James Setouchi

2024.9.2

林芙美子『放浪記』第1部

 

1        林芙美子:1903(明治36)~1951(昭和26)

 本名フミコ。山口県下関市生まれ。は宮田麻太郎という行商人。は林キクという人で、鹿児島の桜島の温泉宿の娘だった。宮田が桜島を訪れ関係を持ち、二人は行商の旅の途上下関でフミコを生んだ。私生児として届けられた。宮田は金持ちになると芸者を家に入れたので、キクは数えで8歳のフミコと家出、沢井喜三郎と再婚。沢井は行商をした。フミコは小学校時代佐世保、下関、鹿児島などを転々とし、学校も休みがちだった。1916(大正5)年尾道でフミコは養父と実母と一緒になり小学校を8年かけて卒業、尾道高等女学校に学ぶ。女学校では友人もなく陰気で閑散とした図書館にこもり本を読んでいた。自叙伝によれば工場の夜業に通い、また休暇中には女中をした。(粉飾かも知れない。研究者によっては、実父宮田麻太郎の経済的援助があり、本人が言うほど貧困ではなかったとする見方がある。)だが尾道時代は彼女の中では比較的落ち着いた日々だった。1922(大正11)年、因島出身の岡野という青年と駆け落ち同然で東京に出て同棲。岡野は明治大学商科の学生だったが、卒業するとフミコを捨て郷里で就職した。1923(大正12)年関東大震災を文京区根津で経験。このころから詩作をし、ペンネームを林芙美子とする。芙美子は東京を転々としつつ、銭湯の番台、家政婦、住み込み女中、女工、飲食店の女中、株屋の事務員、女性新聞の記者、帯封書書き、代書屋の手伝い、毛糸店の売り子、夜店などをして働いた。童話や詩を売りに回り、詩人、俳優、アナキスト、プロレタリア作家、宇野浩二、徳田秋声、平林たい子らとも知り合う。俳優の野村吉哉と知り合うが別れる。画家の卵の手塚緑敏と結婚。手塚は優しい人だったという。『日本詩人』(新潮社)『文芸戦線』(プロレタリア文学)『女人芸術』(長谷川時雨主宰)に作品を発表し始める。1930(昭和5)年『放浪記』(第1部)が改造社(当時有名な出版社)から出版されベストセラーになる。この時27歳。翌年『風琴と魚の町』を発表。以下、『清貧の書』『牡蠣』『稲妻』『晩菊』『浮雲』など、作品多数。戦時中は佐多稲子らと満州慰問、また報道班員として南方にも行った。なお放浪続きの人生だったが、1941(昭和16)年新宿区下落合に和風の立派な家(現在林芙美子記念館になっている)を建てた。1951(昭和26)年没。(集英社日本文学全集昭和47年版の林芙美子集の巻末年譜及び和田芳恵の解説を参考にした。)

 

2 『放浪記』第1部(ネタバレします)

 1928(昭和3)年25歳の時『秋が来たんだ 放浪記』『女人芸術』に発表。以降連載し好評。1930(昭和5)年『放浪記』が改造社から刊行、ベストセラーに。その後『続放浪記』、敗戦後に『放浪記 第三部』を出す。日記風自伝の体裁を取る。語り手「私」は限りなく林芙美子自身に近いと思われる人物。但し小説であって、どこまで事実かどこから虚構かは知らない。小説としてリアリティを出しているところを呼んで感じればいいのだろう。研究者は事実と照らし合わせ、林芙美子の語らなかったこと、事実と乖離させたところに、林芙美子の真実の叫びを解明していく作業をしてもいい。が一読者としてはそこまでやらずに享受することもできる。

 

