2924.9.29

James Setouchi 

 

読書会 平家物語 予告 R6.10.26土 午前9:30~ メンバー限定

 

1 『平家物語』

 軍記物語の代表。軍記物語には、他に『将門記』『陸奥話記』『保元物語』『平治物語』『承久記』『蘇我物語』『太平記』『義経記』などなどがある。

 

 ここで「記」は記録性重視で、「物語」は物語性重視だと確認しておこう。物語作者は、このモノガタリのどういうモノを語って人々(後世)に伝えようとしたのか? モノとはオオモノヌシでわかるように霊的な存在でもある。読者・聴衆を呪的に縛り動かす。

 

 『平家物語』は、平氏のプリンスたちを愛惜しながら語る。彼らに対する鎮魂慰霊のために語られたのか? という説がある。平氏に共感している人々が書いたかも知れない。

 

 『平家物語』は、平家の全盛の時代から滅亡までを描く。扱われている時代は平安末。

 

 作者未詳。

 

 『徒然草』には、信濃の前司(前の国司)藤原行長が作り生仏という人に教えて語らせたとの説が紹介されている。葉室時長(行長の従兄弟)説、吉田資経説などもある。『治承物語』という原型があったとも。

 

 例えば、次のようにも考えられる。信濃前司行長と生仏は、原型を作った、その際背後に比叡山の天台座主慈円がいて資金援助して全国の情報を集めた。鎌倉前期に三巻本程度の原型本ができた。それが時代を経て膨れ上がり、現代の形になっていった。覚一本は1272(応安4)ころか。延慶本は1310年ころか。

 

 琵琶法師が語るうちに様々に変形し多様な形(ヴァリアント)ができて残っている。また書き改められもしただろう。さらに後世の、『義経記』『源平盛衰記』(南北朝~室町)、ひいては能(室町)や歌舞伎(江戸)や現代のNHK大河ドラマなども、大きく言えば『平家物語』のヴァリアントとも言える。

 

(参考)「アーサー王物語」「ローランの歌」「ニーベルンゲンの歌」なども語り物で、無数のヴァリアントを持つと言われる。聴衆・観客の顔を見ながら即興的に改めていくのだろう。近いのは、落語、講談。漱石が『猫』を書いた、というのとは少し違う事情だ。

 

 すると、『平家物語』の真の作者は、それを享受してきた無数の読者たち、ということになる。

 

2 異本の数々

 

語り本系:琵琶法師が語った。

一方(いちかた)流:覚一(かくいち)本、葉子(ようし)十行本、流布(るふ)本

 八坂(やさか)流:流布本

 

読み本系:

 広本系:延慶(えんぎょう)本、長門本、源平盛衰記

 略本系:四部合戦状本、源平闘諍(とうじょう)録、南都本

 

 特に、ラストに「灌頂の巻」があるかどうかは注目できる。「祇園精舎」で始まり「灌頂の巻」(「女院御往生」)で終われば、仏教に始まり仏教に終わる。滅亡した平家への鎮魂慰霊にもなる。他方、「灌頂の巻」がなく、「六代斬られ」で終われば、平家は断絶した、で終わることになる。

 覚一本は語り本系の代表。南北朝期の成立。学校の科書はこれが多い。(尚絅大学現代文化学部、武田昌憲)

 

 延慶本は鎌倉時代の成立。1310頃に根来寺で書写したテキストらしい。教科書などには載らないが、教科書の本文とは違うことが書いてあって面白い。覚一本より古い形が残っていると言われる。

 

延慶本は、源氏が平家を滅ぼしてゆく様を主軸に据えた平家物語であり、覚一本は、平家が源氏に滅ぼされてゆく様を主軸に据えた平家物語であった。」「『覚一本平家物語』考」( 城阪 早紀、2020.6月公開、同志社大国文学)

 

 研究史としては、『平家』と『盛衰記』のどちらが先かの論争もあった。

 

 →共通テストで複数テキストを読み比べる形式で出題するのに便利かも? 受験生の皆さん、どうですか?

 

3 源氏と平氏

 

 そもそも武士とは何ぞや? は別に論ずる。世間ではあまりにもイージーに「武士」「武士道」「武道」を語りすぎる。

 

 源平の合戦に出てくる源氏と平氏は、いずれも天皇家から分かれ、地方武士団の棟梁となった存在だ、というのが定説。高貴な血筋ゆえ尊崇された。

 

 天皇家から臣籍降下して源氏や平氏の姓(律令期の八色の姓ではない。平安期には姓と氏は混乱)になった一族は色々ある。

 

 桓武天皇から分かれたのが桓武平氏。仁明天皇から分かれた仁明平氏、他に文徳平氏、光孝平氏がある。なお、平将門は桓武平氏の一人だから、平清盛の遠い親戚。

 

 清和天皇から分かれたのが清和源氏。陽成天皇から分かれた陽成源氏、村上天皇から分かれた村上源氏、他に嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏などなどもある。

