James Setouchi

2024.10.1

 

  道元『宝慶記』大谷哲夫訳注 講談社学術文庫2017年

 

1 道元(1200~1253)

 正治2(1200)生まれ。父は内大臣久我通親、母は前摂政関白藤原基房(松殿)の娘・伊子。(なお俗説ではこの伊子は大変な美女でかつて木曽義仲が自分のものにしていたと言う。)

 両親の死を経て無常観が芽ばえ13歳で比叡山に入る。

 天台教学や密教を学ぶが飽き足りず、三井寺の座主・公胤の紹介で建仁寺の栄西に会う。栄西(当時74歳、道元15歳)はかつて宋にわたり禅宗(臨済禅)を日本にもたらしていた。

 承久の乱(1221)を経て栄西の弟子の明全と道元は宋に渡る(注1)

 道元は寧波(明州)の港で年老いた食事係の僧に出会う。また天童山でも年老いた食事係の僧に会う。そこで「他人ではなく自分が、別の日ではなく今、実行することが修行なのだ」と学んだと言う。宋(当時は南宋)(注2)で明全は没したが、道元は修行に打ち込み、1225年天童如浄という優れた師匠に出会う(注3)。如浄64歳、道元25歳だった。そこで道元は「身心脱落」の境地を得、如浄から正式の後継者とみなされる。

 帰国(注4)後、京都→伏見の深草→福井で修行し、かつ弟子を育てた。福井に今の永平寺のもとを築いた。(現在の巨大な永平寺は後世に建てられたもので、道元のときはそうではなかった。)

 道元の日本曹洞宗はその後発展した。例えば駒沢大学は曹洞宗の系列である。道元の禅の教えは日本人の精神性に大きな影響を与えている。著書『正法眼蔵』のほか『永平広録』『普勧坐禅儀』『永平清規』『宝慶記』など。(「あとがき」他からまとめた。)

 

2 『宝慶記』

 道元の著作と言うと『正法眼蔵』を読むべきだろうが難しい。そこで弟子の懐奘(えじょう)の『正法眼蔵随問記』から入ると入りやすい。またこの『宝慶記』も入門の手掛かりとしてはよいかもしれない。道元は南宋の天童如浄に出会い、個人的に教えを乞うた。その時のメモを感動を込めて日記風に書き留めていたものを、自分でまとめ直そうとしたか、あるいはまとめずにいたものを懐奘が発見して清書したかしたものがこの『宝慶記』と言われる。読んでいると、先進文明国である南宋に留学し最高の教え(釈尊以来の正伝の仏教)に出会えた(と信じた)若き道元(20代)の高揚感が伝わる。

 

3 内容からいくつか(原漢文)

(1)「本師堂上大和尚禅師、大慈大悲、哀愍(あいみん)して道元が道を問い法を問うことを聴許したまえ。伏して冀(こいねが)わくは慈照。小師道元百拝叩頭(こうとう)して上覆す。和尚示して曰く、元子が参問は今已後、昼夜の時候に拘らず、著衣衩衣(じゃくえしゃくえ)、而も方丈に来りて道を問うに妨げ無し。老僧、親父のこの無礼を恕(ゆる)すに一如せん。」(25ぺ)(道元が個人的に質問に行くことを願うと、如浄先生はいつでも私の部屋にきなさいと言ってくれた。)(現在であれば、日本人留学生がボストン大学の学長の部屋に個人的に質問に行くのを許可されたくらいのすごい話ではないか。)

 

(2)(如浄)「参禅は身心脱落なり。焼香・礼拝・念仏・修懺(しゅさん)・看経を用いず、祇管打坐(しかんたざ)のみ。」(道元)「身心脱落とは何(いか)ん。」(如浄)「身心脱落とは坐禅なり。祇管に坐禅する時、五欲を離れ、五蓋を除くなり。」(106ペ)(「坐禅で大事なのは身心脱落だ。・・ひたすら坐禅する時、五つの欲望と五つの煩悩を離れることができる。」と如浄は言った。)(これが日本史・倫理で学習する「只管打坐」だ。道元はひたすら坐禅することを如浄から学んだ。「ひたすら坐禅」をあなたはどう考えるか?)

 

(3)(道元)「縦(たと)い一言半句なりと雖(いえど)も、道理を説了せば了義と名づくべし。如何(いかん)ぞ唯(ただ)広説のみを以て了義と名づくるや。縦(たと)い説くこと懸河の弁なるも、若(もし)未だ義理を明らめずんば、須(すべから)く不了義経と名づくべきか。」(如浄)「汝の言うこと非なり。世尊の所説は、広略俱(とも)に道理を尽くす。・・乃至(ないし)聖黙聖説皆な是れ仏事なり。・・見聞するに衆生(しゅじょう)は俱(とも)に利益を得るなり。所以(ゆえ)に須(すべから)く知るべし、皆了義なり。・・」(124ペ)(「了義経・不了義経の区別にこだわるお前はまちがっている。釈尊の説くところは全て道理を尽くしている。・・また解かずに沈黙しているところも説いたところもみな仏事だ。・・ゆえに、釈尊のなされることはすべて了義だと知るべきだ。」と如浄は教えてくれた。)(如浄は道元をここでたしなめている。お経に書いていること、釈尊の事跡、仏事の全てが衆生にとって利益となる尊いものだ、と。)(注5)

 

4 訳注者

 大谷哲夫:1939年生まれ。早大(一文)(東洋哲学)、駒澤大学博士課程(仏教学)を経て駒澤大学教授、学長、曹洞宗総合研究センター所長など。                  (R1.12)    

 

注1:栄西と明全は道元の師匠筋に当たることになる。

 

注2:当時南宋の禅宗は、大慧宗杲(だいえそうこう)らの看話禅(かんなぜん)の流れと、宏智正覚(わんししょうがく)らの黙照禅(もくしょうぜん)の流れが二大潮流だった。前者は貴族や官僚と結び俗化していたが、如浄は後者に属し、中国曹洞宗の古風な禅を継承し実践していた(290~293ペ)。

 

注3:如浄は次のような人物だったと言う。「私は19歳のときから、一日一夜も坐禅しない日はなかった。また、私は住持となる前から、故郷の人と話をしたことがない。参禅のための時間が惜しいからである。修行中は、自分の足を留めた僧堂から出たこともなく、老僧や役僧たちの居所へもまったく行ったことがない。ましてや物見遊山をしたりして修行のときを無駄にしたこともない。禅堂や、あるいは坐禅のできる静かな高い建物の上や物陰などを求めて、一人で静かに坐禅をした。そして、いつも思っていた。釈尊の極められた金剛坐を守り抜くのだ、と。ときどき尻の肉が爛れて破れることもあったが、そういうときには、なおさら坐禅に励んだものだ。」(『正法眼蔵』「行持」巻)(本書293~294ペ)

 

注4:如浄は道元に次の指示を与えたと言う。「国に帰って化をしき、広く人天を利せよ。ただしその際、城邑(じょうゆう)、聚楽に住してはならない、国王大臣に近づいてもならない。ただ深山幽谷に居して一箇半箇を接得し、吾が宗を断絶させないように」(308ペ)

 

注5:上記書き下し文は学校の漢文で学ぶものとやや異なるが、ここでは本の通りとした。訳は大略。

 

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                         (R1.12)