 幼い頃、一家は行商で暮らしていて、貧しい。北九州では「私」も小学校をやめて坑夫の町で扇子やアンパンの行商をした。・・「私」は東京に出て、あてもなく様々な仕事をした。何度も引っ越した。木賃宿に泊まる。金がない。お腹がすく。貧乏は嫌だ。プロレタリアもブルジョワもない。白い飯が食べたい。自分を捨てた男が恨めしい。ええい、負けるもんか! 同じ境遇で一緒に働く友人はいる。お互い事情があり貧乏だ。文学の友人ができた。本はあまり買えない。勉強はしたい。童話を売ってわずかな金を得る。父も母も貧しい。親を助けなければ。やさしい母のいる田舎に帰ろうか。でもまた東京に来てしまう。石川啄木の歌が心にしみる。「私」は詩も書く。「私」はどうやって生きていけばいいのか・・こうした日記が続く。

 

 毎日の日記ではない。飛ばし飛ばしであり、断片的である。全体の構成(構造)があるのかもしれないが私にはわからない。断片的でもいい、その中に「私」の事実や感情が散りばめられる。非常に論理的で緻密な論文のようなものではない。だから読者には取り付きやすいかも知れない。ドストエフスキーのような思弁は展開していない。

 

 ベストセラーになったという。だれがどんな気持ちで読んだのか。同じ境遇の人は、共感しながら読んだかも知れない。だが同じ境遇の人は、字が読めない人もいるかも知れない。知的な大学生らが読んだかも知れない。中産階級の自分たちの知らない世界があると思って読んだかも知れない。関東大震災後の人びとが、貧に耐えてそれでも頑張って生きようという思いで共感して読んだ、と誰かが言っていた。今読めば、二十代で生活が苦しく将来の方向性が見えない若者に、(ああ、自分のことだ・・)と共感を持って受け取られるかも知れない。

 

 ダダイスム、アナキスト、プロレタリア文学、宇野浩二、徳田秋声、他の女性作家らの影響もある。表現にも、内容にも。すぐれた人びとに囲まれ知的刺激を受けていただろう。その中で、彼女は最も貧しく苛烈な人生を送ってきた一人だったかもしれない。貧しい人を描きプロレタリア作家になってもよかったはずだが、そうならなかったのは何故か。

 

 佐多稲子はプロレタリア作家だ。佐多は1904年生まれだから、林芙美子(1903年生まれということになっている)とほぼ同年代で、林が少し先輩。佐多は12歳で小学校を中退し東京の工場で働く。林は小学校をあまり行かず推定年齢12,3歳頃(本人の言い分と戸籍を照らし合わせると不明瞭なところがある)には行商をしていた。似た境遇と言えば言える。林は共産党には入らなかった。

 

 田部シメ子はどうか。田部シメ子は1912年広島生まれ。広島第一高等女学校を中退し恋人(俳優を目指していた)と上京、銀座のカフェに努めているとき太宰治と出会い、心中事件で田部シメ子だけが死亡。太宰は生きた。

 

 林芙美子は尾道、田部はその隣の広島、と近い。二人とも恋人と連れだって上京した。但し林の方が9年ほど年上。林は上京後男に捨てられ、さらに別の男(俳優を目指していた)にも捨てられ、散々苦労する。カフェの女給もした。田部はカフェの女給をして太宰と出会い、死亡する。

 

 同様の事例が当時は沢山あったのではないかという気がする。これらの事例の背後にあるのは、東京と地方の経済と文化の格差二重構造と読んでもいい。東京の文化に憧れて出て行くが、東京にも貧富の差があり、経済的に困窮し、苦しんで、死んでいく(田部)。あるいは共産党に入りプロレタリア作家となる(佐多)。あるいは作品がベストセラーになる(林)。女性差別(女がよりひどい目に遭う)も黒々と横たわっている。

 

 ゾラの『居酒屋』とどうか。19世紀前半のパリの下町の貧しい鍛冶屋や洗濯屋が出てくる。

 

 林芙美子はこれを『放浪記』と名づけた。出生時から放浪の宿命だった、と本人が思っているふしがある。わりあいにいい職場ではないか、と思える場所にも居着くことなく、すぐに転職・転居を繰り返してしまう。まさに放浪。

 