 『源氏物語』の光源氏は、桐壺帝から分かれたので、桐壺源氏と言うべきか。これと源平の合戦の源氏とは無関係。

 

 (1)清和源氏

 清和天皇から分かれ源経基、源満仲(多田満仲:漱石の坊っちゃんは、オレは多田の満仲の子孫だ、と威張っている。)、その子が頼光(摂津源氏)・頼近(大和源氏)・頼信(河内源氏)。これでわかるように、源氏は最初は京に近い近畿地方に本拠地があった。

 

 源頼光は四天王を擁し大江山の酒呑童子を倒した等で有名。四天王の一人が坂田金時(足柄山の金太郎)。その子孫に源三位入道頼政がいる。かれも清和源氏だが頼朝とは流れが違う。平治の乱で平清盛と組んで勝つ側に回ったが、その後以仁王(もちひとおう)の院宣を奉じて平家打倒の挙兵を行った(敗退し首は宇治川に沈めた。『平家』4-2「宮の御最期の事」による。)

 

 源頼信の子が頼義。彼らは『今昔物語集』にも武勇伝が出てくる。藤原道長たちがドロドロの権力争いをしていた時、実働部隊として暴力を担ったのは彼ら。言ってしまえば貴族の私兵であり私的な暴力団、マフィアとして機能していた

 

 頼義の子が八幡太郎源義家で、彼は関東・東北で戦争に勝ち、源氏の勢力基盤を関東に築いた。のち鎌倉八幡に源氏の守り神として祀られる。

 

 義家の子が義親と義国。義国から足利氏や新田氏が分かれる。義親の子が六条判官為義。保元の乱で敗れた。為義の子が、左馬頭(さまのかみ)義朝、義賢(よしかた。木曽義仲の父)、義教(よしのり)、鎮西八郎為朝(ためとも。豪弓を引いた。九州にいた)、行家ら。

 

 子どもが多いのは、一夫多妻だからだ。あちこちの在地勢力と婚姻し異母兄弟を多くもうけた。

 

 為朝は父・為義と共に保元の乱で敗退。保元の乱に勝ったのは義朝。左馬頭とは、今で言えば陸上自衛隊統幕長のような立場か。だが義朝は平治の乱で敗れた

 

 義朝の長男は悪源太義平。ここで悪とは強いという意味。平治の乱で敗退。

 

 義朝の幼い子に頼朝、範頼、義経がある。彼らは平治の乱のあと殺されず生き延び、のち打倒平家の兵を起こす。彼らが『平家物語』で活躍。

 

 義経の母は常盤御前(ときわごぜん)。同母兄弟を乙若(のち阿野全成)、今若(のち源義円)、牛若と言って、生き延びた。牛若は伝説によれば鞍馬神社に預けられ天狗に剣術を習い、やがて九郎義経となって平家打倒に参加することになる。

 

 頼朝は鎌倉で将軍になる。その後頼家、実朝はじめ子孫は(北条氏の陰謀もあって)絶える。足利氏や新田氏は源氏の子孫を名乗るが、頼朝の直系ではない。

 

(2)桓武平氏

 桓武天皇から分かれた。葛原(かずらはら)親王の子が高棟王と高見王。

高棟王の子孫が平時子(清盛の妻)、平滋子(しげこ)(後白河天皇の妻、高倉天皇の母)。高見王の子が高望王。その子が平国香(くにか)、良将(将門の父)、良文(畠山重忠の先祖)、良茂(よしもち)(和田義盛や梶原源太景季(かげすえ)の先祖)が平将門や平清盛の直系の祖先。

 

 平国香の子が維将(これまさ)(北条時政の先祖)、維衡(これひら)。

 

 上記で分かるように、平氏ははじめ関東に勢力があった。将門はその代表だが、他にも北条氏、和田氏、梶原氏、北畠氏などなどがいる。彼らは平氏の子孫だが、源平の合戦では源頼朝に味方して京都の平氏を倒した。鎌倉幕府の有力御家人になった。(その後粛清されていくのだが・・)

 

 平維衡は伊勢に勢力を持ち、伊勢平氏と呼ばれる。その子孫が刑部卿平忠盛(清盛の父)。刑部卿とは、警察庁長官くらいか。清盛の父親はすでにかなり出世していた。有力貴族に土地や土産を贈っては官位をもらうのだ。

 

 忠盛の子が清盛。この人とその子孫が『平家物語』の中心人物。

 

 清盛は大出世し、太政大臣・入道相国となった。娘徳子を高倉天皇の后とし、その子安徳天皇の外祖父となった。この点藤原氏のやり方と同じ。子どもや孫で中央や地方の官位を独占した。「平家にあらずんば人にあらず」というほどの繁栄ぶりで、かつ禿(かむろ)というスパイを使って情報網を張り巡らせ、敵対する者は排除していった。東大寺を焼いた。地方に重い税を課した。ゆえに人心が離れ、皆が叛逆した。反乱の大将として源氏が担がれた。

 

