James Setouchi

2024.8.24

 

第171回(令和6年7月)芥川賞受賞作品から

松永K三蔵『バリ山行』

 

1        作者 松永K三蔵:1980年茨城県水戸市生まれ。14歳でドストエフスキー『罪と罰』に出遭い「世界の最果てにある断崖絶壁の縁に立たされた気に」なった。関西学院大学卒。卒論は坂口安吾。会社員をしながら小説を書く。『カメオ』で群像新人賞、『バリ山行』で芥川賞。「ままならないもの」「不条理」に対してどう生きていくか、が一貫したテーマ。「オモロイ純文運動」をしている。登山も趣味。松永K三蔵はペンネーム。(文藝春秋の本人へのインタビュー他を参考にした。)

 

2      『バリ山行』

(1)あらすじ(ネタバレしてしまいます)

 舞台は現代の神戸あたりの中小企業「私」は30代くらいの会社員で、過去にリストラを経験したトラウマを持つ。今の会社が3年目だ。妻と幼い娘がいる。会社は2代目社長になり元請けの仕事をやめて大手の下請けになろうとしている。その過程でリストラも行われる。「私」は不安である。社内に妻鹿(めが)さんという変わり者の先輩がいた。社員から浮いている。防水関係については随一の実力を持つ。会社の方針に逆らい、昔からの顧客を大事にしている。家族は、父親と福祉作業所に通う弟とあるが、これについては作中で掘り下げられない。理解者の藤木常務は退職した。妻鹿さんは、休日に山歩きをする。六甲山系(最高931m)を、正規の登山道から離れて自分の好きなように歩き回る、「バリ登山」(バリエーション登山)をしているのだ。「私」は、自分が会社でまたリストラされるのではないかと不安を感じつつ、独自のやり方で仕事をし、独自の山歩きをしている妻鹿先輩のことが気になる。

 

 「私」は、あるとき防水の仕事で妻鹿さんに助けてもらったことから、妻鹿さんに好意を持ち、妻鹿さんとバリ登山をすることになる。バリ登山の前半は楽しかった。「いいですね!」「いいですねコレ!」・・だが、後半は悲惨だった。「私」は滑落し一歩間違えば死ぬところだった。疲労もあり、「私」は不機嫌になり、会社勤めの不安もあって、妻鹿さんに理不尽にくってかかってしまう。妻鹿さんは答えない。このバリ登山のあと、「私」は肺炎になって寝込み長期休暇をとる。

 

 年明けて久しぶりに出社。「私」は自分がリストラ対象者だと恐れていたが、退社していたのは妻鹿さんだった。妻鹿さんは、昔ながらの顧客を大事にすべきだと主張し社長と喧嘩して、辞表を書いてしまったのだ。「私」は妻鹿さんに謝らないといけないと思いつつ、その機会を失ってしまった。

「私」はなぜか妻鹿さんと同じようにバリ登山を行うようになっていた。登山で不思議な高揚感を「私」は体験する。妻鹿さんが登山を続けた理由が少し分かったような気がした。「私」は妻鹿さんと行ったルートを辿り、どこかで妻鹿さんに会えないかと期待して山を歩く。ラスト、妻鹿さんと接近遭遇したような気がして、小説は終わる。

 

(2)感想

 とりあえず面白い。

 

 全体に文章が読みやすい。(私が世界文学全集の翻訳を読むことが多いのでそう感じるのかも知れないが、)作者は意図的に難解な表現を避けて読者にわかりやすい表現を採用しているようだ。これはさすがだ。

 

 妻鹿さんは、会社の正規ルートではなく独自のやりかたで仕事をする。また、登山も正規ルートではなく独自のルートを行く。人生も正規のルートがあるわけではなく、自分なりの道を行くしかないということか?(審査員の中には会社と登山を重ねるやり方がやや直接的だ、と厳しい意見もあった。)

 

 会社は、神戸の甲子園あたりの海風の香るあたりが仕事場。これは読んでいて心地よい。また、六甲山は、標高があまり高くなく、都会から近く、かなり上の方まで宅地化されているが、同時に登山をする場所もあるようだ。平野啓一郎が、作者は「非日常」を六甲山=「日常に隣接する場所」に持ってきた、と言っているのは、うまい。(文藝春秋R6年9月号270頁)

