2024.10.12

James Setouchi

 

 中村彰彦『会津武士道』PHP文庫2012年(もとは2007年)

 

1 著者 中村彰彦

 1949年栃木市生まれ。東北大学文学部卒。文藝春秋勤務を経て91年より文筆活動に専念。『明治新選組』『五左衛門坂の敵討』『二つの山河』『落花は枝に帰らずとも』など。会津が大好きな人。(本の著者紹介などから)

 

2 『会津武士道』

 会津武士道を大好きな著者による、「会津武士道」の入門書。会津について随分詳しい。著者は「会津武士道」が大好きで、「贔屓(ひいき)の引き倒し」と言ってもいいくらいだ。どうして「贔屓の引き倒し」と言えるかはおいおい記す。

 

 なお、私にも会津の友人がいるが、実直・誠実なことこの上ない、尊敬すべき人物だ。(一人ですべてをはかってはいけないが、見聞するところでは、まず会津の人は実直・誠実であるに違いない、と私は思う。)

 

 本書の内容を簡単に紹介しつつ→以下でコメントを書いていくと、

 

序章「武士道前史」では、会津は賊軍ではない、会津武士道の神髄は、藩士たちには厳しい倫理観を求め、領民には仁政を布いていたことにある、新渡戸稲造の「武士道」は少し違う、『平家』や戦国武士や『葉隠』も国家観が不足、江戸期からあるべき国家を考え武断的武士道から文治的武士道に変貌した、現代こそ会津武士道に学ぶべきときだ、と著者は語る。

 

→会津は賊軍ではない、には賛成。

 著者は、新渡戸稲造は少し違う、と触れるだけで、著者の、倫理的・精神的ないわゆる「会津武士道」と、新渡戸のそれとが、どうちがうか? は、論じていない。明治の軍人勅諭などとの異同も論じていない。実は武士道とは何か? は日本思想史(日本文化論、日本人論)のテーマの一つで、簡単には説明できないのだが、多くの人がその問題意識のないままに「私の武士道」を語って済ませている。それら各自の「私の武士道」も武士道論の一つの要素だとも言えるが、しかしそれで全てを客観的・普遍的に語れているわけではない。多くの人が無意識的に影響を受けているのが明治以降の新渡戸稲造の倫理的・精神的な『武士道』であるので、ここはページを割いてほしかった。

 

第1章「会津武士道を育てた初代藩主保科正之」では、保科正之が会津武士道を育てた、とする。著者によれば、徳川家光の異母弟で、謙虚な人、四代将軍家綱を補弼(ほひつ)した、玉川上水を作った、江戸城天守閣再建を延期した8民のためであろう)、殉死を禁じた、社倉を作り食糧を備蓄した、九十歳を越えた者には終生一人扶持を与えた(世界初の国民年金制度)、間引きを禁止した、残虐な刑を廃止した、「会津藩家訓(かきん)」を残した、など「文治主義」を実践した。

 

→私は詳しくないのだが、白岩農民一揆では首謀者36人を磔刑にした。これを著者は「文治主義」と言うが、「法治主義」と言い直すべきだろう。農民が一揆をするにはそれなりの困窮がまずあるわけで、その原因を究明し、二度と一揆をしなくてすむように民のための善政をしいてこそ真の「文治」すなわち「仁政」「王道政治」と考える(孟子ならそう言うであろう)が、著者はここではそうは書いていない。歴史の事実に詳しい人によくあるのだが、多くの史実を並べているうちに時々思考停止が起き、概念が混乱し、考察が深まらない。「贔屓の引き倒し」の一例である。大火で江戸が燃えたとき、天守閣再建を後回しにしたのは、民の生活再建を優先したのだろう。ここは偉い。民の生活の困窮を尻目にビッグイベントに税を投入したがる現代の政治家にきかせてやりたいものだ。

 

