James Setouchi

2024.10.1

 若松英輔『日本人にとってキリスト教とは何か』NHK出版新書(2021年9月)

 

 「日本人にとってのキリスト教」についての知識を歴史的に網羅して概観する本ではない。若松英輔が、遠藤周作の小説『深い河』を、深く読み取って解釈し、キリスト教(いや、世界の宗教)と日本人の最も深いところで響き合う世界を描き取ろうとした本だ。『深い河』の表面的で辞書的な概説ではなく、カトリック信徒でもある若松英輔が『深い河』を体読・心読(いや、魂読と言うべきかもしれない)する。行間に深い悲しみ(愛する人を失った悲しみ)と救いがあふれ出している、と言うべきか。若松英輔の信仰告白の書とも言える。この本は簡単に読み飛ばすことはできない。一節一節深くかみしめながら体読・心読・魂読すべき本だ。平たい言葉で書いてるが、内容は深い。例えば、

 

・イエスの誕生は聖書には12月25日とは書いていない。これは文献学的知識から言えば常識だ。だが、その知識を得意げに振り回し宗教を冷笑すべきか? 若松は言う、「イエスの誕生を『冬』に据えた。これがキリスト教の霊性です。」(55頁)「冬は、人々が太陽を切望する季節」であり、光を求めるように神を求める。」「そのためにも私たちはいつも、自分のなかに『冬』を感じていなくてはならない。キリスト教の伝統はそう語っているのかもしれません。」(56頁)ここを、単に護教的な発言と見るか、若松の深い信仰心の表れとみるか。本書には同じモチーフが(交響曲のように)繰り返される。

 

・『深い河』にはチャームンダーというインドの苦しみの神が出てくる。自らも苦しみながらそれでも幼子に乳を与える、共苦の神チャームンダーは、インドの路上で行き倒れた老婆であり、聖母マリア(我が子が十字架上で処刑された、悲しみの人)でもある。マリアの「清らかさ」は、「幾多の悲しみと苦しみによって深められた「清き」ものなのです。」(184頁、193頁)。若松は、柳宗悦(やなぎむねよし、民藝運動で有名)の言葉(信仰は慈しみに充ちる観音菩薩を「悲母観音」と呼ぶ、「悲母阿弥陀仏」という言葉もある、マリアは「悲しみの女」でもある)(184頁)をも引用する。

 

・「究極的実在者と呼ぶべきものは、…それぞれの時代、文化に応じた姿で顕現する。当然、人間の応答も一様ではない。しかし、その異なる姿をした究極的実在者も一つの淵源から生まれたものではないか」(222頁)というジョン・ヒックの宗教多元主義を若松は紹介する。皆さんは、どう考えるだろうか。

 

・他にも、井筒俊彦、井上洋治神父、九鬼周造、岩下壮一、エックハルト、モーリヤック、ドストエフスキー、教父アウグスティヌス、玉城康四郎(インド哲学者)、吉松義彦、堀辰雄、越智保夫(評論家・詩人)、マザー・テレサ、ガンディー、ビード・グリフィス(ベネディクト会)などなどにも言及する。当然イエスにも言及する。

 

1 若松英輔:1968年新潟県生れ。慶応大学仏文科卒。批評家、随筆家。東京工大教授。著書『叡智の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』『小林秀雄 美しい花』『イエス伝』『内村鑑三』『14歳の教室』『詩と出会う 詩と生きる』など。(新書の著者紹介から)

 

2 遠藤周作:1923~1926。東京生れ、大連や神戸で育つ。一時上智大予科で学ぶが三浪後慶応大仏文科へ。戦後フランス留学。作家。代表作『白い人』(芥川賞)、『海と毒薬』、『沈黙』、『侍』、『深い河』など。『死海のほとり』『イエスの生涯』『それ行け狐狸庵』などの著作もある。

 

3 『深い河』:1993(平成5)年刊。遠藤が70歳の時だ。遠藤は今までの人生の総決算として書いているだろう。私はかつて表面的にこれを読んだに過ぎないが、この若松英輔の解釈を読んで、考えを改めた。

『深い河』には複数の主要人物が出てくる。それぞれに悲しみ、苦しみを背負って生きている。

磯部:妻を亡くし、妻の遺言により、妻を探す旅に出る。

美津子:自分という存在が分からずインドへの旅に出る。

沼田:孤独で、犬や九官鳥に慰めを見いだす。

木口:ビルマ戦線で人肉を食ったことに苦しむ。

大津:神父を目指すが、今はインドで死体運びをしている。この本も読んでみよう。 R5.1.15