James Setouchi

2024.10.4 

 

 礫川全次(こいしかわぜんじ)『日本人は本当に無宗教なのか』平凡社新書2019年10月

 

1 礫川全次(1949~):在野の史家。著書『サンカと三角寛』『知られざる福沢諭吉』『アウトローの近代史』『日本人はいつから働きすぎになったのか』『隠語の民俗学』『異端の民俗学』『サンカと説教強盗』『史疑 幻の徳川家康』『大津事件と明治天皇』『日本保守思想のアポリア』『独学で歴史家になる方法』など。

 

2 『日本人は本当に無宗教なのか』平凡社新書2019年10月

 日本人は無宗教だと言う人があるが、本当に日本人は無宗教なのか? 本当は「宗教的」なのかもしれない、という問いを持って、日本人が「無宗教」になったとすればそれはいつか、その「時期、その理由や背景について歴史的な考察を試みた」(11頁)書。日本の歴史、特に江戸以降に詳しく、学校であまり教わらない資料なども紹介しながら独自の考察を加えていく。ヒントに満ちており、日本人と宗教、倫理思想などに関心のある人が読めば大変面白いはずだ。著者の結論めいた内容については私は賛成しない(後で記す)が、途中の資料や視点は大変面白く拝読した。

 

 目次は次の通り。:はじめに/第一章 かつての日本人は宗教的だった/第二章 近世における「反宗教」と「脱宗教」/第三章 本居宣長と平田篤胤の思想/第四章 幕末に生じた宗教上の出来事/第五章 明治政府は宗教をいかに扱ったか/第六章 明治期における宗教論と道徳論/第七章 昭和前期の宗教弾圧と習俗への干渉/終章 改めて日本人の「無宗教」とは/あとがき

 

 いくつか記しておく。

 

(1)        北条重時家訓では僧侶とすれ違うときは武士は馬から下りるべしとしていた(39頁)。が、江戸期の林鵞峰によれば、僧侶は憎い、ただの人夫として使役してやりたい、という者も現われた(40頁)。江戸前期には「反宗教感情」が生まれており、それらが資本主義時代の「無神論的思潮」の前段階を形成した、と家永三郎を参照しつつ著者は述べる(41頁)。

 

(2)        本居宣長と上田秋成が論争した。宣長は、合理的な根拠もなく「皇国が万国にすぐれて高い」と主張する(50頁)。単なる思い込みであり、戦時中の皇国思想に直結する思想だ(53頁)。また、子安宣邦は宣長について「死の不安を抱き、救いを求める人びとの心を斟酌するような趣はいささかもありません」と述べる(56頁)。ここから著者は、宣長の学問や思想は「宗教」とは認めがたい、とする(57頁)。

→JS:これに対し私は、宣長は死の苦しみ(特に一人称の死や二人称の死についての苦しみ)の捉え方が弱い点については賛成だが、だから「宗教」とは言えない、とする点については反対だ。宣長も死後の世界、神などについて考察し一定の信仰を持っている。それも「宗教」だ。

 

(3)        水戸光圀(義公)は領内の寺を多数破壊した(78頁)。徳川斉昭は寺院の梵鐘や仏像を回収し大砲を鋳造した。明治初年や昭和戦中期の宗教政策を髣髴とさせる(79頁)。いわゆる「昭和維新」にも水戸学の思想的影響があるのでは(80頁)。

 

(4)        幕末の万延元年遣米使節の副使・村垣範正は、アフリカ西岸で黒人の姿を見て、「髪が縮れて少しも伸びず仏頭のようである」(82頁)とし、黒人の酋長と言ってよいシャカの真似をして黒髪を剃るのは愚かだ(83頁)と言っている。

→JS:これはひどい差別と偏見だ。幕府の高位の人でも、世界を知らないとこのような差別と偏見に陥ることがあるのだ、と私は感じた。

 

(5) 「ええじゃないか」運動は「討幕勢力が意図的に発生させた宗教現象=混乱情況」だと伊藤忠士が言うのは説得力がある(97頁)。権力による宗教利用だ(97頁)。

 

(6) 明治初年の廃仏毀釈は、権力が誘導し、一般民衆が積極的・主体的に参加した。民衆の「宗教」に対する意識は変わった。(106頁)

→JS:それは、伝統的信仰生活の破壊であり、文化の破壊だった、と私は見ている。安丸良夫(103頁)に賛成。

 

(7) ドイツのグナイストやシュタインの講義が、伏見宮貞愛(さだなる)親王(陸軍大将)や伊藤博文や海江田信義(薩摩出身で当時元老院議官)や丸山作楽(さくら)(当時宮内省図書助=ずしょのすけ)らに影響を与えたに違いない。伊藤博文は皇室制度を国家の基軸に置いた。(第五章)。

 

(8) オールコックによれば、武士階級は仏教に対して崇敬の念を欠いていた(142頁)。

→JS:私は反対。山岡鉄舟の剣禅一如をはじめ、禅宗などの宗教思想が日本文化の様々な場所に埋め込まれている。上杉謙信も武田信玄も仏教信者だ(是非善悪は別に考えるべきだが)。『葉隠』はこの世は夢幻だ、とするのも仏教的夢幻観の影響下にある。

 

(9) 福地桜痴は、日本の支配階層は因果応報を認めず無宗教の社会になってしまった、と言い、「仏教の修身」の方が「徳義の教育」よりも有効だ、とする(145~146頁)。

