James Setouchi

2024.10.4

 

宮元啓一『ブッダが考えたこと 仏教のはじまりを読む』角川文庫 2015年

 

1        著者 宮元啓一:1948年生まれ。國學院大學特任教授。東大文学部、大学院に学び、文学博士。インド哲学、仏教学が専門。著書『仏教の倫理思想』『仏教誕生』『インド哲学七つの難問』『わかる仏教史』『仏教かく始まりき パーリ語仏典「大品」を読む』『インド最古の二大哲人 ウッダーラカ・アールニとヤージュニャヴァルキャの哲学』など

 

2 『ブッダが考えたこと 仏教のはじまりを読む』角川文庫 2015年

 もとは『ブッダが考えたこと これが最初の仏教だ』(春秋社、2004年)だが、改題・加筆修正した。目次は次の通り。

 

はじめに/第一章 仏教誕生の土壌―輪廻思想と出家/第二章 苦楽中道―いかに苦しみを滅するのか/第三章 全知者ゴータマ・ブッダの「知」/第四章 無意味な生を生きるー修行完成者の歩む道/第五章 苦、無常、非我とは何か/第六章 非人情、すなわち哲学/おわりに

 

 内容からいくつか。

 

 著者は、ゴータマ・ブッダの教えの研究については、多くの(大乗仏教の)各宗派の研究者たちは、自派の教義にひきつけて解釈せざるを得ないので、誤った理解をしている、と指摘する(8頁)。対して自分は「仏教に深い共感を持つアニミスト」(9頁)であり、「信の立場からではなく、哲学、倫理学の立場から」「最初の仏教」に深い関心を抱く(11頁)とする。著者によれば、「仏教は、いきなり完成した哲学・倫理学を説くものとして成立した」のであり、「ゴータマ・ブッダは、インドが生んだ数いる天才の中でもとびきりの天才の一人」である(12頁)。

 

 仏教は本来輪廻思想を否定するものだった、とは日本の知識人の中では浸透している考え方だ(18頁)が、誤りだ。仏教が誕生したときその土壌となるインド思想においては、輪廻思想が重要だった(21頁)。素朴な輪廻説が非アーリア先住民族の間で古くからあり、クシャトリア階級はこれを摂取していた(23頁)。そこからいかに解脱するか? が重要なテーマだった。ブッダ(著者は「ゴータマ・ブッダ」と表記するが、ここでは簡略化のため「ブッダ」と表記する)以前のヤージュニャヴァルキャ(前7世紀頃)は輪廻からの解脱のために出家を説いた(37頁)。ブッダも同じ(43頁)。ブッダは苦行を経て、苦行を捨てる、苦楽中道の道を選んだが、輪廻の究極の原因は欲望ではなく、さらにその億に「渇愛」「無明」すなわち根本的な生存欲がある、と気付いた。ここにブッダの天才的な発見があった(72頁)。これを滅するには(思考停止型の瞑想ではなく)「徹底的に思考する瞑想」(75頁)によって修行する。こうしてブッダは「目覚めた人、ブッダ」になった。「悟った人」と訳するのは不適、と著者は言う(113頁)。ブッダは沈黙していてもよかったが、ブラフマン(梵天)の勧めで教えを説くこととした(134頁)。弟子が増え教団が発展するとルール(律)が必要になったが、規律は緩やかだった(146頁)。デーヴァダッタ(提婆達多)は反対に厳格主義者で、賛同者が多くいて、教団は分裂した(151頁)。デーヴァダッタの教団は唐代まで存続したが、小規模にとどまった(152頁)。アーリヤ人は死者の国で楽しく生きられると考え、再生ではなく再死を恐れるあまり、因果応報思想を編み出した(154頁)。そこに先住民族由来の輪廻思想が合体した(155頁)。そのサイクルから脱出するために解脱の思想が生まれ出家という存在が出現した(158頁)。ブッダは苦楽中道、八聖道、四聖諦、十二因縁説を説いた(158~175頁)。十二因縁説を後世の創作とする意見があるが、そうではなく、ブッダの独創だ(176頁)。ブッダは「五蘊非我(ごうんひが)」は説いたが「無我」は説かなかった(207~208頁)。ブッダは四無量心を説いた。その最後は「捨」であり、「非人情」(224頁)、「世界への究極の無関心」(225頁)だ。ブッダは、自然な人情を超越した、哲学者だった(231頁)。

 

3 コメント

 釈尊の本当の教えとは何であるか? に関心を持つが、何を読んでも議論百出で混乱するばかり、という経験を持つ人も多いだろう。著者は、後世の解釈や宗門の解釈にとらわれず、ブッダの当時の思想的状況を踏まえた上でブッダの教えを読み解くべきだ、とする。その過程で、宇井伯寿、和辻哲郎、玉城康四郎、中村元ら碩学の主張を遠慮会釈なく批判している。その説の当否は知らない。が、ブッダ以前の思想家などについて詳しく、面白い本だ。

