する」とあり、また法然上人は聖如房(式子内親王)への手紙に「あなたと私とどちらが先に往生するとしても同じお浄土に往生することに間違いございません」という趣旨の文言がある。古代思想は女性差別をしがちだが、阿弥陀如来の圧倒的な救済力の前では男女の区別などない、と法然は考えた、と私は考えている。ネット上の浄土宗大辞典の女人往生の項目にも解説がある。

 

(十代で読める哲学・倫理学、諸思想)

プラトン『饗宴(シンポジオン)』、マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』、『新約聖書』、デカルト『方法序説』、カント『永遠平和のために』、ショーペンハウエル『読書について』、ラッセル『幸福論』、サルトル『実存主義はヒューマニズムである』、ヤスパース『哲学入門』、サンデル『これからの「正義」の話をしよう』、三木清『人生論ノート』、和辻哲郎『人間の学としての倫理学』、古在由重『思想とは何か』、今道友信『愛について』、藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』、内田樹『寝ながら学べる構造主義』、岩田靖夫『いま哲学とは何か』、加藤尚武『戦争倫理学』、岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』、森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』、などなど。なお、哲学・倫理学は西洋だけではなく東洋にもある。日本にもある。仏典や儒学等のテキストを上に加えたい。『スッタ・ニパータ』、『大パリニッバーナ経』、『正しい白蓮の教え(妙法蓮華経)』、『仏説阿弥陀経』、空海『三教指帰』、法然『選択本願念仏集』、道元『宝慶記』、懐奘『正法眼蔵随聞記』、唯円『歎異抄』、『論語』、『孟子』、伊藤仁斎『童子問』、吉田松陰『講孟劄記(さっき)』、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』、和辻哲郎『古寺巡礼』、柳田国男『先祖の話』、相良亨『誠実と日本人』、菅野覚明『武士道の逆襲』などはいかがですか。                  

                              (R4.5)