2024.9.28James Setouchi
読書会 徒然草 兼好法師 R6.9.28(土)実施記録
1 三つの便覧を比べた。
・鎌倉末の作品。・兼好は二条為世門下の和歌四天王の一人
・今川了俊が冊子にし『徒然草』と名づけたとの説もある。
・序段~32段を1319年、33段以下を1330~1331年にかけて執筆した、その後まとめてさらに追加したとの説もある。
・鎌倉末なのに、平安時代の語彙・語法による。尚古(しょうこ)主義。
・係り結びの多用。(係り結びは和歌の秘伝で、高弟にしか教えないと聞いたことがあるが?)
・仏教的なもの、説話的なもの、有職故実(ゆうそくこじつ)、などなど内容は多岐にわたる。
・それぞれ別々の作品と見ることもできる。連続する章段をひとまとまりとして読む試みもある。内容によってテーマ分けする読み方もある。全体に何かのテーマがあるに違いない、として読み解こうとする読み方もある。矛盾だらけにみえるが、より高次の視点から俯瞰(ふかん)しており、「すべて幻のごとし」と言いつつその幻のありさまを語っている。これはイロニーだ。(岡崎義恵による。なお、「イロニー」とは、日本浪曼派の保田与重郎(やすだよじゅうろう)が好んで使った言葉。)
・室町期の正徹(しょうてつ)が兼好の思想を賛嘆して書写。江戸時代には版本が多数刊行された。近現代にも小林秀雄や唐木(からき)順三に影響。
・三大随筆については前回触れたので略。兼好は平安文化に憧れがあり、『枕草子』『源氏物語』を真似た面はあったかも。だが、『源氏』『枕』の精神を継承した、といっても、どういう精神をどのように継承したか? はしっかり読んでみないとワカラナイ。
・古典は自分を覚醒させる。古い時代との連続性、違い、両方を見るべきだ。過去と現代との世界観の違いから、現代を相対化し、未来の可能性を探ることが出来る。
2 第52段「仁和寺にある法師」を読んだ。
仁和寺:京都にある真言宗の名門の寺だが、鎌倉時代になると少し古びた印象だ。当時の法師(僧)は一種のサラリーマン。つまり郵政公社の公務員のようなイメージ?
法師:「僧都」などでなく「法師」なので、平社員だろう。年老いるまでまじめに仏道修行・仕事一筋できた人では?
石清水:石清水八幡宮(男山八幡宮)は当時貴族たちが信仰と娯楽を兼ねて多く行った。京都盆地と大阪平野の境にあり、多分古来のパワースポット。大分の宇佐八幡をここにもってきた。さらに鎌倉にも持っていき鎌倉八幡宮になる。霊験(れいげん)あらたかな神様。京から20キロあり、普通は船で行く。この法師は徒歩で行った。倹約・貧しいのと、徒歩で行く信心深さを示すか。
・徒歩で20キロ高齢者が歩くと疲れる。それで上らなかったかも。
・極楽寺・高良:石清水八幡宮の山の麓(ふもと)にある。神仏習合時代だからこういうことは普通にあった。
・「かたへの人にあひて、・・」以下は、法師が京に戻ってからやや自慢げに言っていそう。
・「神へ参るこそ本意なれと思ひて」も、法師の信仰心の強さを示すだろう。あるいは片意地さ・偏狭さ?
・「他の人は山の上に物見遊山(ものみゆさん)で上がっていたが、私はそんな世俗と同じことはしない」とは、世俗の人への軽蔑の姿勢があるかも。
・最後の一文「少しのことにも、・・」は、なぜあるのか? ラスト一文で、笑い話や教訓話に読者をミスリードしてしまうのでは? これは笑い話か? いや、人にものを尋ねないと失敗するよ、という教訓話か? そうでもある。だが、よく考えると、これは深いため息ではないか? 兼好はこの法師を馬鹿にして笑っているのではなく、むしろ敬意を抱いているのでは? その上で、誰でもこういう失敗に陥るものだよ、と深くため息をついているのでは?
