James Setouchi

2024.10.4

 

堀田善衛『断層』『黄塵』

 

1        堀田善衛(ほったよしえ)(1918~1998)

 富山県生まれ。石川県の中学校を経て慶應義塾大学法学部政治学科予科に進学。法学部政治学科に進むが文学部フランス文学科に転科。ボードレール、マラルメ、ランボーなどを愛読。卒業後は国際文化振興会、軍令部臨時欧州戦争情報調査局、東部第48連隊などに勤めるが、昭和20年3月国際文化振興会から中国に派遣された。6月中国国民党宣伝部に徴用された。昭和22年1月帰国。世界日報社に勤務(翌年社は解散した)。上海滞在時から小説を書き始め、戦後発表していった。代表作『祖国喪失』『歯車』『広場の孤独』(芥川賞)『断層』『時間』『インドで考えたこと』『黄塵』『海鳴りの底から』『風景異色』『方丈記私記』など。「いちばん遅くやってきた戦後派」などと言われる。各種国際会議を飛び回る、国際派でもある。(集英社日本文学全集巻末の小田切進作成の年譜他を参考にした。)

 

2 『断層』

 昭和27(1952)年発表。

 

(登場人物)(ヤヤネタバレ)

安野:日本人。敗戦後の上海で暮らしている。国民党政権の調査機関に徴用される。

大島健吉:上海で暮らす中国文学研究者。敗戦後の日本がどうなるかを憂え、酒を飲んで議論する。

林女史:北京の段祺瑞偽政府の周辺にいた。上海で暮らす。大酒飲み。やがて台湾へ。

劉青年:真面目な青年。安野に中国語を教える。急にいなくなる。

国民政府の調査機関の人びと:日本についてもよく知っており、安野を驚かせる。

白沫如:中国の作家。日本の作家たちが日本の民衆の痛苦を書かなかった、と怒る。郭沫若がモデルか。

冒頓:日本文学者の民衆に対する背信を怒る。茅盾がモデルか。

謝秀英:日本の警察での拘留体験を書いた本の著者。

   注:郭沫若(1892~1978),茅盾(1896~1981)

 

(コメント)

 安野は日本と欧米については知識があった。中国についてはよく知らなかった。ところが敗戦後の上海で出会った中国の知識人たちは、日本の知識人についての動静にも詳しく、詳細で確実な知識と判断の上に立って発言する。その姿に安野は打たれる。彼の世界地図の中に中国というものが確かに存在し始めた。

 

 日本の明治以降の知識人は、欧米に学ぼうとして、中国は劣位に見ていた節がある。(江戸時代まではそうではなかった。儒学と漢詩文の国として敬意を払っていた。)安野もその一人だったが、中国の知識人のありかたに接し、日本の知識人が民衆から浮いた存在だったこと、中国の知識人は侮れないことを、痛感した。安野にとっての「戦後」が始まっていく。これはまた堀田善衛の経験でもあったろう。

 

 だが、知識人と民衆はそのように断絶しているものであろうか? 

 戦後の大衆教育社会を生きてきた私にはもう少し実感がない。基礎教育が普及し、高校卒業者がほぼ全国で90%を越えたのは1970年。今や大学進学者は18歳人口の半数を超えているのではないか? 但し「ナンチャッテ大学生」が多数存在し、何ほどの学力もない高校生や大学生(日本国憲法前文くらいは読めて語れるべきだと思うが、できるのだろうか?)が、高校生や大学生のようなふりをして歩いている・・・だが、これはまた別の問題だ。

 

 戦前・戦中の日本はどうか。義務教育の小学校では「日本は神様が創った」と教え、大学では「石器時代というものがある」と教えたので、小卒の人と大卒の人では世界の見え方が全く違っていたであろう。すると、知識人と民衆の乖離、ということはあったかもしれない。戦時中は旧制中学でも勤労動員にばかり行ったので英語を教えない。陸士・海兵では英語を教える。しかもそれは情報収集など戦争に役に立つ英語でしかなく、アメリカやイギリスの大いなる伝統精神に敬意を払って学ぶ、というものではなかったかも? 昭和初めまでは辛うじていた、大学でしっかりした西洋の文学や哲学を学んだ人びとも、言論・思想の弾圧で黙らせられ、戦争に駆り出され、悩みながら死んでいった。あるいは、大政翼賛思想に加担した。

 

 中国ではどうか。私は詳しくないが、清朝末期から学校教育制度を取り入れたものの、内戦・日中戦争もあり、一般民衆が十分に勉強(学問)をする余裕はなかったかもしれない。すると知識人と一般民衆は大いに乖離していたかも知れない、と想像してみる。知識人のありかた、一般民衆に対する責任、を厳しく問う姿勢が、中国のエリートにあったのも、それゆえかもしれない。

 