 

(10) 西村茂樹は、儒学や哲学を「世教」、仏教やキリスト教は「世外教」と呼び、日本の道徳学は「世界教」に拠るべきだとする(150頁)。井上哲次郎は当時の中学生に対し宗教を容易に信じてはいけない、と講話した(154頁)。織田萬(行政法学者)は神道は宗教ではないとし、しかし政府権力が支持することは出来ない、とした(159頁)。

 

(11) 明治27,28年頃、全国一斉に盆踊りが禁止された。が十年を待たずして解除された(167頁)。

 

(12) 国家が「ひとのみち教団」を弾圧したとき、戸坂潤はその弾圧を批判した。天皇機関説事件、國体明徴声明、思想犯保護観察法公布などの中に、戸坂は国家における宗教主義を読み取ったに違いない(191頁)。

 

(13) 1965年の三重県の津地鎮祭について、違憲訴訟がなされ、1977年最高裁は、この地鎮祭は「習俗的行事」であって「宗教活動」には該当しない、と判決を下した(222頁)。「手水の儀」「清祓いの儀」を含む地鎮祭を「宗教」でなく「習俗」とする最高裁の感覚には驚かざるをえないが、日本人の「無宗教」性と通ずるものがあるかもしれない(223頁)。

 →JS:但し、愛媛玉串料訴訟については、1997年に最高裁は違憲であるとの判決を下した。すなわち、単なる社会的儀礼を超えて特定の宗教団体に対して公費(税金)から玉串料を奉納することは政教分離原則にたいする違反である、とされた。政教分離の原則から、政治家が靖国神社に公式参拝するのは不可。伊勢神宮でも同じ。(私的参拝は可。自由時間に、公用車ではなく電車やバスに乗って、ポケットマネーからお賽銭を出すのは、信教の自由があるから、構わない。公式参拝が不可。)

 

3 問題点

 この本の最大の問題点は、「宗教とは何か」のきちんとした定義をしないままで議論を進めていることだ。

 

 宗教に高邁な理想を求める人もあって理解できないわけではないが、国家神道や民間祭祀は「宗教」とは言えず単なる「年中行事」「儀礼」「習俗」にすぎない、とした場合、特定の神社(や寺院あるいは教会やモスク)の「年中行事」「儀礼」「習俗」に政府閣僚を挙げて参加し公費を支出して構わない、という論理に利用されてしまう。次に来るのは、自分たち以外の特定の(あるいは他の多くの)「宗教」は公の場から排除すべきだ、ひいては弾圧すべきだ、という排除・弾圧の論理だ。明治初期の西村茂樹や井上哲次郎、また国家神道(その淵源は本居宣長など)がまさにこうした排除の論理を持っていた。これは信教・思想・信条の自由、政教分離、多様な価値観の共存・共生などの理想からして容認できない、と私は考える。

 

 宗教とは何か? 死後の世界、目に見えない(科学で検証できない)世界、世俗的な人知を超越した神仏や鬼神、怨霊の世界に触れるものは全て宗教だ、と考えるべきだ。初詣で、春秋のお祭り、お盆、お彼岸、葬儀、年忌法要などでは、神仏や死後の世界に対する畏敬の念を持って行っているのだから、宗教であって、非宗教のイベントとは言えない。ひな祭りや端午の節句、合格祈願、七五三、お守り、お札、おみくじ、お祓い、言霊(ことだま)、たたりなどなどについても、敬虔な気持を持ち、見えない神仏や霊の力を畏敬し祈りつつ行っているのであるから、広く言って宗教である。科学的合理主義の立場から見れば「証明できない」と言われることのオンパレードだ。つまり日本人は、十分に「宗教」的で信心深い人々なのだ。「宗教」的でないとは言えない。 あるイスラム教徒が日本人を見て言った、「日本人は我々よりも宗教的だ」と。みなさんは、どう考えるだろうか?

 

(十代で読める哲学・倫理学、諸思想)プラトン『饗宴(シンポジオン)』、マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』、『新約聖書』、デカルト『方法序説』、カント『永遠平和のために』、ショーペンハウエル『読書について』、ラッセル『幸福論』、サルトル『実存主義はヒューマニズムである』、ヤスパース『哲学入門』、サンデル『これからの「正義」の話をしよう』、三木清『人生論ノート』、和辻哲郎『人間の学としての倫理学』、古在由重『思想とは何か』、今道友信『愛について』、藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』、内田樹『寝ながら学べる構造主義』、岩田靖夫『いま哲学とは何か』、加藤尚武『戦争倫理学』、森岡正博『生命観を問いなおす』、岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』などなど。なお、哲学・倫理学は西洋だけではなく東洋にもある。日本にもある。仏典や儒学等のテキストを上に加えたい。『スッタ・ニパータ』、『大パリニッバーナ経』、『正しい白蓮の教え(妙法蓮華経)』、『仏説阿弥陀経』、法然『選択本願念仏集』、聖覚『唯信鈔』、道元『宝慶記』、懐奘『正法眼蔵随聞記』、唯円『歎異抄』、『論語』、『孟子』、伊藤仁斎『童子問』、吉田松陰『講孟劄記(さっき)』、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』、柳田国男『先祖の話』、相良亨『誠実と日本人』、菅野覚明『武士道の逆襲』などはいかがですか。 (R3.4)