James Setouchi

2024.10.1

    渋沢栄一『渋沢栄一自伝』角川文庫

 

1 渋沢栄一 1840年現埼玉県深谷市生まれ。富農の家に生まれ、当初尊皇攘夷の志を持つが、一橋家に出仕し、幕臣となる。徳川慶喜の弟に随行し遣欧使節の一員としてフランスに渡る。維新後は明治政府に仕えたがまもなく辞し、民間人として多くの事業を手がけた。国立第一銀行、東京商業会議所、東京商科大(現一橋大学)、東京市養育院(慈善事業)、株式取引所、日本郵船、人造肥料会社、理化学研究所、東京海上保険、各種鉄道会社、東洋紡績、煉瓦産業、浅野セメントなどの基礎を築いた。日本の資本主義の基礎を築いた人、と言われる。『論語』の愛読者としても知られる。アメリカの排日問題にも取り組んだ。著書『論語と算盤』『雨夜譚』『青淵回顧録』など。1931(昭和6)年没。2021(令和3)年NHK大河ドラマとなった。福沢諭吉に続き一万円札の肖像になる。(文庫カバーの人物紹介などを参考にした。)

  

2 『渋沢栄一自伝』角川文庫

 2020(令和2)年9月、角川文庫。自叙伝および回顧録。前半と後半から成る。

 前半は1887(明治20)年に渋沢自身が語った幼少期から明治政府に勤めて辞するまでの自叙伝『雨夜譚(あまよがたり)』(1887=明治20年)。さらに渋沢の各種回顧録などを集めた『青淵回顧録』(もと本は1927年の『青淵回顧録 全』)からいくつかを収録。全体として、渋沢栄一の人物像がわかるようになっている。

 但しあくまで自分語りなので、歴史的事実としては批判すべき部分もあるかも知れない。

 内容は面白く、江戸末期から明治の社会の転変の中で、志を持って社会を変革した稀代の傑物の風貌に接することができる。

 私が気に入っているところは、いくつもある。

 例えば、徳川慶喜の弟・徳川昭武(まだ少年)のお供でフランスに行くところだ。当時のフランスはナポレオン3世治下で、パリを美しく改造した時期だ。徳川昭武少年は各国巡回をし、パリで乗馬をしフランス語を勉強する。渋沢はその世話をする。明治維新前夜だ。

 また例えば、帰国後明治政府に仕えず徳川慶喜の側にいよう、但し殿様の禄を食むことはせず民間人として生計を立て殿様を見守ろうと決意するところだ。渋沢には公務員にとらわれない自由な(在野的な)発想があったのは有名だが、そればかりか一度仕えた主君の側にいたいと願う旧武士的感性があった、さらに言えば隠棲志向さえ隠し持っていた、と言えば言い過ぎになるだろうか。(晩年まで現世の中で奮闘努力した渋沢から逆算すれば、明らかに「言い過ぎ」である。)

 

 以下、渋沢栄一の言葉を少し抜き出してみよう。

 

・「実業家には見識が必要である。舜も人なり吾も人なり、という考えがあってこそ実業界は発達していくのである。蹂躙られても軽蔑されても利益を得さえすればよいという態度では、今後世界の檜舞台に立って大いに競争していくような事は出来るものではない。」(286頁)

 

慈善事業を興して罪人を未発に救済し、不良民を多く出ださぬように努めたならば、ただに道徳上から見て当然であるばかりでなく、社会政策のうえからも効果がある事である」(306頁)

 

・「私は他人の金銭を預かっている銀行事業に関係しすこぶる重大な責任を担っている身をもって、投機に関係するがごとき事あっては、自然世間の信任に背きまた自分の職責を完うすることが出来ない。」(318頁)

 

・「私の信ずるところによれば、真の日米親交を期するには、国民と国民との隔意なき握手によって初めて成り立つと思う。」(410頁)

 

・「一言に尽くせば、道理正しい経済を進めることが必要である。この見地から私は常に道徳経済の合一を高唱し、かつその実行を希望している。」(413頁)

 

 問いを少し示しておこう。

①道徳と経済の合一を渋沢は語る。また銀行業をする者は投機に手を出してはならぬと渋沢は語る。今日のいわゆる強欲資本主義の姿を見て、渋沢はどう言うだろうか? ②渋沢は科学技術の進展・生産力の拡大・グローバル貿易を肯定している。が、それらの結果、今日ではグローバル・ノースがグローバル・サウスから収奪して地球環境が疲弊し多くの人々が困窮している。渋沢はそこまでは予見できなかったようだ。今日の地球環境と貧困・格差を見たとき、渋沢栄一ならどうするだろうか?                                                      

                             (R3.3.30)