James Setouchi

2024.10.1

  林田明大『渋沢栄一と陽明学』ワニブックスplus新書 2019年9月

 

1 林田明大(はやしだ・あきお) 1952年長崎県生まれ。陽明学研究者。著書『真説「陽明学」入門』『評伝・中江藤樹』『山田方谷の思想を巡って』『志士の流儀』など。(新書の人物紹介などを参考にした。) 

 

2 『渋沢栄一と陽明学』 

 渋沢栄一の周辺にいた陽明学関連の人物を紹介する本。渋沢栄一その人の思想や人物を詳細に解明しているわけではない。渋沢栄一は『論語』を愛読したが、本書の著者は、儒学の中でも陽明学的な環境に渋沢はいた、渋沢は陽明学に近かった、と言おうとしている。

 解説の小川榮太郎は、本書の内容を受けて、次のように述べる。明治以降の日本が「巨大な世界史への参加」をなしえたのは、「当時の日本人たち」の「人間力」のたまものであり、その「奇跡の時代の経済的足腰を構築した」のは渋沢栄一だった、ドラッカーも「第二次世界大戦後の日本経済の奇跡は、渋沢の遺産による」と言っている。渋沢らの「儒教資本主義」が失われて日本経済は停滞を始めた。「世界経済は今、金融とITにおける寡占情況を軸に、少人数の成功者のボロ儲けにより牽引されている。ドラッカーや渋沢が見れば慨嘆しきりな有様であろう。」「全体の利益に還元されない富の寡占支配」は必ず破綻する。ここには、小川榮太郞の、現代批判がある。本書の著者・林田明大の本書執筆動機も、これと気脈を通じていると思われる。

 内容から何人か紹介しておこう。渋沢の周辺にいた、陽明学的な思想を持つ人びとである。あくまでもこの本の記述に従って紹介する。

 

1 尾高惇忠:渋沢の親族で、同郷。尾高は菊池菊城に学び、かつ独学して、私塾を開き、陽明学の知行合一を学則として掲げた。一時彰義隊や振武軍に参加するが、のち富岡製糸工場の初代工場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務める。(第1章、第3章)

 

2 菊池菊城:尾高惇忠の師。山本北山に学び、諸国を旅しながら子弟を集めて教育した。「道徳を広め正し、学問に勤めることを厭わず、人に教えて飽きることがなかった。粗衣粗食で、名を挙げることを避け、貧しさに満足した。」と評された。(第1章)

 

3 岩崎弥太郎:土佐の人。三菱を作った。伯父の岡本寧浦は土佐藩屈指の陽明学者で、岩崎は少年時代高知城下で岡本の家に寄宿し数年間学んだ。また岡本の門人で陽明学者・奥宮慥斎に学んだ。なお、慥斎の影響を受けて陽明学を学んだのが植木枝盛、慥斎の三男で自由民権を主張したのが奥宮健之。幕末の土佐陽明学は、陽明学左派だった。(第4章)(なお、奥宮健之は、大逆事件に連座し死刑。JS注)

 

4 三島中洲:二松学舎大学創設者。倉敷の出身。陽明学者・山田方谷に学ぶ。中村敬宇や河井継之助とも親交。中洲の門人には、橘中佐、中江兆民、平塚雷鳥、植村環、下田歌子、犬養毅、黒田清輝、嘉納治五郎らがいる。中洲は「利を見ては義を思う」「義利合一」を言い、渋沢の「道徳経済合一説」と同じ主旨だ。(第5章)

 

 少し批判しておこう。陽明学は孔子・孟子の教えを継承しているので民を大事にする教えのはずだが、本書では明治の元勲や高名なリーダーたちを主に列挙し、明治帝国日本はよかった、という世界観に終始しているように見える。だが、現実には、明治帝国日本は、「富国強兵+貧民」の社会であり、10年に一回大きな戦争をして国民を兵士として死に至らしめた。貧富の差が大きく、軍隊がテロを起こし首相が暗殺された。挙げ句に日本全土は焦土になった。陽明学を学んだリーダーたちはこの事態をどう説明するのか。対して、戦後日本は平和と自由、社会権(生存権など)を重視し国民が豊かに安心して生活できる社会を作った。テロはほとんどなかった。孔子、孟子、王陽明がいたら、どちらをよしとするかは明らかだろう。中江藤樹は武士をやめて田舎で暮らした。中江藤樹が現代にいたら何と言うだろうか。また渋沢栄一が現代に生きていたら、貧困(貧富の格差)や環境(資源の枯渇)などの問題に、何と言うであろうか? これらの視点は、この本には、ない、または、非常に弱い。明治から昭和前半、また高度経済成長までの日本を美化し歴史的現実を見ない、特殊なイデオロギーに立脚してこの本は書かれているように見える。ここは批判的な目で読む(クリティカル・リーディングする)べきだろう。あなたは、どう考えるか?                                

                                                                                                  (R3.5.8)