第2章「田中玄宰(はるなか)の改革」では、18世紀の家老・田中玄宰の偉業を讃える。著者によれば、天明の大飢饉という大変困難な時期にあたり、「会津五部書」(朱子学等の書物)を研究し数々の政策を打ち出した。長沼流軍学の伍什制度を採用、「追鳥狩」という軍事総連を行う、藩校・日新館を創設(「日新」は『大学』にある言葉)、刑罰を改正、地元殖産興業(織物、清酒、漆器、朝鮮人参、松茸、鯉の養殖などなど)、出費を抑えるため「賄(まかな)い扶持制」(藩士は身分にかかわらず一日一人あたり一律に米五合(女は三合)と味噌と薪代だけを与える、残りの俸給はすべて藩が借り上げる)を3年間実施、などなど。「会津武士道」の究極は、武士道の伝統を引き継ぐ躾や教育の仕組みを整備し、産業を育成して国力を培う、それが領民のため、藩全体の共存共栄のため、ひいては国家に尽くすことにつながる、という考え方にある(157ページ)、と著者は記す。

「賄い扶持制」は、今で言えば、総理大臣、県知事から末端の公務員まで、全員が一律に同じ給料にする、残額は国家や自治体で借り上げる、ということだろうか。これはいいかもしれない! どこかの党が「身を切る改革」と言っているが、これくらい振り切ってみてはどうだろうか。ついでに、会社でも、社長から非正規の臨時社員まで一律に同じ給料にするというのは、どうですか。田中玄宰の改革は社会主義・共産主義だったとあなたは言いますか? 「民の父母」として為政者が自らを慎み仁政を布くのは、田中玄宰でなくても、儒教では理想として常に語られてきた。なお、殖産興業をして貨幣経済が浸透すると、一般的には、貧富の差が広がるのだが、そこはどうだったのだろうか。

 

第3章「会津武士道の栄光と悲惨」では、幕末維新時の松平(保科はあるとき幕命で松平に変わった)容保(かたもり)と会津の面々が、決して逆賊ではなく、勤王の志篤く励んだが、薩長や福井(松平春嶽)らによって過酷な運命を背負わされたことを記す。会津藩主には「四弓再奥秘伝」(「四弓最奥伝秘」の誤植だろうか)がある。「坐陣弓」は兵を動かさず天下を治める。「発向弓」は逆賊が現われたとき発動する。「護持弓」は治安をよくする。「治世弓」はこれら三つが渾然一体となり平和な治世を確定する。保科正之の教えでもあり、松平容保はこれを守ったゆえに悲劇を招くことにもなった。京都守護職という難しい立場を、他の藩は嫌がったが、松平容保は受けた。禁門の変では命を賭けて天皇を守ったが、のち維新軍からは朝敵とされてしまった。(それで靖国で祀って貰えなかった。靖国問題の最初。)孝明天皇と徳川家からは信頼されたが、薩長同盟を予測できず、徳川家茂(第14代将軍)は急死、孝明天皇も急死、徳川慶喜は逃亡、戦闘では敗れ、会津城下では死屍累々、下北半島に斗南藩3万石として移され人びとは苦しむ、それでも会津武士道は死ななかった。このように著者は記す。

 

→「会津は勤王の志に燃えていたのに、周囲の陰謀により朝敵とされ苦しむことになったのは、理不尽だ!」とする主張に力を込めている。これはよく分かる話で、勤王の志があったのに、という点は、著者の主張は正しいと私も思う。

 ただし、著者はここでは(義憤のためか)「勤王」で思考がとまっており、会津も薩長もともに日本という新しい国作りをしよう、という方向性が弱い。勝海舟や坂本龍馬は、世界の中の日本という大局を見据えていた、としばしば言われる(物語上かもしれないが)。(徳川慶喜だって、ただ逃げたのではなく、内戦を最小限の犠牲で終わらせようとしたのかも知れない。)勝つか負けるか、命を賭けて戦うだけが能ではない。大局を見れば戦乱を避けるのが最良の手だったかもしれない。その視野の広さは、会津の人にはなかったのだろうか。惜しいことだ。

 また、日本を越えて、人類普遍、世界普遍への眼差しも弱い。キリストも釈尊も孔子も、「国家」を越えて人類普遍、世界普遍を見ていた。著者は会津が大好きなあまり、ここは考えていない。