 

 だが、著者の結論に従えば、ブッダの目指すところは、「根本的な生存欲」そのものの消滅、「非人情」と「世界への無関心」の境地にあることになる。つまり生きるのをやめて餓死すればよい、ということになるのだろうか? 私自身は、著者も批判する大乗仏教の枠組みの中にあってブッダを捉えてきたので、大変違和感のある結論だ。

 

 もちろん、地位や名誉や財産や自分がこれこそ自分だと思い込んできたキャリアやアイデンティティが、実は自分そのものではなく、どこかで形成された奇妙な執着でしかなかった(「非我」だった)、ということはある。そこから解放されたとき、人はもっと自由に豊かに公平に世界を見渡し生き直すことが出来る、ということはある(注1)。だが、そのためには私たちは「根本的な生存欲」そのものを断滅するのではなく、生きてあることを肯定することから出発するしかないのではないか。私たちはこの世界への関心・関与、換言すれば他者への共感(人情、と言ってもよい)があってはじめてよりよい人生を生きうるのではなかろうか。(注2)著者も紹介する「四無量心」とは、「慈」「悲」「喜」「捨」の四つの無量心である。著者はこのうち「捨」を取り挙げて解説しているため、「慈」「悲」「喜」の三者の比重が軽いように感じられる。これらは「えてして人情絡みになり、執着心と区別がつけられない事態に陥りやすい」から「捨」が必要だ、と著者は位置づける(224頁)。「捨」すなわち非人情、換言すれば自己の私情を相対化する視点を持ちつつ(私心を捨てて公平公正に)、「慈」「悲」「喜」を生かしてゆく、と書いてくれればよかったのに、と私は感じた。

 

 著者はもしかしたら、ヴィトゲンシュタインらの、宗教や形而上学を排除する論理至上主義的な哲学学派の影響を受けているから、「非人情」「世界への無関心」にとどまってしまったのではなかろうか? だが、論理が排除する、宗教や形而上学の世界にこそ、人間の求める救済はあるかも知れないのに、と私は感じた。あなたは、どう考えるか?

 

(注1)NHK『知恵泉』の吉田兼好の回(R3.5)では、兼好は出家という形で世間といったん距離をとって自分の時間をつくり、その間に実力を蓄えて次の世俗社会でのステップアップに使った、と紹介していた。根本の動機に利己的な立身出世があるとしたら、兼好はつまらない人物だった、ということになる。

 

(注2)著者は漱石『草枕』の「非人情」と晩年の「則天去私」を引き合いに出すが、漱石『道草』の主人公は「遠い所から帰ってきた」男だ。「遠い所」とは(漱石で言えばロンドンかもしれないが)「非人情」の『草枕』的立場の謂であり、健三はそこから人倫社会へと帰ってきた、と解釈できる。「則天去私」も憧れの東洋的境地ではあっても、『明暗』の津田が生きるのはあくまでも現実の人倫世界だ。   

                               (R3.5.15)

 

(十代で読める哲学・倫理学、諸思想)

プラトン『饗宴(シンポジオン)』、マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』、『新約聖書』、デカルト『方法序説』、ボルテール『寛容論』、カント『永遠平和のために』、ショーペンハウエル『読書について』、ラッセル『幸福論』、サルトル『実存主義はヒューマニズムである』、ヤスパース『哲学入門』、サンデル『これからの「正義」の話をしよう』、三木清『人生論ノート』、和辻哲郎『人間の学としての倫理学』、古在由重『思想とは何か』、今道友信『愛について』、藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』、内田樹『寝ながら学べる構造主義』、岩田靖夫『いま哲学とは何か』、加藤尚武『戦争倫理学』、森岡正博『生命観を問いなおす』、岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』、斎藤幸平『人新世の「資本論」』などなど。なお、哲学・倫理学は西洋だけではなく東洋にもある。日本にもある。仏典や儒学等のテキストを上に加えたい。『スッタ・ニパータ』、『大パリニッバーナ経』、『正しい白蓮の教え(妙法蓮華経)』、『仏説阿弥陀経』、空海『三教指帰』、法然『選択本願念仏集』、栄西『興禅護国論』、道元『宝慶記』、懐奘『正法眼蔵随聞記』、唯円『歎異抄』、『論語』、『孟子』、伊藤仁斎『童子問』、吉田松陰『講孟劄記(さっき)』、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』、相良亨『誠実と日本人』、菅野覚明『武士道の逆襲』などはいかがですか。