・だが、中学生には笑い話くらいにしか捉えられないだろう。このハナシで深いため息をつくためには、それなりの失敗の蓄積がいるかも。
・小林秀雄は、「兼好は多くを語らず鈍刀で彫る」と言った。兼好の深い人間洞察がこのハナシにも現われているだろう。
・そもそもなぜこのハナシを教科書で扱うのか?・・中学生に読みやすく、短く、笑い話ともとれ、しかし覚えておけば大人になってからも深い含蓄(がんちく)のあるハナシとして読み味わい直すことのできるハナシだからかしら。現場の先生方の注文が殺到するのかも。実際、読んで良かった、このハナシを後世に伝えたい、と多くの人が思うのだろう。
・作者の意図をどこまで読み取れるか。各自が受け取ったものが真実でいいのではないか。ロラン・バルトは「作者の死」を言った。・・・だが、各自がかってに牽強付会な読み方をするのはいかがか。丁寧な訓詁注釈は、やはり要る。その上で、各自が同感じ考えるかは、自由だ。・・孔子の教えを曲解して「忠孝一本」思想を展開した後期水戸学(藤田東湖)は大きく間違った。その挙げ句にカミカゼ特攻1号の関行男大尉がいる。孔子が聞いたら大いに嘆くであろう。
・モンテーニュの人間観察と比べるとどうか?
3 第236段「丹波に出雲といふ所あり・・」を読んだ。
・出雲:島根の出雲(いづも)大社(杵築(きづき)大社)とは別に、京都府亀岡市に出雲大社がある。本文では島根のを京都市亀岡に遷した(写した?)、とあるが、史実はワカラナイ。いずれにせよ他の神社とは違う特別な神社として本文では捉えられている。
・しだの某:「はだの某」かも。秦河勝(はたのかわかつ)の子孫や親戚の関係者かも。秦氏なら渡来人かも。
・聖海上人:「上人」だからヒラの法師ではなく、宗教界で尊敬されている方か。
・おとなしく物しりぬべき顔したる神官:年長で分別がありそうでものを確かに知っていそうな神主。
・さがなき童ども:いたずらな子どもたち
・そもそも神主がさっと直せるほどこの獅子・狛犬(こまいぬ)は小さいのか?
・聖海上人は感激屋だが、一人で完結せず、周囲を巻き込んでいく。
・周囲も巻き込まれ感激していく。にわかドジャーズファン(地区優勝した)になりオータニさんを応援しているようなものか。あるいは、「石破さん(自民党総裁になれた)よかったな、よかったな」と(わけも分からず)一緒に涙ぐんでいるようなものか?
・それが聖海上人にまた伝染する。相乗作用で感激が高まり、上人は神主に声をかける。
・神主は冷静に対応する。この落差! が面白い。
・これも笑い話か、教訓か、人間の陥りやすい陥穽(かんせい)を描くのか。
・この子どもたちは、一体何か? ただの近所の悪童か、それとも大人たちの権威に反抗してみせる十代の何者かか。金閣寺を焼いた彼、カミュ『異邦人』のムルソー、などなど?・・これは面白い!
・だが、それに平然と冷静に対応する神主とは、一体誰か?
・上人も人々も一緒になって宗教的情念で盛り上がっている。対して神主は冷静である。有職故実を知り、簡単には時代の熱狂に巻き込まれないぞ、という、兼好の、最高級の 知識人としての独自のスタンスがここに書き込まれている、兼好は神主に自己を仮託している?
・すると、感激屋の上人、それに巻き込まれる一般ピープル、独自の理由で反抗的行為に走る若者、静かに対応する知識人、という、社会の縮図かも?・・これはすごい! 面白い! 読書会をやってみるものだなあ! と、盛り上がった。
4 小川剛生『徒然草を読みなおす』ちくまプリマー新書2020から
小川剛生は次のように述べる。
「・兼好の「遁世」は渡世の方便で、それまでとは違う形で世の中に深く関わっていた。
・時代もそういう人を必要としていた。
・荘園があり、生活に十分余裕があった。
・孤独に懊悩(おうのう)し全てを捨てて自由に生きることを夢想する近代人の読み方は、百年程度の歴史しかない。
・近代人のエセーと同じだとみるのも誤り。
・11段「神無月のころ、来栖野(くるすの)・・」と12段「同じ心ならんと・・」は連続する文章として読むべきだ。段の配列を決めたのは兼好自身だろう。」
これに対して、どう考えるか?
・「時代もそういう人を必要としていた」とは?
・信仰心の強い人ではなく、弱い人もいていい(弱さの肯定)か?