 日本では、

 平安貴族は自分たちの世界に安住していたろう。

 江戸時代の武家階級=知識人階級は、朱子学を学び公的使命感を持っていたと思う。民衆も寺子屋などで識字率は高かったろうし、

 幕末豪農層も陽明学などを学習しその中から各種の運動が出てきた。渋沢栄一を見れば分かる。本作の中国の知識人に批判されるほど劣悪でもなかった、と私は感じている。

 明治以降自由民権運動大正デモクラシー運動平和運動などを行った人びともある。田中正造を見よ。

 軍産官学複合体ができてからはそれらは圧殺され、特に昭和前半では思想弾圧が激しかったので、まともな知識人は潰された。肉体派、反知性主義が日本を覆ったと言える。矢内原忠雄は東大を追われ、三木清すらも投獄された。プロレタリア作家たちは獄に入れられ、あるいは拷問死、あるいは転向させられ過酷な前線で諜報活動に従事させられる。保田与重郎や蓮田善明ら日本浪曼派が、奇妙な言い回しの文体で生き残る。これでは「民衆から遊離している」「民衆の解放に役に立っていない」と言われても仕方がない。私はそう思う。

 いや、この言い方では十分でない。民衆がファシズム(天皇制軍国主義)に熱狂したのだ。そうミスリードしたのは、軍産官学政の複合体であり、教育・マスコミがそのプロパガンダを担った。まともな知識人は潰された。また大政翼賛に絡め取られた。この言い方の方が正鵠を射ていそうだ。

 

 戦後は、その反省の上に立って、様々な努力がなされた。『思想の科学』『近代文学』『新日本文学』『世界』『リーダーズダイジェスト日本版』などの雑誌の試みや角川文庫創刊(1949年の第1回は『罪と罰』!)、また教育基本法制定、文部省による新しい学校教育の始まりなどは、その一つだろう。国家の学校教育の方針も変わったが、国家を相対化する民間ジャーナリズムも盛んになった、というわけだ。学校では小学校から弥生式土器を学習するようになった。「小卒の人間は兵隊か最底辺の労働者になったらいい」という思想は否定された。みんなが民主社会の担い手なのだ。柳田国男が言っている、田舎の小学校を訪ねると「本校からは学者が一人と陸軍大将が一人出ております」などと校長さんが自慢げに言うが、どんでもないことだ、大多数の普通の人びとにきちんとした教育を施し自分の頭で考え自分の口でものが言える民衆(国民)を育てないでどうする、と。柳田は正しい。戦後はそのつもりでやってきたはずだが。

 今、大衆教育社会と言われるが、果たしてまともな学力(学力とは何か?の問いも含め)を持った人間がどれほどいるか? 自分も含め、愚民化政策に踊らされていないか? 学力は国民の文化力、国力、国を超えて人類の文化力の基盤だ。有史以来(ソクラテスや孔子以来、と仮に言ってもよい)学力が人類の未来を切り開いた。間違った知識や技術の運用を批判して改めるのもまた学力だ。その強い認識のもとで学力を高めようとする人が(一定数以上存在するはずだが)どれほどいるだろうか?

 

3 『黄塵』(ネタバレ)

 昭和35年(1960年)発表。語り手は政治活動のために列車と宇高連絡船を乗り継いで四国へ。金比羅さん、多度津を巡るうち、昔生きていた人々の姿に思いを馳せる。明治、大正、昭和、敗戦。わずか一世代か二世代の間に歴史はやたらとぶった切りに切られている。いや、天井を眺めていると、祖先古人の顔が見えてくる。先祖とは一体何か? 民族か? 歴史はずたずたに断ち切られたわけではない。しかし、何というジグザクな入り組み方、混み入り方であろうか。恋人(?)の夜須高子はしきりに「政治って厭ねえ」「正義って厭ね」と言う。「あたしのお父さんは大連へ行っちまったのよ」「先祖はべつになんにもたすけに来てくんないよ」「あたしはむしろ、黄塵の方がなつかしいな」

 

 語り手は、時代・社会の急激な変化にも関わらず、昔確かに生きていた人びととのタテの繋がりはなくなってはいない、と考える。夜須高子は、先祖とのタテの繋がりよりも、中国大陸から吹いてくる黄塵(黄砂、か?)の方がリアリティを持って感じられる、とし、現代の国際社会におけるヨコの繋がりを実感している。私たちはこのようなタテとヨコの繋がりの交錯するところに生きている、という含意だろうか。戦前の教育を受けた人びとには、日本民族=同胞、という意識が強かっただろう。だが、同時に、国際社会(特に東アジア世界)との関係において私たちは生きている。

 

 1960年は60年安保条約(岸信介首相)の年で、韓国では李承晩が退陣、中国では1959年から劉少奇が主席だった。堀田善衛が中国大陸から吹いてくる「黄塵」に何を含意しようとしたかは私にはわからない。大きく、大陸との国際関係、という程の意味に取っておこう。(中国大陸からは、何千年もの間、黄砂が、文化・文明(コメ、ウマ、ウメの花、漢字、儒教、仏教、律令制なども含め)が、人間が、政治や経済の波が、この列島に押し寄せ続けてきた。その含意かもしれない。今日(令和6年)の強大化した中国の影響をいち早く予見していたととると、うがちすぎであろうか。)