James Setouchi

2024.9.4

林芙美子『浮雲』

 

1        林芙美子:1903(明治36)~1951(昭和26)

 本名フミコ。山口県下関市生まれ。は宮田麻太郎という行商人。は林キクという人で、鹿児島の桜島の温泉宿の娘だった。宮田が桜島を訪れ関係を持ち、二人は行商の旅の途上下関でフミコを生んだ。私生児として届けられた。宮田は金持ちになると芸者を家に入れたので、キクは数えで8歳のフミコと家出、沢井喜三郎と再婚。沢井は行商をした。フミコは小学校時代佐世保、下関、鹿児島などを転々とし、学校も休みがちだった。1916(大正5)年尾道でフミコは養父と実母と一緒になり小学校を8年かけて卒業、尾道高等女学校に学ぶ。女学校では友人もなく陰気で閑散とした図書館にこもり本を読んでいた。自叙伝によれば工場の夜業に通い、また休暇中には女中をした。(粉飾かも知れない。研究者によっては、実父宮田麻太郎の経済的援助があり、本人が言うほど貧困ではなかったとする見方がある。)だが尾道時代は彼女の中では比較的落ち着いた日々だった。1922(大正11)年、因島出身の岡野という青年と駆け落ち同然で東京に出て同棲。岡野は明治大学商科の学生だったが、卒業するとフミコを捨て郷里で就職した。1923(大正12)年関東大震災を文京区根津で経験。このころから詩作をし、ペンネームを林芙美子とする。芙美子は東京を転々としつつ、銭湯の番台、家政婦、住み込み女中、女工、飲食店の女中、株屋の事務員、女性新聞の記者、帯封書書き、代書屋の手伝い、毛糸店の売り子、夜店などをして働いた。童話や詩を売りに回り、詩人、俳優、アナキスト、プロレタリア作家、宇野浩二、徳田秋声、平林たい子らとも知り合う。俳優の野村吉哉と知り合うが別れる。画家の卵の手塚緑敏と結婚。手塚は優しい人だったという。『日本詩人』(新潮社)『文芸戦線』(プロレタリア文学)『女人芸術』(長谷川時雨主宰)に作品を発表し始める。1930(昭和5)年『放浪記』(第1部)が改造社(当時有名な出版社)から出版されベストセラーになる。この時27歳。翌年『風琴と魚の町』を発表。以下、『清貧の書』『牡蠣』『稲妻』『晩菊』『浮雲』など、作品多数。戦時中は佐多稲子らと満州慰問、また報道班員として南方にも行った。なお放浪続きの人生だったが、1941(昭和16)年新宿区下落合に和風の立派な家(現在林芙美子記念館になっている)を建てた。1951(昭和26)年没。(集英社日本文学全集昭和47年版の林芙美子集の巻末年譜及び和田芳恵の解説を参考にした。)

 

2 『浮雲』

 1949(昭和24)年11月から1951(昭和26)年4月まで『風雪』続いて『文学界』に連載。昭和26年4月六興出版社から出版。林芙美子はその6月末に亡くなった。

 

(登場人物)(かなりネタバレします)

ゆき子:主人公。親戚の伊庭の家にいたが伊庭との肉体関係が嫌で戦時中のインドシナ(ベトナム)へ。そこで富岡と出会う。戦後引き揚げるが富岡との関係を断つことができず・・

富岡:農林省に勤める男。妻子を日本に残してインドシナの森林へ。そこでゆき子と出会う。戦後帰国し、ゆき子との関係が再開する。

ニウ:インドシナの女中。富岡と関係し妊娠。富岡に捨てられる。

加野:農林省の若い男。まじめな青年。インドシナでゆき子に恋をするが富岡に取られ逆上、ゆき子に切りつけてしまい逮捕される。戦後は帰国して横浜の労働者になり、病を得て死亡。

篠井春子:ゆき子とインドシナに行った若いタイピスト。サイゴンで別れた。戦後再会する。

邦子:富岡の妻。人妻だったが富岡と結婚した。戦時中富岡を待ち続けた。戦後長く病にあったが没。

おせい:群馬の伊香保温泉にいた若い女。富岡と出会い関係を持ち出奔し東京へ。

向井清吉:おせいの夫。伊香保温泉に住む。出奔したおせいを東京に探しに来て殺害、逮捕される。

ジョー:戦後ゆき子が貧困に喘いでいたときに出会った外国人。ゆき子にラジオや食品などをくれた。

伊庭:ゆき子の親戚。ゆき子が若いとき肉体関係を持った。ゆき子はそこから逃れるためインドシナに行った。戦後再会。伊庭はやがて金儲けのための新興宗教の幹部となり金持ちになり・・

 

(以下、ネタバレしてしまいます)

 結構面白い。土曜映画劇場のような俗流三文ドラマと言ってしまえば言える。想定外の展開がいくつもある。引き延ばしているんじゃないか、と思われる向きもあるかもしれない。でも面白い。

 

 題名の『浮雲』とは何か? 本文では富岡の生きる姿が「浮雲のような」とある。「いつ、どこかで、消えるともなく消えてゆく、浮雲である。」(ラスト)また、「人間というものの哀しさが、浮雲のように頼りなく感じられた。まるきり生きて行く自信がなかったのだ。」(22)とある。集英社日本文学全集の和田芳恵の解説によれば、「一切の幻滅の底に行きついてしまって、そこから再び萌え出るもの、それが、この作品の題目であり、『浮雲』という題が生まれた。」と作者自身は昭和26年の六興出版社の「あとがき」に書いているそうだ。本文だとはかなく悲しいイメージだが、作者のコメントだと再起・再生の希望が語られていることになる。