 さらには、軍備についても、幕末雄藩は西洋式の兵器を買い揃えていったが、会津はどうか。著者はそこはあまり書いていない。

 「贔屓の引き倒し」である所以である。

(言うまでもなく、最新式の兵器を買い揃えれば安全が保てると信じるのは、実はあまり根拠がなく、言わば一種の形而上学・信仰でしかない。最新式の兵器を有するが故に慢心して安易に戦争という手段に走り、ついには周辺国に憎まれ自国の経済も破綻し滅亡するケースは多い。ナチスは高度な科学技術を持っていた。日本も原爆を作ろうかという所まで行っていた。今のイスラエルはどうかな。だが軍備にカネを注ぐと国民生活事態が急迫し、ついには軍備をも支えられなくなる。会津がもし西洋式兵器をスネル兄弟(シュネル兄弟またはスネル兄弟は奥羽越列藩同盟に西洋式の兵器を売った)を介して大量に買い付けたとしても、それを支える経済力がないと、結局は破綻してしまうのだ。もし蝦夷(北海道)を借金のカタにしていれば、北海道はいまごろどうなっていたかわからない。)

 

第4章「よみがえる会津武士道」では、明治以降に「会津武士道」の精神を持って奮闘努力した人びとの列伝を記す。町野主水、佐川官兵衛(警視庁)、山川浩、山川健次郎(東大総長)、松江豊寿、柴五郎(軍人)、山川捨松(大山巌伯爵夫人で「鹿鳴館の花」)、秋月悌次郎(倫理学教授)、池上四郎らが紹介されるが、ここでは略。

 

→「国家のために尽くすのは会津武士道の最終目標とするところです」(217ページ)と著者は書くが、「国家」を越えられないのが著者の限界だ。新渡戸稲造や内村鑑三も、著者と同じようにきわめて倫理的、精神的な武士道を語るが、国家の枠を飛び越え、人類普遍・世界普遍を見る、視野の広さがある。そこが違う。内村は『代表的日本人』の上杉鷹山の章で、上記の会津の殿様や家老に近い仁政を描いている。内村は西洋にも詳しく、上杉鷹山を説明するにあたりサヴォナローラやウィリアム・ペンを出す。内村は視野が広いからこれくらいは簡単にできる。これから先の人は、日本の先人を世界に紹介するためにもこれくらいできるとよい。そのためには視野の広さ、幅広い勉強が要る。また、内村は、返す刀で、明治以降の文明(カネ)崇拝を批判する。明治国家・勤王が至上の目的・絶対善、ではない。著者は、序章で、江戸以前の武士たちには「国家」への問いがなかった、と述べたが、さらに、「なぜ国家か」「なぜ勤王か」まで問えなければ、本当に問うたことにはならない。近代国民国家は、長い世界史の中で一時的に出てきたものであって、「国家が絶対」では決してない。水戸学の尊皇思想も儒学の長い歴史から見れば一時的なものでしかない。杜甫が詩に詠んだように、国が滅んでも山河は在り、民は生きねばならぬ。1945年にそれを我々は経験したはずだ・・・

 

読んでみよう

 

菅野覚明『武士道の逆襲』『本当の武士道とは何か』

本郷和人『なぜ武士は生まれたのか』

新渡戸稲造(にとべいなぞう)『武士道』

内村鑑三『代表的日本人』

小池嘉明(よしあき)『葉隠』

相良亨(さがらとおる)『武士道』『武士の思想』

『今昔物語集』

『平家物語』

『五輪書』

『葉隠』

『甲陽軍鑑』

『三河物語』

司馬遼太郎『峠』(小説)・・長岡を扱う

『軍人勅諭(ちょくゆ)』

夏目漱石『こころ』(小説)・・乃木希典(まれすけ)を相対化している。

芥川龍之介『将軍』(小説)

リフトン・加藤周一『日本人の死生観』から乃木希典の章

『国体の本義』

『終戦の詔勅(しょうちょく)』

坂口安吾(あんご)『堕落論』

植芝盛平(うえしばもりへい)『武産合気(たけむすあいき)』

内田樹(たつる)『修行論』                              (R6.10.12)