 

 登山は、会社の仲間と楽しく行く登山、妻鹿さんと二人で行くバリ登山、妻鹿さんに倣って「私」が自分だけで行くバリ登山、と三種類書いている。第三の、妻鹿さんに倣って一人で行く登山の、何とも言えない高揚感を、「私」は体感した。これからも「私」は登山に行くのだろう。・・これは、理性でなく感性、精神でなく肉体、を再発見しようという、近現代によくあるテーマではある。NYやシリコンバレーの知的エリートたちが休日にハワイやアラスカで登山をする、という話を聞く。仕事ではPCばかり見ているが休日にジョギングをしてドーパミンが出るのを楽しむ、という例も同様か。妻鹿は、会社の先行きに関する不安よりも、登山の最中の生命の危険の方が本物だ、と言う。「私」も登山を経て「肝の底に豪胆な何かが居座っ」たとある。これは作者の実体験でもあるだろう。作者自身が「ごちゃごちゃ考えずに行動するしかない・・そうすることでしか物事は動いていかない・・」と言っている(文藝春秋R6年9月号290頁)。

 

 ただし、私はアウトドア系ではないのでもう一つ共感しなかった。どこかで聞いたような話だと感じた。登山途中にドーパミンが出たから諸問題はわきに置いておける、ということにはならない。社会問題に目を背けて五輪と酒に浸っても問題は解決しない。戦前戦中は「ごちゃごちゃ思索や議論をしていないで体を鍛えて特攻で突っ込め!」というイデオロギーが跋扈していた。その挙げ句に日本は焼け野原になったのだ。警戒すべきだ。(『葉隠』も教養はいらない、ただ突っ込め、と教えている。)

 

 会社が、自分で顧客を開拓して営業していくのではなく、大手の傘下に入り下請けになっていくという話は、よく聞く。その中で、ではどうすればいいのか? は問いとして出されたままで、答え(のヒント)は書かれない。作家自身は「妻鹿は・・ヒロイックに書かれています。」と言っている(文藝春秋R6年9月号289頁)が、妻鹿は辞表を書き、年老いた父親と障がいのある弟とともに、これからどうやって生きていくのか。そこに悲劇の可能性を私は感じてしまった。

 

 (登山の補足)

 登山は、時間内に「速く高く強く」記録を出す近代スポーツとは少し違うスポーツだが、風景を対象物として捉え(ペトラルカのバントゥー山登山以来)、情報を収集し身体を使って目的を達する、という点では、まぎれもなく近代の生んだスポーツだ。(修験道の山の修行や猟師の猪狩とは違う。)自然の中にいるようだが、テントや防寒具をはじめ都会的なもので身体を防御して行う、人工的・都会的な営みだ。獣のように裸で山中で寝泊まりしナマの昆虫や動植物をガリガリ食べるわけではない。

 

 かつては(よく知らないが)登山部・山岳部・ワンダーフォーゲル部は日本でも盛んだったと聞く。私の知人は、かつてはスキーを担いで徒歩で登山し山頂でスキーをした、またスキーを担いで徒歩で下山した、と言っていた。(車とリフトでスキーに行くのとは全く違う世界だ。)京大山岳部は名門で、アウトドアのフィールドもできる偉大な学者が大勢出ている。

 

 だが、今はどうか? 登山はまずお金がかかる。また危険だ。数年前北関東で複数の高校生が遭難死して引率教師が裁判で訴えられた。引率教師自身が滑落死したケースもある。残された妻子はどうなるか。登山は経験豊富な人のガイドがないと生命の危険をもたらす。(本作では語り手は妻鹿さんという優れたコーチにリードされるが、一カ所、妻鹿さんがニヤリと笑ったかもしれないところが気になった。できない人に併せてゆっくりにすればいいのに、できる人はニヤリと笑ってまた獣道に入る。結果、語り手は滑落する。)現代の大学や高校で、登山部・山岳部があって顧問教官がいないから若い人がやりなさい、と無理矢理業務命令を出しても、無理なものは無理だ。

 

 もちろん防災や人命救助の観点から、登山の技術を持った人は世の中に必要だ。自衛隊、警察、消防などで予算を投入して実力のある人を育てることはあってもいいだろう。だが、民間の素人にそれを押しつけるべきではない。大会で競うことも不要だ。大会で競うから煽られて事故になる。安全第一にして、さっさと撤退したチームから順番に1位にすればいいのでは? と言いたくなるくらいだ。(他の種目も同じ。)それとも、あなたが顧問を買って出ますか? 