・世俗の権力闘争とは違うスタンスで隠居する人もいていい(多様な生き方の肯定)か?
・現代のメンタル・スピリチュアリズムや生き方本のように、必要とされた?
・いや、時代が変化し多様性が語られ価値観が混迷する中で、ブレないで物事を正しく判断できる、有職故実に詳しい最高級の知識人が必要だった? 例えば今の時代に、人文学に詳しく歴史を語れる東大の世界史や日本史の教授が必要なのと同じで? 人文系の学問は世の中に必要である、というわけだ。
・空海は嵯峨天皇に近く、朝廷は宗教界の力を必要とした。同様なのか? ワカラナイ。
・「西欧のエセーとは違う」と言うが、小林はモンテーニュと兼好を比較しているので、ここは小川さんの小林批判ととっていいか?
・小林は「精神の徒然」を言った。ものごとに囚(とら)われ埋没(まいぼつ)してしまうのではなく、一歩引いて物が見えて仕方がない境地か?
5 その他
(1) 沙弥 (しゃみ)とは何か?
平凡社の世界大百科事典の藤井学によれば、以下の通り。下線はJS。
「サンスクリットのシュラーマネラśrāmaneraの音訳。日本では,本来,20歳未満で出家し,度牒(どちよう)をうけ,十戒を受け,僧に従って雑用をつとめながら修行し,具足戒をうけて正式の僧侶になる以前の人をさす。女性の場合は沙弥尼と称す。僧尼令では,僧・尼の注釈に沙弥・沙弥尼を加えており,僧尼と同じ扱いをうけているが,実際は僧の下に従属し,律師以上の僧官には従僧以下,沙弥と童子が配されていた。
具足戒を受けず,沙弥のままいた人々も多く,また正式のルートによらないで出家した僧(私度僧(しどそう))は私度の沙弥とか在家沙弥と呼ばれた。この私度の沙弥は8世紀以降とくに輩出し,ある者は正規の手続をへて官寺の僧となり,ある者は官寺や僧綱制の外縁にあって,古代の民間仏教を支える基礎となった。たとえば《日本霊異記》の著者景戒(けいかい)は,薬師寺の僧となるまでは,在地にあって妻子を養っていた私度の沙弥の一人だった。日本では,沙弥といえば在家の沙弥としてとらえることが多いが,これも以上の社会現象を背景としている。11世紀後半から中世になると,僧と沙弥は僧侶集団内部の地位の別ではなく,一般的には沙弥は在家の入道者と同じ意味に用いられることが多くなった。妻帯して子供を持ち,俗人と変わらぬ生活を営む僧や在家の入道を沙弥と称し,彼らは《法華験記》や《今昔物語集》や往生伝などにしばしば登場する。在家沙弥の典型として播磨国賀古の教信沙弥が妻子を養い,俗人の生活をおくりつつ念仏を唱えて極楽往生をとげた話は有名である。沙弥といわれる人々は,貴族や武士,在地領主,猟師,農民,下人など階層的には実にさまざまであり,また諸地方に広がっている。その信仰形態や修行も一様ではなく,阿弥陀・観音・地蔵信仰から種々の持経者,さらに雑信仰の分野にまで広がる。ただし,その基底となる救済への指向が,法然や親鸞へとつづく中世浄土信仰成立の基盤となり,とくに在家主義を標榜した親鸞は教信を念仏者の理想像としたといわれる。
僧侶集団のなかでの沙弥は,中世では戒律を重んじた禅寺や律苑でみられ,禅寺では僧に近侍した少年僧を沙弥とか沙弥喝食(かつしき)と呼び,律苑では典蔵(てんぞ)の下位に沙弥という僧の職制が置かれた。だが,中世禅宗でも,その外護者(げごしや)である守護や地頭級の武士のなかには,参禅して剃髪し,道号をうけ,沙弥何某と称し,法体のまま従前どおり守護や地頭の職務を遂行し,あるいは戦場にのぞんだ人も多かった。しかし,このような古代や中世における沙弥の活躍も,近世に入ると史上から影をひそめた。
執筆者:藤井 学」
これでよく分かった。兼好は、安良岡康作によれば「沙弥兼好と自称した」とある。安良岡氏の説明(「沙弥(しゃみ)」「在家(ざいけ)の沙弥」「遁世者(とんせいしゃ)」「入道」の説明が不十分)が正しいかどうかは別として、半分俗人で半分出家者のような存在、くらいにゆるく捉えておけばいいだろうか。出家して比叡山(ひえいざん)の高僧になったがそこからさらに隠遁(いんとん)した、というタイプとは少し違う(または、とは限らない)。
800年以前、空海は最初私度僧(しどそう)だった。1200年過ぎ、親鸞(しんらん)は比叡山を追放されて「非僧非俗」を名乗った。
(2) 小林秀雄『無常といふ事』昭和17年(戦時中)から「徒然草」
・これは強烈だ。是非一読を。お蔭でいろいろ開眼した。ただし、小林に影響を受けてしまって、別の読み方ができなくなるかも。
・モンテーニュ『エセー』を引き合いに出している。モンテーニュよりもすごい、と。
・モンテーニュは「自分のために書いた」と言う。兼好は鎌倉時代に平安朝の文体で書いた。兼好は見せるために書いたのでは? ここは小林が間違っているのでは?