 松尾芭蕉の自称漂泊の人生と、どうか。芭蕉についてよく知らないが、豊かな弟子たちのサポートがあったに違いない。紀行文『奥の細道』自体は、放浪・漂泊の境涯を演出して描いているが、実態は、弟子たちの富みに支えられての旅であったに違いない。

 

 対して、林芙美子の本書における放浪は、文字通り、今日の日銭を稼ぐために仕事とねぐらを探す放浪だ。現代で言えばプレカリアートだ。近代以前にもこのような旅芸人や放浪の宗教者の世界はあったろう。(民俗学による。)しかもその中に、林には、文学的情熱がある。本も読む。かなり知的な本だ。また抒情がある。外房の海を見る。瀬戸内海を見る。彼女は感傷する。裏切った男へのこだわりがある。同じ境遇の仲間への共感がある。思わぬ人の優しさへの感謝がある。親への思いがある。負けるものか、とする生きんとする意思がある。各所に人間的なものが噴出している。それを言語化して日記に書きとめる。詩作もする。林は放浪の中でも日々の見聞と感想を日記に書きとめ続け、それが『放浪記』のもとになったと言う。

 

 種田山頭火尾崎放哉も、貧窮しながら放浪した。彼らの中にあったのは、自由律俳句の創作の情熱だろう。

 

 内山興正師(曹洞禅)は貧乏しながら只管打坐(ひたすら坐禅)した。そこにあるのは正統仏教(禅宗)の実践の烈々たる思いだろう。

 

 イエスだって放浪した。旅をしながら人びとを癒やしていった。(治癒神アスクレピオスとの近似を言う人もある。)イエスの中には神への絶対的忠誠・信頼があった。

 パウロは? 福音を知らせる旅をした。「私の国籍は天にある」と言った。

 

 孔子の放浪はどうか。魯の国にいったんは失望し、「道」を実践する国を求めて放浪した。顔回は陋屋に住んだが貧乏しても平気だった。「道」を実践していたからである。孟子は大名行列のように車馬を連ねて自信満々で「道」の教えを説きに回ったとされている。

 

 お釈迦様は? 太子の時代には修行のために旅に出られた。菩提樹の下で悟られてからは? 釈尊は、悟った以上動かなくてもよかったのだが、神々の懇請により、教えを説く旅に出られたと言われる。

 

 法然親鸞も地方に流罪となったが、他力本願の浄土教の教えの確信があったので、どこに住んでも変わりはしない。むしろ都以外の場所に教えを説く好機と考えた。

 

 鴨長明は? 生活水準が低くなったのを嘆く言葉もあるが、最後は平気で、西方極楽浄土(仏の世界)を仰ぎ見ていた、と私は考えたい。近くに専修念仏の友人がいた。

 

 では、林芙美子の場合はどうか。

 

 彼女には宗教的信仰心があって自信を持って放浪しつつ布教する、ということはない。ただし、じたばたしながらでも、童話や詩、小説を書いていこうとする姿勢は捨てていない。小説なら懸賞金が大きいので小説を書く、と言うくだりがある。それもあるだろう。金のために書くのだ。だが、それだけでもない。別の方法でも稼げるのに、文筆にこだわったのはなぜか知的スノッブか。そうかもしれない。周囲に知的な若者(エリート大学生など)がいたから、その影響を受けているだろう。だがそれだけではあるまい。では、何だろう。

 

 私はまだ林芙美子を十分理解できていない。

 

 私小説家は、自分の経験から来る内面の真実を書いて表現することにこそ意義がある、と考えていたろう。同様に林芙美子も、そこに自己の経験から来る内面の真実を書いて表現する(リアリティーを増すために粉飾を入れてでも)ことこそが、過去と現在において辛い人生であった本人にとっても自己救済(生きた証し)になり、読者にとっても癒しや励ましになる、そのために書いていたにちがいない、と言ってみたいが、まだそこまで林芙美子を読み込めていない。今後の課題にしよう。

 

 なお、昔何度か映画化され、TVにもなった。(未見)(R6.9.2)