James Setouchi
2024.8.25
イタリア文学 エルサ・モランテ『禁じられた恋の島(アルトゥロの島)』
大久保昭男・訳 河出世界文学大系978(1980年)
Elsa Morante “L’isola di Alturo”
1 エルサ・モランテ1912~1985
ローマ生まれ。母はシチリア系、父は北イタリア系。十代から文学に熱中。17歳で短篇『灯火泥棒』、18歳で短篇『眼鏡の男』(カフカの影響があるとされる)を書く。23歳で作家・アルベルト・モラヴィアと結婚。ファシズムから逃れるためカプリ島へ隠遁。さらにローマ南方の僻村に避難生活。1945年27歳で『シチリア島の兵士』、1948年30歳で長編『偽りと呪い』(ヴィアレッジ賞)。1951年33歳で中編『アンダルシアの肩掛け』。1953年長詩『冒険』。1957年39歳で長編『禁じられた恋の島(アルトゥーロの島)』(ストレガ賞)。1959年童話『カテリーナの不思議な冒険』、詩集『アリバイ』。1974年『イーダの長い夜(歴史)』。1982年『アラチェーリ』。(河出世界文学大系の巻末年譜、集英社世界文学事典ほかを参考にした。)
2 『アンダルシアの肩掛け』
1957年39歳で刊行。長編小説。舞台はナポリ湾に浮かぶ小島、プロチダ島(実在する)。小説では、ここは他の島と違い観光客もあまり来ず島民はよそ者を警戒し黙ってひっそり暮らす島だ。この島には巨大な監獄がある。時代設定は第2次大戦前夜と思われる。
(登場人物の紹介)(ややネタバレ)
アマルフィ人ロメオ:プロチダ島の古い修道院を改築した城館に住む奇人。城館を「男の館」と呼び、女を寄せ付けなかった。晩年は目が見えず孤独に暮らし、「私」の父ウィルヘルム(まだ若者)のみを相手にし、亡くなるとき彼に「男の館」と財産を譲る。
アントニオ・ジェラーチェ:「私」の祖父。アメリカからやってきた。ドイツで女性との間に男子を持っていたが放っていた。その男子ウィルヘルムを島に呼び寄せ相続人にした。
ウィルヘルム・ジェラーチェ:「私」の父。ドイツにいたが16歳の時この島にやってきた。アマルフィ人ロメオに気に入られ、19歳で「男の城」を相続する。妻と子(アルトゥロ)があったが妻はすぐに死亡。ウィルヘルムは極端な女嫌いで、かつ一所に居着かず放浪癖がある。息子(アルトゥロ)の目にはすばらしい英雄に見えたが・・
アルトゥロの母:この島に来るがまもなく死亡。写真一枚しか残っていない。
アルトゥロ・ジェラーチェ:語り手「私」。語りの時点はすでに大人になっているが、当時幼い「私」は父を崇拝している。学校に行かず本を読み犬を相手にして暮らし、将来は父と共に英雄的な旅に出ることを夢想している。
シルヴェストロ:「私」の下男で家庭教師。「私」のただ一人の友人。
コスタンテ:料理人。
イマコラテッラ:「私」の犬。メス。
ヌンツイアタ:父の再婚相手。ナポリ出身。「私」の1歳年上で、敬虔なカトリック教徒。彼女の出現で「私」は・・・
フォルトゥナータ:島の産婆。高齢。
カルミネ・アルトゥロ:父とヌンツイアタの間にできた男子。赤ちゃん。
ヴィオランテ:ヌンツイアタの母親。ナポリ在住。肥満した中年過ぎの女。
アッスンタ:島に住む、「私」の年上(21歳)の未亡人。「私」の情婦となるが・・・
トニノ・ステッラ:島の監獄の囚人。若くて美しい。実は・・・
(コメント)(ネタバレします)
かなり極端な、人に対する崇拝とも言える愛情を扱っている。「私」は父を崇拝するがその偶像が壊れる日が来る。また、ほぼ同い年のヌンツイアタ(父の再婚相手、「私」にとっては継母)に「私」はそうとは気付かず恋をしてしまうが、「私」はまだ未熟で相手を理解できず相手を激しく拒んでしまう。ヌンツイアタも、父には愛されず、「私」に対し恋愛感情を抱いてしまうが、敬虔なカトリック教徒の立場上それは許されず苦悩している。「私」の目線からの語りなのでヌンツイアタの真実は語られていないが、各所の記述をつなぎ合わせるとそうなりそうだ。(例えば「私」の情婦アッスンタへのヌンツイアタの怒りなど。)父もまた実は同性愛者でトニノ・ステッラに求愛し続けるが、トニノは異性愛者なので、父のこの愛は報われない。誰もが報われない愛に苦しんでいる。
語りは「私」の大人になってからの視点で語られている。ゆえに大人になって成熟した「私」が当時の幼かった「私」を批評する場面がいくつかある。それよえ読者は、幼い「私」が今は成熟した大人になっていると安心して読むことができる。
「私」は母の愛を知らず父を崇拝し継母に実母の代理を求めるがかなわず煩悶する。遊び相手は犬だ。「私」も愛に飢えた子だ。「私」は、世間知らずで夢想癖があり父親を偶像視する少年だったが、父の実像に触れ、アイデンティティが崩壊した。「私」は父を崇拝していた分だけ父を憎むに至るが、一連の出来事を経て、弱い立場の父を哀れむこともできるようになった。これは「私」の自立・成熟の物語でもある。「私」は父との思い出の島を去る。「パパ。さよなら」の言葉が繰り返されて、切ない。『アンダルシアの肩掛け』は母と子の物語だったが、『禁じられた恋の島』は父と子の関係が主軸だ。
