James Setouchi

2024.10.1

 

 説経節『さんせう太夫』『あいごの若』

 

 説経節とは。1600年頃に盛ん。前史は高野聖や歩き巫女(みこ)の宗教色の強い語りか。本地物(ほんじもの)が多い。ここの地蔵尊やあそこの八幡様は神仏になる前人間時代にこう苦しんだなど。街頭で語られたがやがて劇場にも進出。おおから傘を差し簓(ささら)で音を出す。のちには菅笠をかぶり胡弓(こきゅう)や三味線を弾くなど。寺院の「説教」はバックに寺院があるが、「説経」の方はいわゆる『土民下臈(どみんげろう)』の類が支持者だった。ささら乞食が語った。代表作は『あいごの若』『まつら長者』『をぐり』『かるかや』『さんせう太夫』『しんとく丸』など。古典文学全集で読める。

 

 『さんせう太夫』:森鴎外の『山椒大夫』と比較。

 森鴎外の『山椒大夫』は、安寿(あんじゅ)は厨子王(ずしおう)のために入水。厨子王は国主となり山椒大夫に復讐しない。山椒大夫一族は奴婢を解放し富み栄える。厨子王の母親は佐渡に居た。父・正氏は亡くなっていた。

 

 説経節『さんせう太夫』では、姉は「邪見なる三郎」により責め殺される。つし王は国司となりさんせう大夫と「邪険なる三郎」に残酷な復讐をする。太郎と二郎はつし王に善行をしていたので許されかえって栄える。つし王の母親は蝦夷(えぞ)(北海道!)に居た。父・岩城殿は生きていた。肌守りの地蔵尊は金焼地蔵となる。

 

 森鴎外の描写はうまく、結末も穏当だ。いかにも教科書に載せてよい内容になっている。姉と弟、母と子の情愛が前面に押し出され、家族愛の物語になっている。

 

 他方、説経節の方は大変残酷な結末を用意しており、衝撃的だ。恩も返すが復讐もするとは。人がむやみにたくさん死ぬ。当時の人はこういう物語を欲したのか、あるいは戦国時代に人が多く死に過ぎたのでこれくらいは平気なのか。今は平和でよかったが、今も世界で殺し合いはあるし、日本でも殺し合いの時代も長くあった。戦国時代や戦争の時代を経て、もう殺し合いは嫌だ、という人びとの感情が熟成して、平和な徳川時代(刀狩から元和堰武まで)や戦後の平和を作り出したのだろう。西洋でも同様だ。

 

2 説経節『あいごの若』は、左大臣・清平殿が持ち物自慢をする。対抗して六条殿が子宝自慢をする。清平殿は妻と初瀬観音(はつせかんのん)に祈願し子を授かる。これがあいごの若だ。それから十三年、母親が油断して初瀬観音の悪口を言ってしまい観音の怒りを誘い亡くなる。清平殿は若い後妻・雲居の前と再婚する。雲居の前は継子のあいごの若に横恋慕し、叶わぬと知ると陰謀より父子の仲を裂く。あいごは木に吊るされるが、それを冥土(めいど)から見ていた実母が閻魔(えんま)に頼みいたちの姿を借りてこの世に現れあいごを助ける。あいごは実母の兄である比叡山(ひえいざん)の阿闍梨(あじゃり=高位高徳の僧)のもとを頼ろうとするが、信じてもらえず打擲(ちょうちゃく)される。すごすごと引き返すあいご。途中で助けてくれる民間人もあったが、結局あいごはきりうの滝に身投げする。その際真実を指の血で書き付ける。真実を知った阿闍梨と父親(清平殿)は苦しみ、あいごを陰謀にはめた雲居の前とその従者を殺す。きりうの滝で阿闍梨が法力を発揮すると16丈の大蛇が現れあいごの体を投げ出す。大蛇は雲居の前の変化したものだった! 悲嘆した父・清平殿は入水する。阿闍梨も入水する。続く人々も入水し、108人が集団自殺した。あいごは山王大権現(さんのうだいごんげん)となった。

 

 これは衝撃の結末だ。108人の集団自殺とは。それにしても、貴族同士のプライドのはりあい、観音様への祈願、父親の再婚と若い第二夫人の横恋慕、思い通りにならないと陰謀を巡らせて追い落とすなどなど、今日の通俗テレビドラマの要素がしっかりと入っているではないか。しかも最後は大蛇になって殺した恋人を水中に引き込むとは。しかも108人の集団自殺とは! 現代のライトノベルならどうであろうか。

 

 あいごは、何も悪くないのに苦しみの果てに死んで神になった。これはイエスと同じだ、と指摘する人がある。所謂キリシタンが入ってきて影響を受けたのか、日本人の中で思想が深まって独自にこういう作品が出てきたのかは分からない。最も清らかで罪のない存在が苦しみ抜いて最も悲惨な死を死ぬ。そして神になる。このストーリーに対して、あなたはどう考えるか?  

                                H31.1