James Setouchi

2024.8.26 

日本文学 

文章経国思想と「紅旗征戎、我が事にあらず」

 

 (再掲)

 

 定家は「紅旗征戎(こうきせいじゅう)、我が事にあらず」と言ったという(『明月記』)。源平の争乱、あるいは承久の乱のような、政府軍の錦の旗を掲げて賊軍を征伐するなどということは、私の関与することではない、として、ひたすら和歌の道、古典文学の道に打ち込んだという。

 

  日露戦争や太平洋戦争のとき、あるいは現代において、「全国民が正義の戦争に奉仕しているこの国家の一大事に、和歌などにうつつをぬかすとは、非国民だ」と考えるか、「正義の戦争などない、私はもっと長い目で人類の文化や社会に貢献する」と考えるか、あるいは? 

 

 ヘンリー・ミラーは、Gオーウェルに向かって、スペイン内戦を見物に行くならいいが義戦を信じて戦闘に参加するのは愚かだ、と言ったとか。(ミラーは自分勝手な人に見えるがもっと大きな精神革命に貢献しようとしていたとも見える。)政治的営みなどは矮小で、それを越えた精神的営みがあるのだ、と言いたげだ。

 

 (戦争に兵隊として参加するのではなく超越瞑想(TM)をして全ての人の意識のレベルを上げる方が根本解決になるのだ、と言っておられた先輩がおられたなあ・・)

 

 参考までに、漢詩文については「文章経国(もんじょうけいこく)」思想というものが中国から伝わり、例えば9世紀初めの初めの嵯峨天皇の時代には盛んだった、と言われる。

 

  中国で有名な曹丕の文章経国論(『典論』から)では、

 「蓋し文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり。年寿は時有りて尽き、栄楽は 其の身に止まる。二者は必至の常期あり。未だ文章の無窮なるに若かず。是を以 て古の作者は、身を翰墨に寄せ、意を篇籍に 見 (あらわ) す。良史の辞に仮(よ) らず、飛馳の 勢に託せずして、声名自ずから後に伝わる。故に西 伯 [周文王] は幽せられて易を演( の) べ、 周 旦 [周公旦] は 顕 (あらわ) れて礼を制す。隠約を以て務めざるにあらず、康楽を以て思を加う るにあらず。……[中略]…… 融 [孔融] 等已に逝く。唯だ 幹 [徐幹] のみ論を著して一家の 言を成す。」(某論文からの孫引き)

 これについての細論はここでは省略する。曹丕(そうひ)は三国志の曹操の子で魏の皇帝。そもそも「経国の大業」とはどういう意味か? など注釈・解釈が要りそうだ。

 

 これらを受けて9世紀初めの嵯峨天皇の時代には漢詩文を隆盛せしめた。『経国集』という漢詩文集もある。

 

 唐風文化を受け入れた朝廷において、漢詩の会はしばしば政治的諷諫の場でもあったろう。菅原道真(9世紀末)の漢詩を見ればわかる。(他方摂関家にとってはそれは不都合なことであったかも知れない。)

 

 では、「文章経国」思想は国風の和歌においては引き継がれなかったのか? という問いを立てることができる。

 

 10世紀初めの古今集仮名序を読み直すと、紀貫之は和歌の起源を天地開闢から説き起こし、和歌の効用として「天地を動かし、鬼神を感動させ、男女の仲を和らげ、猛き武士の心を慰める」とは書いている。これは文章経国思想を意識した上で、それをある形で継承し、さらにそれ以上の大きな精神的意義を語ろうとしているようにも見えるし、意図的に政治的発言を回避しているようにも見える。専門家のご意見を承りたい。(菅原道真失脚直後に『古今集』は出た。)

 

 新古今に戻れば、実際には、例えば、平安末期から鎌倉にかけての政治的大変動に立ち会って、具体的な政治的内容についてストレートには表現しないが婉曲に触れたとも解釈できる歌がありそうだ。(天台座主慈円の新古今1782番(1201年)などは「月ぞさやけき」の「月」を、真如の月であると同時に後鳥羽上皇と取れば、政治的発言とも解釈できるのでは? 私は専門ではないので詳しい方にご教示願いたい。

 

 具体的な政治的イシューに触れる和歌と、具体的な政治的イシューを脇に置き(あるいは矮小なものとみなし)高邁な精神的営みを紡いでいく和歌。

 

 文章経国思想はその根本の精神は形を変えて継承されているのではないか? という気がするが・・? それを意識していたからこそ藤原定家は戦乱を前にして「紅旗征伐は我が事にあらず」と敢えて言ってのけた(文章経国はどちらの政治勢力が勝つと言った小さなことにはとらわれない、自分はもっと大きな精神革命に従事しているのだ、と言いたい)のかもしれない・・・?(全て想像です。)