 

 (会社の補足)

 中小企業が大手の子会社化していく話はよく聞く。あるとき引っ越しを大手業者に頼んだら、地元の業者さんが大手の装いで現われた。伺うと、「今はどこもこうなんですよ、大手が受注して、我々小さい業者が動くんです」というお話であった。しかも働いている人は非正規とバイト。別のある業種も、都会の大手企業の傘下に入り、そこから社長が天下っている、利益はそこに抜かれるので、末端の社員の給料は安くなる、ということだった。また本作の妻鹿他数名のようにリストラされた人はどうなるのか。ここの不安が本作に流れる重要なテーマの一つだ。

 

 日本は会社を首になったらどうなる? という不安がいつもある。その恐怖で正社員を縛って使い捨てる。他方非正規・バイトなど不安定就労も多い。作者は「自分は会社員だ、読者も組織で働く人が多いと思う」という趣旨のことを述べている(文藝春秋R6年9月号291頁)が、今の日本では会社に属さず非正規やバイトで将来の不安を抱えている人も多い。正社員だけの統計では日本の現実は見えない。本作はここの踏み込みがあと一歩甘い。(ところで、社会保障が充実し将来の不安があまりない北欧では、このような小説は成立しない、ということになるのか?)語り手はリストラされた過去があり今もリストラの恐怖を感じているが、主人公の妻は大手保険会社でとりあえず生活できている。語り手には有給休暇や振休がちゃんとある。プレカリアート(不安定な就業状態にある非正規労働者や失業者、ニートなど)ではない。現代日本ではプレカリアートの立場に立てることが大事だ。(近年の芥川賞作にそれはあった。)中流が没落して下流化しているのだから、これは全国民的課題だ。語り手もその妻も明日は我が身だ。「私はそれなりに頑張ってきたから今があるのよ」と叫ばなくていい。周囲のサポート、安全な日本社会(富裕層がいればすぐ誘拐やテロで狙われる社会ではない)などなど、諸条件が幸運にもあっただけで、あなたの努力はごく一部でしかない。わからない人は湯浅誠の本でも読むといい。 

 

 自分で起業してやれる人もあるが、みんながみんなその知恵才覚を持っているわけではあるまい。個人事業主はいろんな点で不利な立場に置かれていると聞く。アメリカは何度失敗しても再チャレンジできる社会だと言われる。日本はどうか。アニメを描いて受け入れられず逆恨みして放火した人を、世間では「良識ある人」のふりをしてバッシングした。確かに放火・殺人はいけない。だが、そこに追い詰められてしまうまでに、社会の側で受け止めることができなかったのか。いま彼をバッシングしている人は、何をしていたのか。一人でもそういう人を出してはいけないのに、我々の社会はすでに何人も出している。あれらの事件は、我々の社会の歪みの現れでもあるのだ。

 

 有名大学を出て大企業に入り福利厚生もしっかりした会社に入る人は少数なので、そうではない不安定な状況にある多くの人が安心して暮らせる社会にするべきでは。繰り返すが、中流が下流化している。しかも高齢者や障がい者の世話を引き受けている。「自助・共助・公助」と誰かが言ったが、逆なのだ。自助も共助もできない現場を知らない恵まれた人の発想でしかない。空理空論とはこのことだ。報道に出ていた、あの若い母親は何故子を捨てたのか? あの彼はなぜ老母を殺害したのか? なぜそんな事件が続くのか? どうして高齢者がニコニコ隠居できず無理をして働いているのか? 語り手の妻の実家の親が超高齢化して認知症が進んだとき誰が世話をするのか? 会社を辞めた妻鹿は老父と障がいのある弟とともに、これからどう暮らしていくのか? 作者はこの点から考えて続きを書いてほしい。平野啓一郎なら私の言っていることがわかるのでは?