 これは、従来の、平家悪玉説に乗った説明。だが、史実はそうではなかったかもしれない、と最近では言われる。

 

 清盛は神戸(大輪田泊=おおわだのとまり)に港を開き、日宋貿易を盛んにし、貨幣経済を導入し、新しい国作りをしようとした。これについていけないのが、関東の兵士たちだった。かれらは抵抗勢力となり、源頼朝をかついで京都の平氏を倒す主力軍になっていく。

 

 つまり源平の合戦ではなく、事実は、「新しい京都の平氏」対「古い関東の平氏」の戦いだったと言うべきだろう。そんなことは『平家物語』には書いていないが。

 

4 他のプレイヤー

(1)   後白河法皇:平清盛と親戚になった。が平氏を倒すために源氏を使い、木曽義仲が横暴だと関東の源氏を使い、今度は源義経を使って源頼朝を牽制しようとする。かなりなフィクサーで黒幕と言うべきか。私は中学の時「武士の時代が来たのだから、平氏も源氏も後白河をどうして殺害してしまわなかったのか」と歴史の先生に質問に行き、「当時はまだそこまでではなかった」という答を得た。ずっと疑問だったが、朝廷の権威は相当に強かった、というのが実情だろう。その後鎌倉幕府を作っても、京都ではやはり朝廷の権威が生きていたから、のちの承久の変(1221)(後鳥羽上皇の命令で反鎌倉の武士たちがまがりなりにも集結する。敗退するが)にもつながるのだろう。

 

(2)   弁慶:実在しない、と見られる。熊野の湛増(たんぞう)なる人物が『平家』にはでてくる。その子とも言われる。義経と弁慶のペアが活躍するのは後世の創作だろう。小兵の義経と大型の弁慶。『鋼の錬金術師』(ハガレン)でもエドは小さく、アルは大きい。『巨人の星』の星飛雄馬は小さく、伴宙太は大きい。

 

(3)   奥州藤原氏:金と馬の産地で、豊かだった。伝説では、幼い義経は奥州藤原に行き、云々となっているが、それは『平家』には書いていない。義経と弁慶は源頼朝に憎まれて最期は奥州で死ぬ。奥州藤原も滅亡する(1189)。それらは『平家』には書いていない。『義経記』などではドラマチックに脚色して語る。(松尾芭蕉は何を読んだのだろうか?)さらに義経は生き延びてチンギス・ハンになったなどの伝説もある。『平家物語』のスピンオフ作品と位置づけてもいい。

 

(4)   河野水軍:伊予の水軍。壇の浦の合戦で源氏に味方した。海戦では水軍がないと勝てないので、貢献が大きく、源頼朝から河野通信(かわのみちのぶ)はほめられ、御家人となり、家紋を「折敷(おしき)三文字」とし、勢力を拡大した。その子孫が元寇で活躍した河野通有。今村翔吾『海を破る者』の主人公。

 

(5)   法然上人:他力浄土門の僧。阿弥陀如来の名を唱える(念仏)だけで極楽浄土に行ける、という思想は、当時大いに広まった。武士は人を殺す存在なので、不殺生戒を破っている。そういう存在でも、一心に悔いて阿弥陀如来にすがれば救われる。『平家』には法然と念仏が登場する。特に熊谷次郎直実は出家して法然の弟子になった。法然の念仏宗は既成仏教界からは弾圧されたが、それでも民に広がり定着した。

 

 

5 参考書

 

小林秀雄『無常ということ』:『平家』を無常観で読み解いてもダメだ、無数の読者が『平家』の真の作者だ、そこには合戦あり、恋愛あり、仏教あり、一大交響楽なのだ、とする。月が昇り、沈む。その中で人は懸命に生きて死ぬ。それでいいのだ。そこに安心立命がある、とする。これを小林は昭和17年=1942年、つまり日米開戦してすぐの頃に書いた。結局戦争礼讃(時局便乗)にあってしまっている。どう考えるか?

・ビギナーズクラシックス『平家物語』:角川文庫。まずはよい。

・大塚ひかり『大塚ひかりの義経物語』:角川ソフィア文庫。『義経記』の解説。面白くて読みやすい。

 

・『今昔物語集』

『平家物語』

・宮本武蔵『五輪書(ごりんのしょ)』

山本定朝『葉隠(はがくれ)』

・『甲陽軍鑑』

・『三河物語』

・『軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)』

新渡戸稲造『武士道』

・内村鑑三『代表的日本人』

・『国体の本義』

・『終戦の詔勅(しょうちょく)』

・坂口安吾『堕落論(だらくろん)』

・相良亨(さがらとおる)『武士道』『武士の思想』

・小池嘉明(こいけよしあき)『葉隠』

・植芝盛平(うえしばもりへい)口述・高橋英雄編著『武産合気(たけむすあいき)』

・菅野覚明『武士道の逆襲』『本当の武士道とは何か』

・本郷和人『なぜ武士は生まれたのか』

・内田樹(うちだたつる)『修行論』