James Setouchi
2024.10.1
『北村透谷選集』岩波文庫他
*北村透谷(きたむらとうこく)
明治元(1868)年小田原生まれ。明治14年東京に転居、自由民権運動に覚醒(かくせい)。東京専門学校(現早稲田大学)政治経済学科に学ぶ。三多摩(東京の西部)で自由民権運動の宣伝活動に従事したと言われる。自分の所属するグループが過激化するのにともない運動からドロップ・アウト。石坂美那と激しい恋愛に陥り、結婚。またキリスト教に入信。詩『楚囚之詩(そしゅうのし)』『蓬莱曲(ほうらいきょく)』を創作、また雑誌『女学雑誌』に拠(よ)り文学・社会評論を書く。日本平和会の雑誌『平和』編集者兼主筆となる。文芸誌『文学界』創刊、盛んに評論活動を行う。明治女学校の教師をしたりもした。明治27(1894)年死去。日清戦争開戦の直前である。島崎藤村はじめ多くの人に影響を与えた。(角川書店の日本近代文学大系9の佐藤善也編の年譜を参考にした。)
*北村透谷のどこを評価するか? と言われれば、評価する人の観点によって多様な評価がなしうる。透谷がさまざまな先駆(せんく)的な挑戦を行いつつも、若くして死んでしまったので、この若い未完の天才に誰もが自分の期待をこめて評価したがるからである。
国語・文学の観点で言えば、島崎藤村(とうそん)ら明治浪漫(ろうまん)派に圧倒的な影響を与えた。透谷の詩業を藤村はある形で継承し明治30年詩集『若菜集(わかなしゅう)』を出した。これは日本近代詩を確立した詩集と言われる。藤村はまた透谷らと過ごした明治20年代の日々を小説『春』に書いている。
恋愛論の観点から言うと、石坂美那と激しい恋愛を行った。熱烈なラブレターも書いた。言わば日本最初の近代的な恋愛結婚を実践(じっせん)した人物として挙げられる(日本にそれまでも「色恋」や「恋心」はあったが、真に精神を伴う近代的恋愛は、透谷をもって最初とする、云々)。その恋愛結婚の行方も気になるところだ。
昭和初めの日本浪漫派の人々は、北村透谷を反西洋近代・日本精神主義の思想の持ち主とみなしていたようだ。北村透谷賞という文学賞もあった。
戦後の文学研究者の間では、透谷が自由民権運動から挫折し「政治から文学へ」と大きく展開する中で、真の近代精神とは、近代的自我とは、近代文学とは何か、を思想的に問おうとした点を高く評価する。高校倫理の教科書に載(の)っているのも、恐らくこの文脈だろう。
最近の平和学では、日清戦争以前に平和運動をした、言わば日本の平和主義・平和運動の先駆者として透谷を評価する。
いかがですか? みなさんは北村透谷という名前をあまり御存じなかったでしょうが、すごそうな人らしいということだけは感じていただけたでしょうか。
*お薦めする評論(どれから読んでもよいが、例えば以下のものからお試しください。)
『人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ』:「事業」を重視する山路愛山(やまじあいざん)(当時のメジャーな評論家)の『頼襄(らいじょう)を論ず』に猛烈な批判を加えたもの。「極めて拙劣(せつれつ)なる生涯の中に、尤(もっと)も高大なる事業を含むことあり。」「彼に一生は勝利を目的として戦はず、別に大に企図するところあり、空(くう)を撃ち虚を狙(ねら)ひ、空の空なる事業をなして、戦争の中途に何(いず)れへか去ることを常とするものあるなり。」と透谷は叫ぶ。真の精神的戦いは、すぐ世の中の役に立つ・目に見える成果がある、といった次元を超えたところにある、と言いたいのであろう。これは例えば内村鑑三の『後世への最大遺物』にも通ずるものがある。世俗の視点を超えた第三者(客観的超越者、つまり神のようなもの)の視点を考えればわかりやすい。
『内部生命論』:人間は内部に生命を有した存在だ、という主張は、上の『人生に相渉るとは・・』の主張を深めれば当然到達する思想だろう。透谷の偉さはこの思想にある、と私は考えるのだが、どうだろうか。
『漫罵』:高校の教科書に時々載っている。中村光夫の「『移動』の時代」でも中心に据(す)えられている。「今の時代は物質的革命によってその精神を奪われつつある、革命ではない、移動に過ぎない」と激しい調子で同時代を批判したもの。
*実は透谷は精神的戦いに疲れ果て自殺した。日本はすぐ日清戦争に突入しあとは御存じの通り大日本帝国が強固な形で成立する。遺された美那は単身アメリカに留学し帰国して英語教師となる(新時代をたくましく生きた女性の一人とも言える)。遺された娘・英子(ふさこ)はどうなっただろうか。透谷も偉大だったし美那も偉かったのだが、幼い英子から見た明治近代日本とは一体何だったのだろうか。私はこのことを思わずにいられない。
H22.10