James Setouchi
2024.10.1
伊藤仁斎『童子問』岩波文庫、岩波古典文学体系97等で読める
1 伊藤仁斎(1627~1705)
江戸時代の儒者。古義学。堀川学派などとして日本史や倫理で出てくる。
京都・堀川の材木商の家に生まれた。武士ではない。当時の儒者に武士=武装した支配階級が多かったのに対し、仁斎は、終生幕府や大名に仕えず、京都の市井の学者を貫いた。
若い頃、周囲は医者になることを勧めたが、本人は儒学に志した。朱子学・陽明学・仏教・老荘思想に打ち込んだ結果、ノイローゼとなり、引きこもって暮らした。やがて、仁は愛である、朱子学の言う性理学は孔子・孟子の教えとは違う、と気づき、名を敬斎(「敬」は朱子学で多用する概念。「うやまい」であると同時に「つつしみ」である)から仁斎(「仁」こそ孔子・孟子の中心概念)に改め、独自の仁斎学を打ち立てる。その塾を古義堂と言う。門弟三千人と言われる。
彼の一世代先輩に林羅山がいる。近所には少し年長の山崎闇斎がいた。二人とも朱子学の継承者をもって自認していた。が、仁斎はそうではなく、朱子学・陽明学・仏教・老荘思想を批判し、孔子・孟子の教えに帰ることを説いた。
代表作『童子問』『論語古義』『孟子古義』『中庸発揮』『語孟字義』など。また、テキスト批判をし、『大学』『中庸』(朱子以来重視されていた)の権威に疑義を呈した。
2 『童子問』
童子が質問して先生が答える形で書いてある。わかりやすい入門書。少し紹介する。
朱子学は「理」を重視するために、外面は立派な儒者のように見えるが、他人を責めることがはなはだ深く、残忍酷薄になりがちだ。だが、仁の徳は、「愛」のみだ。一つ恕(ゆる)せば一つの仁、二つ恕せば二つの仁だ。「忠」(己を尽くすこと)「信」(実あること)「恕」(己を以て人を体する=その人の身になりかわって察し、広く大目に見てゆるし受け入れる)とが、なすべき実践だ。「夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。」と『論語』にもある。そもそも孔子・孟子の道は、人倫日用平生(へいぜい)行うべき道であって、朱子学(や仏教・老荘思想)に言うような高遠なところではなく、卑近(ひきん)なところにある。
孔子は堯(ぎょう)・舜(しゅん)の道を祖述(そじゅつ)した。言わばロゴス化した。孔子の教えは時間と空間を超えて人々に恩恵をもたらす。『論語』こそ宇宙第一の書物だ。『孟子』は、『論語』の趣旨を述べた書だ。孔子・孟子の仁義の教えを継承すべきだ。孔子・孟子の時代には理学・心学・性学などの称はなかった。それらはすべて後世の(特に中国宋代以降の)名称でしかない。宋代の朱子ほかは「一つの理の字でもって天下の事を尽くすことができる」と考えたが、誤りだ。
孟子は「自暴自棄」(みずからそこないみずからすてる)の者のために「人の本性(ほんせい)は善だ」と教えた。天下の本性がすべて善であって悪がない、という意味ではない。人には思いやりの心など善の端緒(たんしょ)があるので、それを拡充・存養していけばよい。
(ぺりかん社『日本思想史入門』の豊澤一氏の『童子問』の項を参考にした。)
このように仁斎は考えた。当時優勢だった朱子学イデオロギーから出発しつつも、それはおかしいと気づき、時間と空間を超えて孔子・孟子の原典に直接立ち戻って、自分の頭で考えた。仁斎は自分が生きる現実と格闘しつつ人間の在り方、学問の在り方を問い、仁愛に基づき許し合って生きる人倫社会をよしとする。仁斎には上から下を見下ろす「治者」意識はなく、「いかに民を統治するか」には言及しない。タテでは無くヨコの人間関係に意識が強かったのだろう。武力で脅しあげるのではなく丸腰で、異質な価値観・世界観をもった人があってもその心情を体察し、許しあって生きる。この思想の方向性は、21世紀の我々が継承し世界に発信すべきものではあるまいか。
補注:
朱子学:南宋の朱熹が始めた儒学の一派で、東アジア世界に圧倒的な影響を与えた。日本でも江戸時代には正統とされた。
陽明学:明の王陽明が始めた儒学の一派。
老荘思想:老子や荘子の思想。道家思想。中国で儒学と並ぶメジャーな思想の一つ。林羅山:江戸時代初期の儒学者。江戸期の正統派・林家朱子学の祖。
山崎闇斎:江戸時代初期の儒学者。キーワードは「敬」だった。厳しかった。
孔子:中国春秋時代の思想家。「仁」を説いた。
孟子:中国戦国時代の思想家。孔子の継承者を自認した。「性善説」を説いた。
堯・舜:中国伝説時代の聖なる帝王。