James Setouchi

2024.9.16

 帚木蓬生(ははきぎほうせい)『沙林 偽りの帝国』(再掲)

                 新潮文庫(上下)R5.9.1発行

                 (もと令和3年3月単行本)

 

1 作者:帚木蓬生(1947~)福岡県生れ。東大仏文科卒後TBSに入社するも退職し九大医学部で学ぶ。精神科医。作家でもある。代表作『三たびの海峡』『閉鎖病棟』『逃亡』『水神』『ソルハ』『蠅の帝国』『蛍の航跡』『日御子』『守教』『花散る里の病床』などなど。(文庫カバーの著者紹介から)

 

2 『沙林 偽りの帝国』

 

 オウム真理教による松本サリン事件(1994年)、東京地下鉄サリン事件(1995年)などについて、医師・医学研究者の目から描いている。小説・虚構ではあるが、血湧き肉躍るエンタメに仕立ててはいない。むしろ本作は、事件や裁判の詳細、特に被害にあった方の症状、治療方法などについて、医師・医学研究者の目で、詳細に書きとどめている。また化学兵器・生物兵器などについても、詳細に描いている。(そのどこまでが厳密に正確かについては私は正確に判定する能力がないが、これを不正確に書く必然性はないので、恐らく正確なのだろう。化学や生物、医学、薬学の専門家ならよくわかるはずだ。)オウムの幹部や国松警察庁長官などは実在・実名。主人公は九州大の沢井教授。これは虚構化されているが、モデルは実在するそうだ。オウムはVXガスなどについても製造・使用した。これについても言及がある。

 

  読んでいて、オウム事件発覚以来報道された恐ろしい出来事の数々がありありと蘇ってきた。著者は、これらの事実を詳細に書き留めて後世に伝えるべきだとの使命感を持って本作を書いたに違いない。

 

 第1次世界大戦以来の、毒ガス、生物兵器などについても触れてある。第2次大戦におけるユダヤ人絶滅、九大生体解剖事件、満州(現中国東北部)における731部隊、1979年ソ連のスヴェルドロフスク炭疽菌事件、2017年マレーシアで起きた金正男殺害事件(VXガスを使った)などについても。

 

 科学技術と倫理、国家と倫理、宗教と倫理などについても問題提起がなされる。理系、特に医薬系の人、そうでない人も、読めば必ず考えるところがあるであろう。

 

科学的な知識は、・・両刃の剣であり、・・必ず倫理観に照らし合わせるべきなのだ。/オウム真理教の科学者の場合、その倫理観が偏狭な宗教によって黒塗りされてしまったのだ。」(上151~152頁)

 

第一次世界大戦で、・・科学者たちが、専門知識を生かして毒ガスを製造したとき、彼らの頭を占めていたのは「国家」だろう。・・人を大量に殺生(ママ)していいのかという倫理観は、もうどこかに吹き飛んでいたはずだ。殺すか殺されるかの戦争だから、自国民を守るため敵を殲滅するのは仕方がない-。このとき、倫理観は超法規的な概念によって無力化される。」「国家は倫理観とは無縁であってもいいのか。いや、倫理観のない国家があれば、それは危険な国家だ。」(上163頁)

 

 「教祖が必要とし、信者にしやすい手応えを感じていたのは、理系の高学歴を持つ人間だった。」「大学院まで進んだ理系の若者にとって、将来の展望は限りなく灰色だった。・・教授の意向は絶大であり、思い通りの研究はできない。・・しかも、その予算は驚くほど貧弱だった。/それに比べると、教団にはふんだんに金があった。・・まるで研究の楽園そのものだった。倫理観の代わりに、教祖に忠誠を誓った科学者は、もはやそこから抜け出せない。・・」(下297~298頁)

 

 「本書を、オウム真理教の一連の犯罪で、命を捧げた人たち、傷ついた方々、今なお後遺症に苦しむ人々に捧げる・・」(下408頁)

 

 解説の国松孝次警察庁長官(オウム事件当時。何者かに撃たれたが回復)の言葉も付け加えておこう。「(13名の被告人たちは死刑になったが、)決着がついたのは、刑事事件としての「オウム真理教事件」であって、事件の背景をなす諸相の解明は、少しもついていない。・・今後、全社会的に検討しなければならない重要課題は、ほぼ手付かずのまま残っていると言わざるを得ない。」(下427頁)(R5.9.19)

 

 2024.9付記

 2018年7月安倍内閣のときに13人を死刑にした(法務大臣はあの人です)が、上記の問題に加え、世間の目をそちらに向け、別の問題(3月に森友文書かいざん発覚、赤木さんの自死、佐川さん辞任などの一連の問題)から目をそらさせようとしたのではないか? という疑問がある。