アマルフィ人ロメオも父も極端な女嫌いだ。女嫌い(ミソジニー)の物語でもある。この城館に女が来ると不幸が起きる、という「男の城」伝説を語る。ロメオがなぜ女嫌いになったかは書いていない。晩年のロメオは話し相手としてウイルヘルムを必要とした。ロメオも人間に(愛に)飢えていたのだろう。ウィルヘルムはヌンツイアをこの城館に招き入れ、ヌンツイアはこの城に住み、出産には島の女たちが協力し、ヌンツイアと息子はさらにその後この島で長く生きた、とある。「男の城」伝説は崩壊した。
父の人物像が深刻だ。父は息子や妻には絶対的独裁者として君臨する。だが、幼い「私」が崇拝し英雄視した虚像とは違って、実像は、世間的には認められない同性愛者だった。同性愛の相手トニノにも相手にされず、報われない。息子とも喧嘩別れしてしまった。父のその後は書いていない。ここが心配だ。父は自分勝手な人生を生きている。財産の裏付けがあるからだ。父は女嫌いの同性愛者なのに、どうして結婚・再婚したのだろうか? わからない。異性愛も持っているが同時に極端な女嫌いで同性愛だ、ということのようだ。では、どうして女嫌いになったのだろうか? これは、明確ではないが、生育歴において両親に愛されなかったことが関係しているかも知れない。父は愛に飢え愛を求める人だった。
ヌンツイアも、結婚相手のウィルヘルムに愛されず、義理の息子となったアルトゥロにも拒まれ、孤独だ。自分が生んだカルミネを大事にする。人は誰かに愛され、また誰かを愛したい、ということだろう。
ツルゲーネフの『初恋』は、自分が恋した女性は実は父の愛人だった、という話だが、本作と似ているようで全く違う。ヌンツイアを父と「私」が争うわけではない。
『源氏物語』では、父桐壺帝の妻である藤壺女御を光源氏が愛してしまい、藤壺女御が苦しむ。この関係の方が近いかも知れない。ただし桐壺帝は藤壺女御を大切にする。モランテの本作では父はヌンツアを大切にしない。
ラスト近く、事態を切り開くのは、シルヴェストロだ。彼は幼い「私」にとってよき先生であり成長する「私」にとってよき先輩だ。だがここでは詳論しない。各自読まれたら感じるものがあるだろう。しかも第2次大戦前夜で、彼らは兵隊に行く。(しかもイタリアは枢軸国だ。)「正義の戦争などない」とシルヴェストロは知っている。慧眼の持ち主だが、それでも兵隊に行くことになる。時代社会の矛盾を作者は書き込んでいる。
(ここで少し視点を変える。)(まだ途中。うまく整理できていず、わかりにくいところがある。いずれ修正したい。)
エルサ・モランテの『禁じられた恋の島』では、アマルフィ人ロメオが「私」の父に財産を譲るときに、ロメオは「父」に言った。・・今お前にちょっとした財産を譲る。お前は働かないで暮らせるようになる。仕事はうすのろがすることで、立派な男のすることではない。努力も時として喜びを与えるが、労働ではダメだ。無償の努力なら有益で快いが、努力は無益で想像力を損なう。万一金が不足して働くときには、想像力を損なわない仕事をすることだ。例えば探検家のような。しかし、仕事を持たないことが一番だ。パンしか得られないなら、パンだけで我慢する生活をしてもだ。・・
ロメオの主張はおおむねこのようであるが、少し概念を書き改めてわかりやすくしてみよう。ここで「報酬のために致し方なくする努力」を「労働」と呼び、「報酬のためではなく喜びを与える努力」を「仕事」と呼ぼう。すると、ロメオの主張は次おようにまとめ直すことができる。「労働」は報酬のためであり想像力を損なう。「仕事」は報酬のためでなく想像力を損なわない。生活のために「労働」することがあっても、それは最低限にとどめるべきだ。生活水準は低くて構わない。大切なのは想像力を損なわないことだ。
こうロメオが言えるのは、ロメオに多くの財産があり、また養うべき家族がいないからではある。が、必要以上にいわゆる「生活水準」を高くすることはないのであって、人間として大事なもの(ここでは想像力)を損なってはならない、とロメオが言うのは、聞くに価する主張かもしれない。
ヘンリー・ミラーも、要約すれば、「アメリカの資本主義システムに組み込まれて嫌な仕事をするのは嫌だ、自分は文筆で精神界に偉業を為すのだ」とうそぶく。(その実彼女が高級娼婦をしていて食わせて貰う。ヒモであり人間のクズだとも言えるが・・)(『ネクサス』ほか)
キリストは、「神の愛と神の義をまず求めよ、そうすれば皆与えられる」と言った。マルタが働きマリアがキリストの話を聞いたとき、あくせく働き客人のもてなしに精力を使い果たすマルタに対して、神の声をじっくり聞くマリアをよしとした。もちろんロメオは無神論者であってキリストとは違うが、つまらない「労働」によって大切なものを損なうべきはない、という主張は同じだ。
ロメオの主張は作者自身の主張ではないが、「想像力を大事にする」という言い方には、作家である作者の主張がこめられているかもしれない。
ここで、「仕事」「労働」というものについての捉え方をおさらいしてみよう。(辞書的な知識ではあるが。)
以下は書き直したので削除します。R6.9.14アップの、経済社会系「総裁選のさなか」(1)(2)を御覧下さい。長文です。R6.9.14JS