・「徒然なる心」とは、小林の心でもあろう。この時「兼好=小林」になってしまっている。小林は何でも自分になってしまう。「どこを切っても同じ金太郎飴みたいだ」と言われる。兼好の独自性が見えなくなるかも?
(3) 他の参考書
斎藤孝『使える! 『徒然草』』PHP新書2005年:現代社会の処世知として「使える」という読み方なので、読解としては役に立たない。
瀬戸内寂聴『寂聴つれづれ草子』朝日文庫1993年:寂聴の語りを聞きたい人にはよいが、読解としては役に立たない。
安良岡(やすらおか)康作『徒然草』旺文社文庫1971年:使いやすかった。旺文社文庫は売っていないかもしれない。
(4) 鴨長明『発心集(ほっしんしゅう)』との比較
・長明は平安末で、源平の戦争、京都の火事や地震での壊滅、死体ゴロゴロの世界を目の当たりに見た。で、晩年は京都の南の日野の法界寺(ほっかいじ)の近くに隠棲(いんせい)した。完全な山中ではなく、都会の風の感じられるエリアでの隠棲だ。『方丈記』に書いてある。悲劇の喰らい方は長明の方が強いが、都市型の隠棲という点では長明も兼好も似ている。
・長明『発心集』は、極めて激しい隠遁(いんとん)者列伝が書いてある。法界寺などで聴衆に法話(ほうわ)をするための抜き書きメモだったのか? 友人の禅寂(法然の弟子)の手が入っているとの説もある。兼好にはそういう本は(多分)ない。
・長明は比叡山の天台宗の中から出てきて浄土信仰を持っていた人か。
・小林は、「兼好と長明は全く似ていない(長明は兼好の足下にも及ばない、の意)」と否定し去るが、果たしてどうかな。
・兼好には法然上人を尊敬する記述がある。が、絶対他力の浄土信仰とは限らない。何宗か? と言われれば、わからない。最終段落は気になる。仏に教えられて人が仏になる、と言う。世自在王如来(せじおうにょらい)に教えられて法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は阿弥陀如来(あみだにょらい)になった。「だが、その最初の最初の最初に教えた如来はどうなの?」という問いを出して『徒然草』は終わる。そこを問わずに阿弥陀如来の救いをま受けにするのが浄土の信心だとすれば、兼好はちょっと他力浄土門に対して懐疑的だと言える。(詳しい教学・宗論は存じあげないが、釈尊は自力で悟った。兼好はそう言いたかったのか? 「釈尊は自力で悟ったよね」の一文が本文から削除されているのか? などと妄想したくなった。)兼好は懐疑的=柔軟でバランスが取れているのか、もっと深い絶望を知らないだけなのか。
長明の方が徹底的な絶望を体験・体感した上での他力の信心と言えるかも。『方丈記』でも過去の絶望体験をなぞり直した上で日野に住むと決めた、と書く。楽器や和歌も持ってはいるが、西方極楽浄土を仰ぎ見ている。
栄西は禅宗で、「絶望するには当たらない、まだまだ自力聖道門は生きている」と語る。
・・・・・有益な読書会だった。大いに勉強になった。
6 次はR6年10月26日(土)9:30~『平家物語』。冒頭、義仲最後、屋島の那須与一、ラストの大原御幸(おおはらごこう)、をやるであろう。