 

 男と女の別れられない宿命のようなものを描く。男にも業のようなものがあり、女にも業のようなものがあり、二人は別れようとして別れられない。「誰にも見のがされている、空間を流れている、人間の運命を書きたかったのだ。・・私の考えた一つのモラル。そうしたものを意図していた。・・神は近くにありながら、その神を手さぐりしている私自身の生きのもどかしさを、この作品に書きたかったのだ。・・」と作者は言う。(前掲書「あとがき」)これは、仏教で言う因縁のようなものか。「色即是空」であるはずなのに「空即是色」とばかりに妄執にとらわれてしまう人間のありさまを描いていると言うべきか? 実は富岡はすぐゆき子に飽きて他の女に次々と手を出す。しかも夫のある女性に手を出すという悪い傾向がある。これはけしからん。だが、ゆき子の方がより一層富岡に執着して接近を図っている。(なぜ富岡だけに惹かれるのか? 体臭かも知れない、とゆき子が考えるくだりがある。動物学者に言わせれば富岡の出すフェロモンにゆき子は惹きつけられているだけだ、となるのだろう。)物語では、男と女の両者の業、というよりは、ゆき子の方がより執着が強い。事態の起動力(事態を動かす動因)になっている。女性作家なのに男の富岡の内面を描いていると感心するが、それでもやはり女性の妄執をより描いている。

 

 道徳的にはけしからん連中だ。煩悩から脱すればいいのに。この意味でも三文ドラマだ。

 

 二人は戦時中にインドシナ(ベトナム)の山中で出会った。そこは一種の別天地で、戦後の混乱を生きる二人にとって懐かしい思い出の地だ。インドシナの思い出の描写が繰り返される。ゆき子はあの素敵だったあの別天地の富岡の幻影を求め続ける。富岡は、過去には帰れない、と言いつつ、ゆき子に引きずられていく。

 

 日本人論もある。戦争への批判もある。インドシナを占領している日本の兵隊は「孤独な頼りなさで群れて歩いていた」「歩いていると言うよりはそこへ投げ出されているといったほうがいい」(5)、「富豪の留守中に上がり込んでいるような不安で空虚なものが心にかげってくる。(7)。「勝つとは思えないよ」(8)「人の財宝を、突然ひっかきまわしに来た、自分たちは、よそ者に過ぎなかろうではないか」(10)、「教養のない貧しい民族ほど戦争好きなものはないように考えられる」(36)などなど、批判的な視点が繰り返されている。他方「この敗戦も、なしくずしの日本の革命だったのだ」(58)などの言及もある。林芙美子が南方に慰問に行ったときの印象と、敗戦後の現実とを踏まえて、林芙美子はこれを書いたのだろう。

 

 敗戦で富岡も伊庭も男はみんなしょぼくれてしまった。「自分の周りの男は、どうしてこんなに落ちぶれて卑しくなってしまっているのか」(21)とゆき子は思う。「戦争は、僕たちに、ひどい夢をみせてくれたようなものさ・・・。どうにもならん、魂のない人間ができちゃったものさ・・・」(27)と富岡は言う。心中死に誘おうとする富岡に対して、しかしゆき子は肯んぜない。女たちはあるいは米兵に接近し物資を貰って生活する。それをしない邦子(富岡の妻)は病気で死んでいく。(歳月を経て再会する男に美しい自分を見せたい、再会してみると男が落ちぶれていて女は変わらない、とは『晩菊』も同じ構図。)

 

 富岡は戦後家を売って新事業に挑むが失敗し全てを失っていく。妻も死ぬ。

 

 伊庭はあやしげな新興宗教で稼ぎ始めた。戦後は貧乏・病・戦争(「貧・病・争」)に苦しむ人びとが多く新興宗教が盛んになった。もちろんまじめな宗教もあるが、伊庭は、あやしげな新興宗教の幹部に収まり、信者からどんどん金を巻き上げ金持ちになる。ゆき子は生活のため不本意ながらそこに居候するが・・・

 

 ここからさらに展開がある。

 

 富岡は屋久島の森林に仕事をもらい旅立つ。屋久島は、奄美大島返還前なので、当時日本の最南端だ。ゆき子は伊庭の教会の大金を持ちだし富岡と共に屋久島へ。屋久島はインドシナとはまたちがった異世界だった。雨ばかり降る。ゆき子は喀血し死亡する。残された富岡にとって、屋久島は人生のどん詰まりの場所なのか、それともそこは新天地となり得るのか。題名『浮雲』の解釈にも関わってくる。

 

 ドストエフスキーや聖書の引用が時々出てくる。スタヴローギンやキリーロフについては、例えば自殺の方法に関して出てくる。が、非常に深い考察があるわけではない。戦後に解禁され再注目されたそれらを材料として使っているだけのような気がする。林芙美子は聖書を深く読む時間はなかったかもしれない。代わりに怪しげな新興宗教が出てくるのだ。神も仏もあるものか、女一匹どんなにしてでも生きねば、それにしても好きな男が恋しい、とは、『放浪記』にも通底する生き方のように見える。

 

 大佛次郎『帰郷』も、南方(マレー)から引き揚げてきた男の話だ。どう同じでどう違うか。

 

 曽野綾子『ぜったい多数』では、主人公がラストで奄美大島の修道院に行く。曽野と林は世代が違うが、日本列島の最南端に結末(別天地への期待)を持ってくるのは同じ。どんづまりに見えるが、そこがターニングポイントになり新生の道が開ける、ということは経験的もある。